誰がため(2)

 皇舎の屋根伝いに走り終えると、森林地帯に入った。ここで私は下ろしてもらい、ギルと一緒に走り出した。ここも皇舎の敷地内だが、離宮はこの先にあるためほとんどの人が存在を知らないのではないかと思った。森林地帯といえども一応は舗装されているので、木につまづいたりすることはない。

 ここまで誰にも見咎められることはなかったが、あるいはもう気付かれていて監視されているか放置されているのかもしれない。それならそれで都合がいい。

 木々の先に見慣れた建物が見えてきて、私はギルの腕を叩いて木の陰に隠れた。ギルも私の隣で幹に背をつける。

 木々の隙間から見えるのは、建物とそれを隙間なく囲む塀だ。正門とされている入口に、明かりに照らされて小さく兵士が二人立っているのが見える。おそらく塀のまわりを巡回している兵士もいるだろう。森林地帯の出口から塀までは約五百メートル、見通しのよい平原なので普通に出ていけば確実に見つかる。

 ギルとは事前に打ち合わせてある。見張りの目が届かない上空までスイル(飛行呪文)で上がり、塀の内側に着地する。

 私はギルの方を見て、頷いて肩をつかんだ。再び横抱きにされて、ギルが呟く。

『世界の続き 透に包まれ 鳥に願い この身の全てを飛行させる スイル』

 体が浮いたのと同時にギルは地面を蹴って、木々の背を越え、空に出た。黒い空の下で塀に囲まれた建物がどんどん小さくなっていく。こちらからも見張りの兵士の姿が見えなくなったあたりで、ギルは上昇するのをやめた。月が欠けていたのも幸いだった。網に引っかかっていたら既に位置は筒抜けだが、今はこちらからからも向こうの行動は見えない。

 平原の中に建つ建物は三階建てで、皇舎に比べればかなり小さい。建物の隣には庭園があり、塀は庭園と建物を囲んでいる。正規の門は先程見た正門だけだ。

「建物の右で間違いない?」

 私は返事をして、建物の右側と塀の間を指さす。

「あのあたりで」

 牢は建物の地下階にある。建物に侵入するために窓をやぶるか、最悪見張りを気絶させて正式な入口から侵入する手はずになっている。

「少し移動する」

 ギルが高度はそのままに、降下する場所まで移動し始める。高さに時折恐怖感が蘇るが、必死に何も考えないように努める。

「じゃあ、少し下りる。見張りが見える位置まで下りて、問題なければそのまま着地する。いい?」

「あ、呪文準備するのでちょっと待って下さい」

 私は心の中で呪文を唱えて、左手に魔力をとどまらせる。

「大丈夫、です」

「了解。下りる」

 ややゆっくり、体が落ち始める。下を見ていようと思ったのに、既に怖くてギルの胸の方に顔をそむけて目を閉じてしまう。一瞬体が止まって、すぐにギルの声が落ちてくる。

「そのまま着地する」

 本当に落下と同じくらいの速さで体が落ちて、私は上げかけた悲鳴をかみ殺した。途中、ギルが腕をさすってくれたのが分かって、歯を食いしばってギルの肩をつかむ。

 ブレーキがかかるように速度が落ちて、多少の衝撃と共に落下の感覚が終わる。

「アリア、気付かれた」

 ギルが舌打ちする。考える間もなく慌ただしい足音が近付いてきて、私は急いで足音の方に左手を向ける。

『ワプラ』

 建物の角からこちらに出てきた兵士に雷撃を放つ。兵士はそのまま倒れて、あたりは静かになった。

 音がないのを確認してから、私はようやく地面に下りた。兵士に気付かれた場合、私が前もって唱えておいたワプラ(雷呪文)を発動して気絶させるということになっていた。

「着地が甘かった、ごめん」

 ギルは小さな声で言って、倒れている兵士の方へ近付いていく。兵士が動かないのを確認してからその体を抱えて植え込みの陰へ隠した。

 ギルは一階の窓に近付いて、私も側へ行く。窓は私の胸より上にあって、鍵がついた両開きのものだ。ギルはジャケットの内側、ショルダーホルスターから見慣れない道具を取り出して窓硝子に当てた。円を描く時に使う道具に似ていて、ギルが硝子の上で円を描いて道具ごと手前に引っぱると、硝子は綺麗に円く抜けた。手袋をして、円く抜けた穴から手を入れて鍵を外すと、窓が開いた。

「ブリューテ・ドウタの道具箱から失敬してきた」

 私が驚いていたからだろう、ギルは言って、抜いた硝子と道具をジャケットの内側にしまうと窓から一階へ侵入した。

 下り立ったのは廊下で、侵入してきた窓側は一面に窓が連なり、反対側には部屋の扉が等間隔で並んでいる。地下への階段へ一番近い場所から侵入したから、階段まではまっすぐ進んで角を一つ曲がるだけだ。見張りはいるだろうが牢までは近い。

 私は進路の方を向いて、止まった。足音が聞こえてくる。それも複数だ。行動するより先に私はギルに腕をつかまれて、一番近い空き部屋に連れこまれた。部屋の中にも窓があり、すぐにしゃがみこんで扉の隣の壁に背をつける。鍵がかかっていないのが幸いだった。ほとんど使われていない建物だったから鍵まで手が回らなかったのだろう。暗い部屋は窓からの弱い月明かりにベッド、チェストなどの調度が浮かび上がり、埃っぽい。

 ギルを見ると、ギルは口の前に人差し指を立てて扉をうかがった。耳を澄ましていると、離れたところで扉が開かれた音が聞こえる。先程の足音の主達が空き部屋を調べて回っているのだろう。入ってきた瞬間、気絶させるか。左手を握ると、ギルがこちらを見る。

「地下って、そこ曲がったとこ?」

 ギルは小声で言って先程私が見ていた方を指す。私は頷いた。

「入ってきたら気絶させますか」

 ギルは首を振る。

「見張りが多い。これ以上気絶させたら不自然だから、一気にどいてもらう」

 ギルはジャケットの内側のショルダーホルスターから銃を抜く。

「入ってきた瞬間、一人残して気絶させて。残った一人を脅して不審者が外に逃げたって言ってもらう。いい?」

 私は頷いた。心の中で呪文を唱えて左手に魔力を止める。ワプラ(雷呪文)は詠唱破棄できるから、数人ならすぐに気絶させられる。

 耳を澄まして、遠くの扉が開けられていく音を聞く。段々音が近付いてきて、私とギルが立ち上がったと同時に扉が開かれた。

 視界に捉えられたのは、三人、一番手前の兵士を残して奥の二人に雷撃を放つ。二人は小さなうめき声と共に倒れて、ギルは既に手前の兵士に銃を向けていた。

「おい、どうした」

 外から足音が聞こえてきて、もう一人扉の向こうに兵士が現れるが、準備していた雷撃を放って気絶させた。ギルに銃を向けられた兵士は若く、目を見開いて固まっていた。

「一度しか言わないからよく聞け。今から不審者が外に逃げたって叫べ。いいな」

 ギルが銃を構えたまま一歩近付くと、兵士は小さく悲鳴を上げた。

「ブリューテ、ドウタ」

「早く。命令と違ったら撃つ」

「ふ、不審者が外に逃げたぞ」

 兵士が叫ぶと、ギルは兵士の腕を取って部屋の中に引きこんだ。ジャケットの内側から、円い硝子を取り出して窓へ向かって投げる。硝子が割れる派手な音と同時に扉を閉め、兵士に銃をつきつけたまま壁に背をつける。複数の足音が駆けてきて、扉の外で話し声が混じり合う。

「外を探せ」

「畜生、大丈夫か」

「俺は負傷者を診るから追え」

 足音が遠ざかっていって、ギルが私の腕を軽く叩く。私はゆっくりと扉の方へ移動して、扉を開けて介抱している兵士が言葉を発する前にワプラ(雷呪文)を放った。倒れた兵士の上に兵士が折り重なり、私はギルの指示で倒れている四人の兵士を部屋の中へ引き入れた。

「次。地下階段前まで行って残ってる見張りがいたら、隊長命令で不審者を追えって言え」

 脇腹に銃を当てられた兵士は、壊れた機械のように何度も頷いた。

「行け」

 ギルが銃で兵士の脇腹を押すと、兵士は転がるように地下への階段がある方へ廊下を走っていく。兵士と間隔をとって、ギルが姿勢を低くして走り出したのに私も続く。兵士がまっすぐな廊下の終わりを曲がって、ギルは角の手前で止まって壁に背をつけてしゃがみこんだ。

「どうした」

 ここからは見えないが、地下階段前の見張りだろう兵士の声が聞こえる。どうやら二人いるようだ。

「不審者が出たので、外に、追って下さいって隊長が」

 先程の兵士は動転しているのかまくし立てる。わずかな沈黙の後、見張りの一人が「俺は様子を見てくるから二人はここにいろ」と言い、靴音が響き出す。

「二人一緒に行って下さい」

 兵士が弱々しい口調で叫んで、内心で舌打ちする。かたわらのギルを見るとやはり苦い表情をしていて、私の腕を軽く叩いて、曲がり角の先を指差して頷いた。

「何で二人一緒に行く必要があるんだ」

「それ、は」

 言葉が続く前に私は曲がり角から飛び出して、左手を横に振るう。

『ワプラ』

 階段の前に立っていた三人全員に火花が散って、三人は床へ崩れ落ちた。

 ギルは曲がり角から出てきて、兵士を見下ろす。

「作戦甘かった。けどこいつも使えない」

 私とギルは倒れた三人の兵士を階段の少し下ったところへ横たえて、せめても気付かれにくくした。けれど外に行った兵士達が戻ってきたら気付かれてしまうだろう。あまり時間がない。

 私とギルは地下への階段を下りていった。壁の燭台に炎は燃えているが、外の光はもう届かない。記憶が確かなら地下は階段を下りてすぐ牢になっていたはずだ。

 一段一段下っていくごとに、ざらついた空気が体をなぶっていく。私は助けを求めるように、思わず前を行くギルの腕をつかんでしまった。ギルは驚いたように振り返る。

「どうした?」

「ごめんなさい、ここ、いい思い出が、なくて」

 異形の王城で鎖に繋がれて自分を失いかけた時に思い出したのが、この場所だ。だから私は、怖い。

 ギルは私がつかんでいた方の腕を取った。

「ちゃんとつかんでるから」

 私は頷いた。ギルがいるからきっと暴走はしない。大丈夫だと言い聞かせた。

 階段を下りきって、鉄格子のはまった空間に出た。左右に一つずつ牢がある。一度しか来たことがないのによく覚えていた。

 壁に燃える小さな炎に照らされて、右の牢に、白い髪が輝いたのが見えた。

「レイジ」

 私は呟いていた。ギルが私の腕を取ったまま牢の前へ歩き出す。靴音に反応したように、牢の中の壁にもたれたレイジはこちらに黒い目を向けた。

「ギルに、アリアちゃん」

 レイジは呟いた。そこに笑顔はなく、一目で分かる程生気がなかった。傷がないから、拷問された訳ではないと思った。けれどレイジの目には光が、なかった。

「話しに、来た」

 ギルは鉄格子の向こうのレイジに向き合う。沈黙が続いて、レイジが小さく口を動かす。

「何を?」

 ギルは迷うように目を伏せる。

「お前が、本当にスパイなのか」

 レイジは力なく口元で笑みを作った。

「今更何言ってるの? スパイじゃなきゃ捕まる訳ないでしょう」

「本当なのか?」

 まだどこか否定されるのを願っている目でレイジを見つめたギルに、レイジは笑みを消した。

「本当だよ」

「何で」

 ギルは叫びかけて声を落とした。

「何でも何も、スパイとしてここに来たんだから、それ以上の理由はないよね」

 レイジは言い聞かせるように言ってギルを見つめる。ギルは鉄格子に指をかけて、握りしめた。

「今まで見てたお前は、全部嘘か?」

「嘘ではないよ。大体合ってる。ただ、俺が王に情報を流してたってだけで」

「それがお前のやり方なのか?」

 ギルの語気が強まる。

「仕事だからね。だからアリアちゃんにも言ったけど、謝ることはできない」

 レイジは私の方を見て、わずかに微笑んだ。

「でももうそれも終わりだから」

「待てよ」

 ギルは鉄格子を揺らす。

「言いたいことだけ言って終わりかよ、何の断りもなく死ぬのか?」

「別にギルに断ることなんてないよ」

「そのまま楽に死ぬなんて許すか」

 ギルは苦しそうな、けれど挑むような目でレイジを見据える。

「今からお前を逃がす。さっさと逃げろ」

 レイジは珍しいものを見るような顔でギルを見上げた。

「何言ってるの?」

「お前を逃がす」

 レイジは眉をひそめて、うつむいた。

「本気で言ってるの?」

「この場で冗談なんか言うか」

「じゃあ早く戻れば? もう充分話したでしょ」

「ふざけんな」

 ギルは声を上げすぎたのに気付いたのか、苦い顔で唇を引きしめる。

「心遣いはありがたいけど。たとえ逃げたとしても向こうにはもう戻れない」

「どうして」

「王に売られたから。陛下はあの検査をする前から俺が零間だっておそらく分かってた。王が陛下に知らせたんだと思うよ」

「何でそんなこと分かるんだよ」

「その一は王と連絡が取れないから。王と俺は魔力で繋がってる。最初ここが魔力妨害されてるのかと思ったけど、あの人はそういうの関係ないんだった」

 以前、ルリオスティーゴは魔力の狂った森で私の夢に入って居場所を特定している。それと似たような仕組みなのかもしれない。

「その二は、俺があの人を裏切ったから。覚えてる? リウ族のところで襲われたの。あの時二人を逃がすためにあの人に攻撃した」

「それは、でもあの場で攻撃しなかったら不自然だろ」

 ギルは幾分落ち着きを取り戻したのか、静かな声で言う。

「そうだね、でも攻撃するにしても上手く外すとか、あの場は二人を逃がしちゃいけなかった。でも俺は本気であの人に攻撃した」

「どうして」

 ギルの声は独り言のように小さかった。レイジが少しだけ微笑んだような気がして、間が空く。

「まあ何にせよあの人は裏切りとか大っ嫌いだから、切り捨てられたんだと思うよ」

「何でそんなに平気そうなんだよ」

 苛立ちが混じったギルの声に、レイジの表情は最初のように硬くなる。

「別に平気じゃない。死ぬのは、怖いし」

「じゃあ逃げろよ」

「だから聞いてなかったの? ここにも向こうにも、帰る場所はないんだって」

 強くなる二人の声を裂くように、私はレイジの名前を呼んでいた。静まった牢の中で、レイジも、ギルも私の方を向く。

 言わなければ。レイジが遠くなってしまう前に。

「私は、ごめんなさい、私はただ、死んでほしく、ない」

 震える指先を握っていた。胸がえぐられるように痛んで、熱い。

 レイジは本当にわずかに、困った子供を見るように微笑んだ。

 靴音が聞こえて体が跳ねた。振り向いた先、階段を下りたところに陛下が立っていた。

「話し合いは満足したか?」

 陛下が歩んできて、私はとっさに前に出ていた。

「ここに来たのは私の意志だから処罰は私だけにして」「アリア」

 ギルが私の言葉を取るようにかぶせる。

 陛下は歩みを止めずに牢の前へ立った。

「話してみて分かっただろう。レイジ・アヤセに逃亡の意思はない」

 私は言葉につまった。

「レイジに何か、したの」

「何もしていない。最初からこうだったから私も毒気を抜かれたくらいだ」

 陛下は牢に目を移す。レイジは既に虚ろな目で牢の床を見つめていた。

「戻りなさい。今回のことは大目に見る」

 陛下は元来た階段の方へ歩いていく。

「父様」

 私は叫んでいた。

「レイジを、殺さないで」

 声が震えていた。何も考えられなかった。

 陛下は一瞬立ち止まって、何も言わず階段を上っていった。

 炎が燃える音が聞こえる程静かになって、ギルが鉄格子を揺らした音で振り返った。

「レイジ、出ろ」

 ギルはうつむいていて表情が見えなかった。ただ、静かな声で言った。レイジは床を見つめたまま何も答えない。

「おい、聞こえてんだろ」

 ギルの声が高くなっていく。

「何とか言えよ、死にたいのか?」

 ギルは叫んで、気付いたように口を歪める。それでもレイジは口を開かなかった。

 ギルは苦しそうに眉を寄せて歯を噛みしめると、鉄格子に手をかけたまま崩れ落ちるようにしゃがみこんだ。

「お願いだから、死ぬなよ」

 絞り出した声はかすれて、高く小さかった。

「どうして、そんなに引き止めるかな」

 音のない中、こちらを見ずにレイジは呟いた。

「死んでほしくないからに決まってんだろ」

 ギルは顔を上げて叫ぶ。レイジの表情が吹き出した時のようにわずかに変わった。

「いいんだよ、異形の方にも戻れないし、ここにいる場所もない」

「だから何で諦めるんだよ、そんなに死にたいのか?」

「ギルを犠牲にしてまで、生きようとは思わない」

「何の犠牲だよ」

 しゃがみこんでレイジと同じ目線になっているギルの目を、レイジはようやく見つめた。

「最後だよ、戻って」

「戻らない」

 ギルの金色の目は、噛みつくように鋭かった。

「お前がここを出るまで、戻らない」

 レイジはしばらくギルの目を見つめた後、目をそらして、額に手を当ててため息をついた。

「何で、俺こんなのと友達になっちゃったんだろう」

「悪かったな、諦め悪くて」

 レイジは顔を伏せて、そのまま片手で顔を覆った。

「戻ってよ、処罰、受ける前に」

「処罰を受けたとしても、殺されはしない」

 レイジは更に深く、うずくまるように顔を伏せた。

「俺が逃げたら、ギルを異形として一生幽閉するって、言われた」

 ギルの目が見開いた。

「言わないでおこうと思ってたのに、あんまりにも諦め悪いから」

「陛下が、言ったのか?」

「そうだね。検査の時石を赤くしてたから、こうするためだったのかもね」

 私は階段の方を見上げた。

「陛下に言ってきます、今ならまだ」

「アリアちゃん」

 走り出そうとする私をレイジが呼び止めた。

「言っても同じだよ。もし撤回させたとしても陛下が約束を守る保障はない」

「そんなの私が何とかします」

 私も場所を構わず叫んでいた。

「気持ちは嬉しいけど。あいにく逃げる気はないんだ」

「自分の命がかかってるんだぞ」

 ギルは鉄格子を握りしめたまま呟いた。レイジはうつむいたギルを見て、真剣な表情をした。

「でも、ギルが俺でもきっと同じことすると思うよ。友達を犠牲にして、逃げて、生きていけるの?」

「大人しく幽閉される訳、ないだろ」

「それはそれできっと異形として殺される。そういうことが言いたいんじゃ、なくて。ギルとアリアちゃんが自分の安全より俺を逃がそうとしてくれたみたいに、俺は俺のために逃げないだけ」

 ギルが口を開かなかったからか、レイジは続けた。

「何て言えばいいのか分かんないんだけど。俺、ギルには幸せになって欲しいんだよね」

 ややあってレイジはギルから顔をそむけた。

「言いたくなかったなあ、柄じゃないから」

 乾いた笑い声をこぼして、レイジは息を吐き出す。

「だから逃げないよ」

 何か叫びかけたギルの声をかき消すように、レイジは声をあげる。

「本当は、もっと」

 そこでレイジは言葉を止めた。ゆっくり吐き出された息が、震えていた。

「一緒に、いたかったよ」

 無理に笑おうとした声は、とても苦しくて、悲しくて、温かい。

 整えるように息を吐き出す音が続いて、レイジの衣擦れの音が聞こえた。

「一個、昔話しようか。それで、本当におしまいね」

 ギルは鉄格子を握りしめてうつむいたまま、何も言わなかった。私は溢れてくるものを押し留めようと胸元を強く握っていた。

「昔々あるところに狼の零間がいました。狼は貧民街でその日暮らしを送っていましたが、ある日今の王、ルリオスティーゴに拾われて王城に連れていかれます。理由はよく覚えてないけど、王城に連れていかれた狼はルリオスティーゴについて働くことになりました。けれど王城には狼の零間なんて女中しかいないので、狼は陰で結構酷い扱いを受けました。でも狼は自分を貧民街から連れ出してくれたルリオスティーゴに恩を感じていました。だからルリオスティーゴに一生ついていこうと決めました。

 狼が少し大人になると、人間のところへスパイとして送られることになりました。左遷されたと狼は不満たらたらでした。人間と仲のいいふりをするなんて絶対に嫌だと思いました。

 潜入先の皇舎には、狼と同い年くらいの赤髪の少年がいました。この少年がまた問題児反抗期まっさかりで、教育係の女性も手を焼いていました。けど少年は問題児のくせに体力だけはやたらあり、狼は魔法以外の持久走とかその他もろもろは全部負けていたので、内心すごくライバル心を燃やしていました。

 まあ狼も反抗期だったので教育係の女性にはすごく迷惑かけたんだけど。ありがとうって言っといてよ。ね? 少年?」

 レイジは振り向いて、頭をたれているギルを見つめた。レイジはとても穏やかな表情をしていて、微笑んでいるようにすら見えた。

「で、そんなこんなで狼が皇舎ですごすようになってしばらくたって、あれ、ここってもしかしてそんなに悪くないかもと思い始めました。狼にこんなに気の合う仲間ができたのは生まれて初めてでした。特に狼は少年と仲良くなりました。他の仲間と上手くやっていけたのも少年の存在が大きかったと狼は思いました。だから、本当は自分がスパイだということに段々絶望感が増していきました。自分はスパイだから、ずっとここにはいられない。まあでもスパイじゃなかったとしても零間だからどっちにしろ駄目だったけどね」

 レイジは朗らかに笑った。まるで辛いことなど何もないとでもいうように。

「けど狼は少しでも長くみんなと一緒にいたかったので、ルリオスティーゴを裏切りました。覚えてる? リウ族のところで王に攻撃したの。あれ、別に裏切ろうと思ってやったんじゃないんだよ? 条件反射ってやつ」

 レイジはギルに向かって語りかけていたが、ギルは顔を伏せたまま上げなかった。レイジは仕方がなさそうに微笑む。

「そんなこんなで、狼はいつの前にかみんなが大好きになっていたのでした。めでたしめでたし」

「めでたくなんか」

 ギルが叫んで顔を上げた。ギルの横顔は今にも泣き出しそうだった。レイジはほんの少しだけ微笑んで、目を伏せた。

「おまけ。狼は赤髪の少年が大好きだったよ。一番好きだった。だから金髪の女の子とお幸せに」

 レイジは息を吐き出した。息はわすかに震えていた。

「狼は、今度は人間に生まれ変わって、みんなにもう一回会いにいくって、約束しました」

 レイジの声が震えた。

「だから、待ってて」

 ギルはレイジを見つめて、崩れ落ちるようにその場に膝をついた。ギルは肩を震わせて、やがて押し殺した嗚咽をもらした。

「おし、まい」

「馬鹿野郎」

 レイジの呟きにギルの叫び声が重なった。私は目を閉じて、こみ上げてくるものを抑えようと息を止めた。

 どうしてだろう。どうして誰かのために誰かが犠牲にならなければいけないのだろう。間違っている。認めたくない。悲しみも、憤りも渦巻いている。

 だけど、もう。

 私の問いに答えはない。私は嗚咽を噛み殺して、顔を覆って、泣いた。


 その日はよく晴れていた。見渡す限りの広い空は透き通るような水色で、吸いこまれそうに綺麗だった。

 普段なら何でもない昼休みの正午、レイジの処刑が執行された。皇舎の広場にはブリューテ・ドウタから一般兵まで皇舎中の人間が集まり、高い断頭台を囲むように立った。私とギルは隣同士だった。

 断頭台に続く階段を、手錠をかけられたレイジが執行人に鎖を引かれて上がっていく。白色の髪と、銀色の狼の耳が陽の光を綺麗に散らしていた。

 断頭台の前に立ったレイジは、ここからだと後ろ姿しか見えなかった。

「最後に、何か言いたいことはあるか」

 レイジのかたわらに立つ執行人が尋ねて、レイジはわずかに顔を持ち上げた。息を吸う音が、魔力で拡声されて聞こえた。

「一日早いけど、誕生日、おめでとう」

 私は目を見開いていた。レイジの表情は見えない、けれどいつものように穏やかな声だった。感情の波が渦巻いて、視界の下の方にどんどん膜がかかっていく。私は息をつめて、赤い軍服の裾を思い切り握りしめた。

「では、前へ」

 レイジが断頭台の前にひざまずいた。駄目だ、ちゃんと、最後まで見届けなければ。レイジの頭が断頭台の向こうへ消えた。

 執行人が刃に繋がる鎖に手をかけて、止まったような間の後、鎖が引かれた。

 刃が落ちた瞬間、私は目を閉じてしまった。たまっていた涙が頬を流れ落ちて、こみ上げてくる感情を抑えきれず、顔を伏せてしゃくり上げた。

 耳の奥で、刃が落ちた音が響いていた。

 けれどきっと、私の隣にいるギルは、最後まで目を閉じなかった。

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