ごめんねって言えない(1)

 扉の開く音で、目が覚めた。もう頭は半分起きていて、浅い夢を見ていたから、寝返りをうって入口の方を見た。まだカーテンが引かれて薄暗い部屋の、入口の扉からギルが気まずそうな顔でこちらを見ていた。

 一瞬、頭が止まる。昨夜のことを思い返して、反射で跳ね起きて毛布を胸元まで引き上げていた。

 飛行船で皇都へ戻ってきたのが昨日の夜中、時間が遅かったというのもあって私は簡単な検診を受けた後、医務室で眠るように言われた。戻って来れたことに安心したのか、疲れていたのか、シディが持ってきてくれたネグリジェに着替えるとすぐ眠ってしまった。

 そして、今である。医務室自体は個室で鍵がかかっていないので誰でも入れる。それはいいのだがシディが持ってきてくれたネグリジェは胸元が広く開いていて、ネグリジェなので当然裾がまくれるのである。いつもなら下に何かはくのだが、今は下着しかつけていない。毛布はかかっていたので寝乱れていないことを確認してひとまず安心する。まさか先生より先に男の人、ギルが来るとは思わなかった。

「ごめん、起こした、よな」

 ギルは小声で言って私から視線をそらす。もう起きているのだから声をひそめる必要もないと思うのだが、気遣いに思わず笑ってしまう。入っていいですと言いたいところなのだが、いかんせん髪もぼさぼさだろうし、何よりこの格好だと恥ずかしい。けれど医務室に着替えの予備はないから、ギルを待たせたまま取りに行く訳にもいかず諦めた。

「あの、入っていいです、けど、顔洗ってきていいですか」

「いや、いいけど」

 ギルは何やら悩むように小さくうなり声を上げて、「じゃあお邪魔します」と言った。私はまだカーテンを開けないうちに毛布をマントのようにかぶったままベッドを降りる。

「何で毛布巻いてんの?」

 ギルがまっすぐに私に近付いてきて、思わず後ずさりしていた。

「あの、ちょっと、薄着で」

 ギルも何やら気付いたのか私から体の向きをそらして気恥ずかしそうに頭をかく。

「や、本当はもう少し遅く来ようと思ったんだけど、気になって。ごめん」

 何だかとても恥ずかしい。どうしてこんなに恥ずかしいのだろうと思って、昨夜王城でギルにされたことを思い出して一気に頬が熱くなった。

「顔洗ってきます」

 叫んで、私は毛布を踏まないようにしながら洗面所へ歩き出す。右足から金属の音と質感を感じて、ああそういえば足かせがついたままだったと思ったら、腕を引かれて驚いて振り返った。

「鎖、ついたままなのか?」

 ギルの目は険しく、ルリオスティーゴを殺すと言った時の目を彷彿とさせた。

「鍵がないと取れないそうなので、今日鍵師の人が来てくださるそうです」

 足かせが取れるまで通常訓練には戻れないが、私と私の作戦に関わった人は今日はどちらにしろ休みである。今更気付いたがギルもワイシャツにショルダーホルスター、黒のスラックスにチョーカーで、赤い髪は何もつけていないのかまっすぐだ。

 ギルは険しい目のまま私を見ていたが、気が付いたように手を離した。

「ごめん」

 ギルが目をそらしたので変に意識してしまい気まずくなる。

「カーテン、開けていい?」

 ギルがカーテンの方へ歩いていき、私は返事をして部屋が明るくなる前に洗面所へ向かった。

 顔を洗って、口をすすいで、髪を手ぐしで整えて戻ってくると、窓から入った陽差しがシーツの白に反射して眩しかった。ギルはベッドの側に椅子を出して腰かけていて、私の方を振り返って微笑む。赤い髪が陽に照らされて鮮やかにきらめいていた。

 私はゆっくりとベッドの方へ近付いて、元のようにベッドに座るべきか悩んだ。何となく二人きりでベッドの側にいるというのは、恥ずかしい、気がする。

「座っていいよ」

 ギルがベッドを指したので、私は口ごもった。けれどここで断れば逆に意識しすぎだろうと思って、まだ毛布を巻きつけたままベッドに浅く腰かけた。

「あの、何か、用があったんですか?」

 言ってから、何だか嫌味のようになってしまったことに気付いて慌てて首を振る。

「いえ、あの、迷惑とかではなくて」

 ちゃんと浮かんできた気持ちを言葉にしようと思った。きっと言わなければ、伝わらない。

「う、嬉しい、です」

 すごく自分の態度が歯がゆいし、よく分からない。けれどギルは少し驚いたような顔をして、柔らかく微笑んだ。

「俺も嬉しい」

 面と向かって言われるととても恥ずかしい。私はうつむいて、胸の前でかき合わせた毛布を見ていた。

「普通に心配だから来たんだけどさ」

 ギルを見ると、真剣な顔をしていた。

「聞いてもいい? この間の返事」

 この間。私は小さく呟いてから記憶を探って、頭が真っ白になった。

「それは、その、返事ってどういう」

「俺はアリアが好きだけど、アリアは」

 ギルは真剣な表情のまま、けれど何かを覚悟したような目で私を見つめていた。

 好き、なのだと思う、おそらく。ギルに触れられても嫌ではないし、離れていた時一番最初に会いたいと思ったのもギルだった。けれど少し戸惑いの方が大きい。これが、本当に恋愛の好きなのだろうか。

「あの、ごめんなさい、よく、分からないんです」

 ギルを見ると、少し、ひるんだ顔をしていた。

「あの、でも嫌いとかそういうのではなくて。ごめんなさい、もう少し、考えていいですか?」

 ギルを傷付けるつもりはなかったので私は矢継ぎ早にまくしたてた。けれどやはり、傷付けてしまっただろうか。ギルはうつむきがちに目を伏せて私の方を見なかった。

「それ、さ、分からないってどういう風に」

 言葉の途中に扉がノックされて、私はギルの方を見てから扉に向けて返事をした。

 扉から最初に顔をのぞかせたのはレイジで、その後ろからシディの姿が見えた。

「あれ。ギル、早いね」

 特にからかっている風ではない口調だったが、ギルはそっけなく返事をしただけだった。少し鼓動が速くなってギルの表情をうかがうと、やっとギルはこちらを見て、わずかに微笑んだ。

「ごめん。分かった。待ってる」

 ギルは椅子から立ち上がって、扉の方へ歩いていく。

「帰るの?」

「飯食ってくる」

 ギルはレイジと入れ違いに出ていき、レイジは懐中時計を取り出して「ああ、そんな時間かあ」と呟いた。

 レイジとシディが部屋に入ってきて、私は閉まった扉を眺めて視線を落とした。

「喧嘩でもしたの? じゃないか」

 レイジが困ったように頭をかく。私は言葉を選んで説明しようとしたが、その前にレイジが口を開く。

「あ、いいよ、言わなくて。人の恋路に首つっこむと大変だからね」

 レイジはいつものように笑いながら、さっきまでギルが座っていた椅子に座った。

「アリア、着替え」

 シディが折りたたまれたワイシャツとスラックスを差し出して、私はありがたく受け取った。

「というか何であんた毛布かぶってるの?」

「だって。シディがネグリジェ持ってきたから」

 私が泣きそうな声で叫ぶと、シディは一瞬眉をひそめて思い出したように手を打った。

「先輩が先に来たから毛布かぶったってことね。えらい進歩じゃない。最初はおんぶされても平気だったのに」

 動力炉でのことを言われているのだと思って納得した。確かにあの時は大丈夫だった。けれど今おぶられたら別の意味で恥ずかしい、気がする。

「一応俺もいるんだけどねー」

 レイジに言われて私は毛布の前をかき合わせた。

「レイジにも恥ずかしいです」

 力一杯言うと、吹き出された。

「力説ありがとう。今更だけど具合はどう?」

 私は体の中の魔力の流れを感じてみる。

「大丈夫です。魔力が戻るのはあと数日かかりそうですけど」

 シディも椅子を持ってきてレイジの隣に座る。

「それならよかった。で、今丁度ギルいないから言っちゃうんだけど、二週間後にギルの誕生日があるんだ。一緒に祝わない?」

 誕生日と聞いて私の中に様々なことが思い浮かぶ。

「ギル、二十一歳になるんですか?」

「そうだね」

「いつもお祝いしてるんですか?」

「やったりやらなかったりだけど、最近はブリューテ・ドウタの中では有志でやってるね」

 誕生日は祝われたことがあるが、私はまだ六年しか生きていないし、祝ってくれるのは本当の父様と義理の父様、つまりラルゴ・エイム・オウヴァとエルドイ・トリニアだけだった。私は知能も見た目も人間の十八歳相当だというけれど、実際はギルの三分の一も生きていなくて、埋められない隔たりのようなものを感じた。

「一緒にお祝いして、いいんですか?」

「もちろん。っていうかしてあげないと凹むと思うよ。本当はアリアちゃんがプレゼントとかが一番いいと思うんだけど」「先輩」

 シディが低い声でレイジの語尾をかき消す。

「冗談。じゃあアリアちゃんも参加ってことで」

「具体的に何をしたらいいんですか?」

 レイジはあごに手を当てて上を向いた。

「とりあえずケーキ頼むし、部屋の飾り付けとかもあるし」

 レイジは何かひらめいたように声を上げて私を見た。

「欲しいものギルに聞いてきてくれないかな。一つだけで、あんまり高くないやつね。なければないで教えてくれればいいから」

 今ギルと話をするのは少し気まずいのだが、自分の気持ちに踏ん切りをつけるいい機会かもしれない。

「締切は今日から一週間ね」

 私が頷くと、扉がノックされた。返事をすると顔をのぞかせたのは初老の男性で、皇舎に勤めている医師だった。私も小さい頃からよくお世話になっている。

「じゃあ、よろしく。何か困ったことあったら言ってね」

 レイジが席を立つとシディも席を立って部屋を出ていった。私は今後に若干の不安を抱きながら、かぶっていた毛布を緩めた。


 午後になり鍵師がやって来て、ようやく右足の足かせが外れた。やはりずっと足かせをはめられているというのは気分のよいものではない。体にも異常はなく、その夜はようやく自分の部屋に戻ることができた。

 パジャマに着替えて、椅子の背に腕とあごを乗せながらぼんやり置時計を見ると二十時だった。結局今日は診察と足かせ外しで終わってしまったと思っていると、扉がノックされた。一瞬、ギルかもしれないと思って鼓動が速くなったが、女子棟に男性が入るのは禁止なので違うと思い直す。

 扉を開けると、パジャマにガウンをはおったシディが立っていた。

「どうしたの?」

「ちょっと話があって」

 私の顔に出たのが分かったのだろう。シディは付け足した。

「全然深刻でも重要でもないんだけど、ちょっと言っておきたかっただけだから」

 シディは言い訳するように私から目をそらす。とりあえず私はシディを部屋へ招き入れた。

「何か飲む?」

 シディは少し悩むようにうなって、「もらえるなら」と言った。一人用の冷蔵庫に牛乳があったので、鍋にかけてホットミルクにすることにする。膜が張ってしまうのは仕方がないと諦めて二人分をカップに注ぎ、蜂蜜の瓶を持っていった。シディは既に丸テーブルの椅子に座っていて、私はカップと蜂蜜の瓶を置いて向かいに座った。

「ありがと」

 シディは蜂蜜を入れずにホットミルクを一口飲む。私がスプーンでひとさじ蜂蜜をすくって牛乳をかき混ぜたところに、シディが顔を寄せてくる。

「こんな時間に蜂蜜飲んだら太らない?」

 言われて初めて私は考えた。

「よく分かんない」

 今まで太るとか太らないとかを考えたことがなかった。

「まああんたはもう少し太ってもいいと思うけどね。って訓練してれば筋肉ついて嫌でも太るか」

 私はふと思い出してカップを置いて両手で包んだ。陶器を伝わってくる熱が温かい。

「男の人って胸大きい方が好きなの?」

 割と勇気を出して聞いてみたのだが、怪訝な顔をされた。

「流行り廃りはあると思うけど、まったくないよりはあった方がいいんじゃない。完全に好みだと思うけど。ってか何で?」

「ええと、向こうの王城で男の人は胸が大きい人の方が好きだって言ってたから」

「随分平和的な内容ね」

 その通りだと思う。というか何だかんだで気にしてしまっている自分が少し嫌だ。

「胸大きい方が好きって言ってたの? 先輩」

 シディがからかうような顔でこちらを見ているのに気付いて、顔が熱くなる。

「せ、先輩ってどっちの」

「ギル」

「言われてないし聞いてない」

 叫ぶとシディは笑い出した。

「まあ言いそうにないよね。というかあの人はアリアが何であれ好きだと思うよ」

 好きという単語が急に現実味を帯びてきて、私は頬が熱いままうつむく。

「好き、なの、かな。やっぱり」

 言ってから、今朝返事を迫られたことを思い出して何を言ってるんだと自分で思う。

「好きでしょうね。あたしから見て分かるくらいだから」

「好きって見て分かるの?」

 シディは小さくうなりながらホットミルクを一口飲む。

「何か、接し方が柔らかいっていうか。先輩は誰にでも割と優しいけど、あんたには特別丁寧っていうか」

 本人から好きと言われているし、疑う余地はないのだろう。そもそも疑ってかかって私はどうしたいというのだ。

「どうやったら、好きって分かるのかな」

 胸の中にあるのは困惑だ。どこからが好きでどこからが特別でないのか、分からない。

「あんた先輩のこと好きじゃなかったの?」

 シディは意外そうな顔で私を見ていた。

「嫌いじゃない、けど、好きって、よく分からない」

 私は思わずシディの方に身を乗り出していた。

「というか何でみんな好きって分かるの?」

 半ば叫ぶと、シディは困ったように眉を寄せる。

「別にみんな分かってる訳じゃないと思うけど」

「じゃあ何で好きって言うの?」

「先輩から好きって言われたの?」

 言い当てられて、首筋に熱が上がってきて私は何も言えなかった。

 シディはまだ若干困った顔のまま、カップをもて遊ぶ。

「じゃあちょっと冷静に聞いて欲しいんだけど、あたしが面倒なことになりたくないから言うだけだから。別にあんたを不安にさせたいとかじゃないからね」

 嫌に念を押すシディに私は少し不安になってくる。

「何?」

「前にお酒はたち悪いって言ったの覚えてる?」

 あまり言われた覚えはないが、戦勝パーティの時聞いたような気がする。

「まあ覚えてなかったらいいんだけど。丁度一年前ここに入ったばっかりの頃なんだけど、やっぱり新しい環境になると知らず知らずの内にストレスたまるじゃない? それでその頃付き合ってた人と別れたのが重なって、ものすごく落ちこんでた、というか荒んでた訳。で、先輩が気を使って飲みに誘ってくれたんだけど、あ、本当はレイジとギルと三人でだったんだけど、レイジが来れなくなって流れで二人になっちゃって」

 シディは思い出しているのか一度言葉を切った。隙間に私は尋ねる。

「あの、もしかして、ギルのこと好き、だったの?」

「それだったらもっと早く言ってるし、違うの、我ながら何やってるんだって思ってるから話し辛いの」

 シディは珍しくまくし立てて、後悔するように頬杖をついた。

「あたし、飲みすぎると記憶がなくなるのね。その日はつい飲みすぎちゃって、気付いたら朝で自分の部屋で寝てたの。あ、隣に先輩が寝てたとかじゃないからね」

 シディは怖い顔をして私に指を突きつける。

「それで後から何があったか聞いてみたんだけど、どうも先輩に迫ったらしくて。多分淋しかったから勢いで誰でもよかったんだと思うんだけど。『その気がないのに誘惑すんな』って冗談っぽく言われて顔から火出るかと思った」

 シディは力なく机につっぷしてしまった。

「それでそのまま酔いつぶれたあたし抱えて戻ってきたんだから、もう合わせる顔がないというか」

「あの、迫ったって、いかがわしいことをしようとしたとかそういう」

 シディは顔を上げて私を睨む。

「あんたそこまで説明しないといけない程箱入りな訳?」

 一応知識としては知っているので、多分そういうことなのだろうと思って首を横に振る。

「とりあえず話はそれだけ。あんたがもし先輩から今の話聞いた時に誤解しないように先に言っておきたかっただけ」

 シディは恥ずかしいのか私と目を合わせずに横を向いてしまう。けれど思い出したようにこちらを向いて身を乗り出してきた。

「で、今の話を聞いてあんたがどう思ったかってことよ」

 意味が分からなくて私は首をかしげる。

「どういうこと?」

「あたしが先輩にそういうことをしたって聞いてどう思ったか」

 私は少し困ってうなっていた。

「何か、意外だった。シディはすごくしっかりしてるイメージがあったから」

 今度はシディが困ったような顔をする。

「そっち? そういうのじゃなくて、嫌だったとか、嫉妬したとか」

「それは、特に」

 シディは頭を抱えて小さくうなったかと思うと、顔を上げた。

「分かった。聞き方間違えた。あたしが今まさに先輩のこと好きで、告白したいって言ったらどうする?」

 想像してみて、私は言葉につまった。

「それ、は」

「何か思うところがあるなら多分それが先輩への気持ちなんじゃないの?」

 沸き出てきたよく分からない気持ちの、奥の方を探ってみる。多分、シディがギルを好きだと言ったら、私は手放しで喜ぶことはできない。

「こういうのも、好きっていうの?」

「あたしから見たら好きに見えるけどね。だって前と明らかに態度違うし。毛布かぶってたし」

 確かにギルと会ったばかりの頃だったら今朝のことも多少恥じらいはしたかもしれないが、毛布をかぶるまではしなかった気がする。

「でも人って自分を好きでいてくれる人に嫌な気持ちは持たないから、もしかしたら好きとは違うかもしれないけどね」

 言われて、私の頭の中は完全にこんがらがった。

「そういうこと言わないでよ、分からなくなるから」

 私は自分でも情けない程の声音で机にふせっていた。

「まあよく考えなさい。それが恋愛の醍醐味なんだから」

 本当にこれが醍醐味なのだろうかと思いながら、私は獣のように小さくうなりながらシディを見上げていた。


 足かせが取れた翌日、私は午前の訓練を休んで陛下へ報告に行った。本当はもっと早く行きたかったのだが、足かせが取れてからでいいと伝言されていたのである。

 執務室の扉をノックして、返事を確認してから扉を開く。

「失礼します」

 綺麗に磨かれた机の向こうで陛下が立ち上がった。公の場だから名乗らなければいけないのかもしれないが、こうやって面会するのは初めてなのでよく分からない。

「よく来たね。座りなさい」

 陛下は微笑を浮かべて、小さな机を挟んで向かい合わせになったソファを指した。その微笑がいつもの父様で、少し安心する。

 お互い向かい合わせに座ってから父様が小さな金色のベルを振ると、続きの部屋から側仕えらしき男性がお茶を運んできた。漂った湯気の香りから紅茶だと分かる。男性は机にカップを二つ、砂糖瓶とミルクポットを一つずつ置いて戻っていった。

「体調はどうだ」

 父様は紅茶にミルクをたっぷり入れてかき混ぜた。

「今は大丈夫」

 私もミルクをたくさんと、砂糖を少しだけ入れてかき混ぜた紅茶を飲んだ。

「ブリューテ・ドウタ側の報告は聞いた。アリア、お前の方はどうだった?」

 私は言葉を探しながら、ルリオスティーゴに連れ去られてからの出来事を話した。

 一通り話終わってから、私は父様が口を開く前に尋ねていた。

「母様が王族だって知ってたの?」

 父様は少し困ったような顔をした。

「知っていた。が、話した方がよかったか?」

 聞かれてしまうと少し迷う。けれど多分問題はそこではない。

「隠してたのか、言う機会がなかったのか」

 父様はカップを持ち上げて紅茶を一口飲んだ。

「半々だ。お前と私が離れて暮らし始めたのが四年前、だったか。その頃のお前はまだ六歳だから言っても分からなかっただろうし、その後はトリニアの養女になったから年に数回会う位だっただろう。まあそれは言い訳だとしてもお前をブリューテ・ドウタに入れると決めた時から黙っておこうと思っていた。混血の、王族との娘がいると知っているのは少ない方がいい」

 父様は苦悩したように眉を寄せてから、力を抜いたように笑った。

「ただ、思えば混血だというのは隠し切れなくてお前に言ってしまったから、そうなれば王族だと言ってもそうでなくても変わらなかったな。ギルも怒っていたよ、私があまりにも必要なことを話さないから」

 ギルの名前を言われて鼓動が少しだけ速くなる。

「何を怒ってたの?」

「お前を向こうにさらわせたことだ。正直に言う。私はお前を使ってルリオスティーゴと戦おうとしていたし、負けてお前がさらわれても情報を持ち帰るのを期待していた」

 あけすけに言われた真実はまったく傷付かなかったといえば嘘になる。けれど父様がそうする理由を、私は知っている。

「人と異形がもう争わないように?」

 父様が頷いて、私は身を乗り出していた。

「向こうに休戦を提案して。私を使って構わないから」

 父様は心底困ったように眉を寄せた。

「それはできない」

「どうして」

 私は自分の声が高くなっているのに気付いて、胸元を押さえる。

「仮に向こうと休戦したとしよう。けれど黒の鳥という存在がなくならない限り結局人と異形は争い続ける。それくらい人と異形の存在理由は違う」

「父様は、異形を根絶やしにしたいの?」

「それが一番だと思っている」

 父様の声はあまりにも淡々としていて、私は口を結んでうつむいた。

「一つ。私はお前に繋がっている黒の鳥そのものを消そうと考えている」

 意味が分からずに、私は父様を見つめる。

「どういうこと?」

「そのままの意味だ。世界の外側にある創造のシステムを根本から消し去る」

 私は左腕の魔力を感じてみた。確かに黒の鳥は繋がっている。これを消し去るということはこの世界の創造のあり方を変えるということだ。

「そんなこと、できるの?」

「誰も試したことはないがやってみる価値はあると思った」

「それは、どうやって?」

 父様は紅茶のカップに手をつけた。

「まだ言えない。けれど仮に黒の鳥が消えたとして、異形が信じるとは思えない。証明するものがお前しかいない。だから根絶やしにしてしまった方が早いということだ」

 私はうつむいて、紅茶から立ち上る湯気を見つめた。

「どうして私を殺さないの?」

 父様がこちらを見たのが気配で分かったが、目を合わせられない。

「殺されたくは、ないけど。黒の鳥は代々皇帝が殺してきたんでしょう? どうして、殺さないの」

 尋ねるのに、鼓動が速くなった。私は父様のことが好きだったが、父様はずっと今まで私のことを疎ましく思っていたのかもしれなかった。

「殺したら黒の鳥の抑制が利かなくなると言っただろう」

「嘘。じゃあ何で代々の皇帝が殺してきたっていうのを否定しないの?」

 私は叫んでいた。

 父様が深く息を吐き出したのが聞こえて、私は少しだけ目線を上げた。

「お前は私の娘だ。私も、ジュリアータもお前を殺したいと願っていない。そのために黒の鳥を消そうとしている」

「父様は」

 母様と私どっちのことを考えてるの、そう言おうとしてやめた。答えを聞くのが純粋に怖かった。離れている間にこんなにまで気持ちも違ってしまったのかと、ただ心の奥底が痛かった。

「異形は戦争を終わらせると言っていたのか」

 私は父様の顔を見られなかった。

「少なくともルリは、ルリオスティーゴはそうする気だって、言ってた」

 私は言葉を止めて思い出した。

「ルリオスティーゴが私のお兄さんだっていうのも、知ってたの?」

「知っていた」

 心の中に冷たい水が広がっていく。

「どうして父様は何も教えてくれないの?」

「よかれと思って黙っていたことが、全部裏目に出ているようだな」

 多分もう少し昔、離れて暮らす前の四年前なら、泣きわめいたり、怒ったりもできただろうが、今はどうすればいいのかも分からない。

 父様に呼ばれて私はようやく顔を上げた。

「私のことは恨もうが罵ろうが構わない。そうされても仕方ないという自覚はある。ただ、一つ知らせておく。お前が黒の鳥で異形の王族だと、私の娘だと今まさに噂が流れている」

 冷たかった体が、更に冷水に投げこまれたようになった。

「どうして」

 いや、考えてみれば成婚発表の時、翼を出して大衆の前に現れてしまったから当然なのか。今更悔やんでも仕方がないが、過去の自分を呪う。

箝口令かんこうれいはしいてある。お前の救出にあたった兵にも、新聞に対してもだ。向こうから入ってくる情報はこれまで全て管理してある。箝口令をしいても人の噂は止められないということかもしれないが、おそらく違う。お前が異形だというのはまだ分かるが、私の娘だと結び付けられる人物はそう多くない」

 私か父様と親族だと話してしまったのはシディとギルで、ギルは私が父様の娘だということを知っている。

 父様は既に湯気のなくなった紅茶を飲み干した。

「裏切り者か内通者がいる」

 声が出せなかった。せめても私は父様から目をそらす。

「誰が知っているか聞いてもいいが、言わないだろう?」

 父様の声は少しだけ笑っていた。

「そういうことだ。身辺には気を付けなさい。言いたいことはそれだけだ」

 父様が立ち上がって、私も鉛のようになった体で立ち上がった。

「アリア」

 出ていこうとした矢先に、呼ばれて振り返る。

「今言っても皮肉にしか聞こえないだろうが、お前を愛しているよ。ジュリアータと同じように」

 私は王城でルリオスティーゴに見せてもらった写真を思い出した。セピアで色は分からなかったが、長い髪を後ろでまとめてドレスを着た母様が微笑んでいた。美しいというよりは可愛らしく、確かに、私とよく似ていた。本当は私が似ているというべきだが、だからこそ、きっと父様は私に母様の面影を見ているだけだ。

 私は何も答えられずに、部屋の扉を押した。


 執務室を出てから懐中時計を取り出して見ると、十一時だった。昼の廊下は片側の窓から陽がいっぱいに射しこんで、自分の靴音しか聞こえない。昼食まであと一時間あるし、何をしていようかと思って立ち止まったら、向かいから靴音が聞こえてきた。すぐに見覚えのある姿が近付いてきて、笑顔でこちらに手を上げた。

「アリアちゃんだ。何してるの?」

 レイジは立ち止まって私をのぞきこむように背をかがめる。その距離が少し近くて、私は体を引いた。

「陛下に報告に行ってたんです」

 レイジは納得したように頷いた。

「もう訓練戻れるの?」

「はい。午後から」

「そっか。よかったね」

 私は頷いて、ふとレイジを見つめる。

「レイジは何してたんですか?」

「俺? 体調不良で午前は早退。午後からは戻るよ」

 さぼりじゃないよと付け加えて、レイジは思い出したように手を打つ。

「ギルに欲しいもの聞いた?」

 ギルの名前を聞いて、私の中に思いが交錯する。レイジも、ギルも、今さっき聞いた噂のことを知っているのだろうか。

「まだ、です」

「そっか」

 レイジは満足そうに笑って頷いた。

「じゃあ今日あたりギルの部屋に押しかけようか」

 まったく予期していなかった言葉に、私は声を上げていた。

「ど、どういうことですか?」

「俺が連れていってあげるから、夜ご飯終わった後に行こうか」

 どうしてそうなるのかよく分からず、私は返事に窮した。

「でも、男子棟は入っちゃいけないんじゃ」

「だからこっそりね」

「そこまでしなくても」

「ぐずぐずしてたら誕生日終わっちゃうよ。意外とないんじゃないの? ギルに聞ける機会」

 言われてみれば訓練中には聞けないし、食事はたまに一緒になるが今は顔を合わせ辛い。が、だからといって部屋に押しかける方が何倍も気まずいではないか。

「はい。じゃあ決まり。夕食終わったら一回部屋に帰って、消灯すぎたら男子棟の通路の入口で待ち合わせね」

「ちょっと、レイジ、そんな」

「悩んでるより多分会って話した方がすっきりするよ。色々」

 レイジの言葉は思い当たることが多すぎて、私は口をつぐんだ。

「なんて、俺がちょっかい出したいだけなんだけどね。ギルはあんなだから自分からは何にもしなさそうだし」

 私は観念してレイジの言葉に従うことにした。多分自分の中でも今の状況を打破したいという思いがあったのだろう。ギルと顔を合わせ辛いというのは、私も辛い。

「分かりました。じゃあ、お願いします」

「そうこなくっちゃ」

 レイジは手を打って嬉しそうに笑う。その顔を見上げていてふと思う。

「みんな、前と同じように接してくれるんですね」

 言ってからこの話題を出すべきではなかったと思ったが、もう遅く、レイジは首をかしげる。

「どういうこと?」

「いえ、その、何でもないです」

 レイジは納得いかなさそうに眉をひそめる。

「アリアちゃんが鳥だからってこと?」

 レイジの声はひそめられていたが、私の耳にははっきり届いた。答えない私をどう思ったのか分からないが、レイジは小さくうなった。

「正直心の中で少し考えちゃうかもしれないけど、変わらないよ、前と。考えるっていうのもなるべく前と同じように接したいからだし」

「怖くないんですか」

 レイジはあまり深刻ではなさそうに頭をかく。

「怖いっていうか、どういう風になったら鳥が出てくるか知らないしなあ」

「それは私も、よく分からない、んですけど」

 けれど、王城で鎖に繋がれていた時、私は私ではなくなりかけた。きっとあの時のことを思い出しては駄目なのだ。

「まあ別に今まで通りアリアちゃんと接してればいいだけだと思うし、怖くはないよ」

 そういうものなのだろうか。私が頷きかけるとレイジは私の目の前に指を立てる。

「多分、ギルもね」

 聞いていないのに言われて体が熱くなった。けれど今は信じているが、噂を流したのがギルだったらと考えると胸の中が激しくざわついた。

「夕食後に、よろしくお願いします」

 一人で思い悩んでいても答えは出ないし、何も進まない。レイジの助けを借りて言いたいことは全部言ってしまおう。

 私は変に緊張している体を感じながら、レイジと別れて部屋に戻った。

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