約束(1)

 ルリオスティーゴが手に灯した炎の光だけで、暗い森を私は腕を引かれて下っていった。もう抵抗するのは諦めて、今後どうしたら一番いい結果になるか考えようとしたけれど、ギルの心を思い出したら涙が溢れてくる。

 森を抜けると大型の馬車が止まっていて、背中に翼の生えた異形がルリオスティーゴと私を馬車へ迎え入れた。

『すぐに手当てします』

 血が流れ出るルリオスティーゴの左腕を見て、異形の男性は分からない言葉で何か言った。

『頼む』

 短く答えてルリオスティーゴは座席の端に座る。私も反対側の端に座ると、馬車は動き出した。

 異形がルリオスティーゴの側にやってきて、手当てを始める。空間が閉じたからなのか、冷静になったからなのか、血の匂いと消毒液の匂いが鼻についた。

 ギルの腿から広がった血だまりを思い出す。あれはすぐに手当てしなければいけない傷だ。もしあのまま発見が遅れれば。考えて、悪い想像を振り払った。悲観しても何も解決しない、今できることを考えなければ。けれど、行くなと言ったギルの刺すような声が耳に蘇って、反射でまた涙がこみ上げる。

「いい加減泣くな、うっとうしい」

 声が飛んできて、私はルリオスティーゴを見ずに呟く。

「泣いてません」

 むきになって叫べば、気持ちが高ぶって泣き出してしまいそうだった。

『終わったら席を外してくれ』

 ルリオスティーゴが手当てをしている異形に言うと、異形はわずかに不安そうな顔になりながらも返事をした。ロザリオ(浄化呪文)とノゼリオ(回復呪文)を唱えた後、御者台の方へ去っていく。

 私とルリオスティーゴの間が広く開くと、ルリオスティーゴはこちらを見た。

「聞いておきたいことがある」

 私は答えなかった。

「お前の父親は誰だ?」

 私はやはり、答えなかった。答える意味もない。ルリオスティーゴは特に表情を変えず、私を見つめている。

「聞き方を間違えた。お前の父親は、皇帝か?」

 私は何も反応しなかった、つもりだった。けれど嘘が苦手な性格を今程嫌だと思ったことはない。

「やはり皇帝か」

「違います」

「念のため聞いただけだ。嘘だろうが本当だろうが俺が十中八九皇帝だと思っていることに変わりはない」

「なら、聞かなくてもいいでしょう」

「お前が嘘が下手だっていうことが分かった」

 私はせめて表情が分からないように顔をそむけた。

「お前、アリア、だったか」

 私が何も言わずにいると、ルリオスティーゴが付け加える。

「人間の名前だな」

「私は」

「人間か?」

 言葉尻を取られて私は喉をつまらせた。

「皇帝から母親の名前を聞いたことがあるか?」

 母様の名前はよく父様が教えてくれた。私のミドルネームにもなっている。

「皇帝が本名を教えたか知らないが。ジュリアータ、俺の、母だ」

 反射でルリオスティーゴに顔を向けていた。

 ジュリアータ、人間の名前ではない。異形、零間の名前で、間違うはずがない母様の名前だった。

「やはりそうか」

 私はルリオスティーゴを凝視した。

「嘘」

 それだけ言うのが、精一杯だった。頭が、ついていかない。

 母様が零間だったとは聞いていた。自分は人間と零間の混血であることも。けれど母様が王族だったなんて、聞いていない。

「お前今いくつだ」

 混乱しているというのもあったが、ここまで来てしまったからにはもう隠す意味がない。

「六、です」

 私は混血だから成長速度がおそらく人間の三倍で、十八歳相当になっているはずだった。

「俺は八だ」

「あなたは、混血じゃ」

「ない」

 ルリオスティーゴが混血でないなら、母様は私を産む前に零間との間にルリオスティーゴを産んだことになる。なぜ母様が父様と出会ったのか、私は聞いたことがない。私とルリオスティーゴは父違いの兄妹ということになる。

「お前、どこまで知っている?」

「何がですか」

「生まれのことと、母親のことだ」

 言われて、私は母様の顔も、声も、名前以外ほとんど知らないということに気付いた。姿は父様が聞かせてくれたから、知っている。

「薄い金色の髪で、緑の目で、小さくて可愛らしい感じの、けどとっても頑固で意志の強い人だったって」

「違いない」

 ルリオスティーゴは小さく笑った。

「皇帝はお前に何も聞かせなかったようだな。お前を一生外に出さないつもりだったのか、でもそうすると矛盾する。まあいい、こちらの目的を話す。お前に繋がっている黒の鳥を研究材料として使いたい」

「研究って、何のですか」

「世界の外側にある力を制御するための研究だ」

「そんなことして、どうするんですか」

「それは研究の結果次第で決まるだろう。何にせよ異形との戦いを終わらせる」

 私は自分の左腕を握りしめた。

「この力を使って、世界を壊すんですか」

 ルリオスティーゴはこちらを見て、怪訝そうに眉をひそめる。

「どうもお前と話していると話が合わない」

「だってこの力を使うってことは、そういうことでしょう?」

 ルリオスティーゴは眉をひそめたまま考えるように視線を外して、思い出したように声をもらす。

「お前、零間と異形がどうして争ってるのか知らないのか?」

 私は頷いた。ルリオスティーゴは不機嫌そうに目を細めて、馬車の壁に体を預けた。

「本当に何も知らないのか。面倒だな、残りは着いたら話す」

 ルリオスティーゴは目を閉じた。と思ったらすぐに開いてこちらを見た。

「寝る。騒ぐな」

 それだけ言って、また目を閉じた。

 騒いで逃げられるならとっくにそうしている。私は息を深く吐いて、自分も壁際にもたれかかった。

 心地よい揺れに目を閉じかけていたら、馬車が止まった反動で目が覚めた。ルリオスティーゴに腕をつかまれて馬車を降りると、まだ空は真っ暗で、たいまつの明かりに照らされた見上げんばかりの建物がそびえていた。おそらく、王城だろう。御者台にいた異形二人も降りてきて、私はルリオスティーゴに腕を引かれたまま中に入った。

 中は炎の光で明るく、廊下では異形の兵士達が敬礼をし、少し歩くと広間のような開けた空間に出た。部屋の左右には上に続く曲線の階段があり、ボルドー色の絨毯がしきつめられている。広間には女中だろう、長いスカートに白いエプロンをつけて、耳が狼のような女性の異形が二人いた。今まで男性の異形しか見たことがなかったので、少し驚いた。

『お帰りなさいませ』

 黒い髪をお団子にして白い布をかぶせた女中達は、一礼してルリオスティーゴの命令を待っているように見上げる。

『こいつに部屋を。丁重に扱え。逃げようとしたら知らせろ』

『かしこまりました』

 ルリオスティーゴは私の腕から手を離して、後ろの異形二人を振り返る。

『先に治療を受ける。報告会議は一時間後、人を集めておいてくれ』

 異形二人が敬礼すると、場違いに華やかな、けれど落ち着いた声が降ってきた。

『お帰りなさい、ルリ』

 振り向くと、上へ続く階段からゆっくりとドレス姿の女性が降りてくる。茶色と生成を基調としたドレスに、結い上げられた薄ピンクの髪、水鳥の羽を飾った扇子を持っていて、片腕は白い鳥の翼だった。歳は私より少し上に見えるが、異形は青年期が長いと聞いたので、正確にはよく分からない。

『何の用だ』

 ルリオスティーゴの目が明らかに不機嫌になる。

『あら、随分じゃない。せっかく心配して迎えに出てきてあげたのに』

 女性は唇をとがらせて顔の前で扇子を広げてみせる。

『いい加減その名前で呼ぶな』

『やよ。長いから』

 ルリオスティーゴは女性を睨んだが、諦めたのか顔をそらす。女性は扇子の向こうで小さく笑い声を立てた。

『そんなに暇ならこいつに歴史の説明をしろ』

 女性は初めて私の方を見た。身構えると、女性は真剣な表情で私を見つめている。

『ああ。この子、ね』

 一瞬、女性の表情が悲しげになったように見えたが、気のせいだろうか。

『いいわ。歴史の説明ってよく分からないけど、今日は遅いから、明日ね。お休みなさい、ルリ』

 女性がからかうように言ったのに、ルリオスティーゴは舌打ちした。

 女性がドレスの裾を翻して歩き出すのに合わせて、女中が私を振り向く。

『こちらへ』

 分からない言葉、おそらく異形の言語で言われた。女中が女性を追うように歩き始めて、私はその後を追いかけた。

 階段を上っていくつか廊下を曲がると、ただひたすら長い廊下に出た。壁にそったランプの橙色の光が続いていて、ここも絨毯が敷かれている。

「果物は好き?」

 突然女性が振り返って、反射で身構えてしまった。私の方を見ているし、女中にはそんなことを聞かないだろうから、相手は私しかいない。

「ええと、普通です」

『そう。じゃあ明日の朝食につけてあげて』

 女性が言うと女中は小さく返事をした。女性はこちらの言葉が喋れるのかと思ったのと同時に、ギルが異形の王族は喋れると言っていたことを思い出した。

「あの、名前。あ、私はアリア、です」

 アリア・ジュリアータ・オウヴァ、そう言った方が分かりやすいのかと思ったが、どうも異形には苗字がない気がしたので言わなかった。

「メルティリアよ」

 メルティリアはふんわり笑った。その顔は同性の私から見ても魅力的だ。

「あの、メルティリアさんは」

「メルティって呼んで」

「メルティさんは」

 メルティリアは唇をとがらせて顔の前で扇子を振る。

「呼び捨てで」

 特別断ることもできずに私は頷く。

「メルティはあの、王妃なんですか」

 ルリオスティーゴとの会話から見て、どうも軽口を叩いている気がしたので位が高い人には違いない。

 メルティリアは目を丸くして私の顔を見た後、こちらが驚く程盛大に吹き出した。

「嫌ね、それならルリと結婚しなくちゃいけないじゃない。まあ頼まれたらなってあげてもいいけど」

 メルティリアは廊下の扉の前で足を止めた。

「詳しいことは明日。それと一つ」

 メルティリアは笑みを消して真剣な顔になった。

「ここには敵もいないけれど、味方もいない。私も本当は手放しであなたを歓迎できる立場じゃないの」

「敵も、いないんですか?」

「あなたの力ならルリ以外は手に負えないでしょう? どちらかと言うとね、みんなあなたを恐れている」

 恐れている。異形に恐れられるということがあまり実感できなかった。私も異形の実態をよく知らないからかもしれない。

「とりあえずゆっくり休むといいわ。昼くらいにそっちに行くから」

 メルティリアは扉のノブに手をかけた。

「お休みなさい、アリア」

 ドレスの裾を柔らかく揺らして、メルティリアは扉の向こうに消えた。女中が歩き出したのに合わせて私も歩き出す。私の部屋は少し歩いたところで、一人分には充分すぎる程のベッドと調度、シャワーまでついていた。

『着替えはこちらにあるものをお使い下さい。朝食はお目覚めの頃にお持ちします』

 言葉は分からなかったが、女中はてきぱきと説明を終えると早々に出ていってしまった。

 急に静かになった部屋に私は立ち尽くした。ベッドサイドに置かれた時計を見ると、午前二時を回っている。神経が高ぶっているのか、先程馬車でうとうとしてしまったからなのか、眠気はまったくなかった。シャワーを軽く浴びて、温まった体で綿の薄いドレスに着替えると、静けさに耳が痛くなった。

 ここには敵も味方もいない、誰も、いない。

 帰りたい。その思いだけが胸を突き刺して、私はベッドに横になって目を閉じた。


 起き抜けに懐中時計を取って見たら、十時だった。意外と長く寝てしまった。疲れていたのかもしれない。ベッドの中で起き上がって、そういえば昨日ワイシャツだけでも洗っておけばよかったと思った。着替えをどうしようと考えながら窓際まで歩いてカーテンを開けると、陽射しに目がくらんだ。

 私の背丈以上ある窓の向こうはテラスになっていて、透き通った空が広がっていた。外が見えるかと思って内鍵を触るとあっさり開いたので、私はテラスに出て柵に手をかけて景色を見下ろした。

 眼下には王都だろう街並みと、街の片側を囲むように森が広がっていた。昨夜は真っ暗で分からなかったが、王城は街より高い場所にあるのでここもずっと見ていると怖くなってきそうだ。

 風がドレスの中を通り抜けていって、そうか、飛べれば逃げられるのかと思った。けれど私は飛べないし、飛べても追手を振り切って皇都まで逃げ切るのは現実的ではない。おそらくルリオスティーゴは飛べるのだろう。翼を持っている異形もだ。

 ノックの音が聞こえて振り返ると、昨夜の女中がワゴンと共に開いた扉をノックしていた。私が慌てて部屋に戻ると、女中は部屋の中へワゴンを入れる。

『お返事がなかったので入らせていただきました』

 テラスに出たことを咎められるかと思ったが、女中は昨夜と同じように淡々としていた。部屋の机に次々と皿が並べられていって、女中は一礼して空のワゴンを押して部屋を出ていった。

 湯気を立てている朝食と私だけが残されて、とりあえず食べようと思った。ギルも、お腹をいっぱいにした方が心配事は軽くなると言っていた。

 机の上にはシリアル、スクランブルエッグとベーコン、透明な砂糖がかかった丸いパンにサラダ、半分に切ったキウイとグレープフルーツ、瓶に入った牛乳、水差しとグラスが置かれていた。早速席について、胸の前で手を組む。

「いただきます」

 シリアルに牛乳をかけて食べ始める。そういえば昨日の夜から何も食べていなかったから牛乳の甘さがとても美味しく感じた。けれど久しぶりの一人の食事は静かで、少し淋しい。

 ブリューテ・ドウタに入ってからは食堂でシディと一緒に食べていたし、昨日の朝まではみんなと一緒だった。その前までは一人の食事も、一人でいることも当たり前だったのに、一度温かいものを感じるときっと忘れるまで時間がかかるのだと思った。

 ギルは、無事だろうか。無事でいてくれると信じるが、不謹慎だと思っていても昨夜の熱を思い出して体が熱くなる。ギルは好きだと言っていた。私は、分からない。ギルのことはもちろん嫌いではないし、好きだが、恋愛の好きが分からない。

 朝食を綺麗に食べ終わって、身支度をしようと立ち上がると、見計らったようなタイミングで女中とメルティリアがやってきた。

「おはよう。もっと寝てるかと思ったけど、意外と早いのね」

 空の食器をワゴンに乗せている女中の後ろからメルティリアが部屋に入ってくる。今日は生成のドレスで、同色の薄く透けるリボンがところどころにあしらわれている。左腕の白い翼が、見慣れていないのでどうしても不思議な感じがした。

「あの、ごちそうさまでした」

 女中の方も見るが、女中は食器の片付けに集中しているのか言葉が分からないからなのか、こちらを見なかった。

「美味しかった? 向こうの料理がよく分からないんだけど」

 向こうとは多分人間のことだろう。

「大体同じでした。もっと知らないものが出てくるかと思ったんですけど」

「まあ、こちらもあちらも大元は一緒だからね」

 よく分からなくて首を傾げると、メルティリアは私を見て納得したような声を上げる。

「ああ、歴史の説明、ね。やりましょうか、まずは着替えてから」

「あの、私、着替えを持ってないんですけど、ワイシャツだけでいいので貸してもらえませんか」

 メルティリアは私を見て、吹き出して私の目の前に扇子をつきつける。

「駄目。着替えるならドレス。あなたはもう戦う必要もないし、王族なんだから」

「そんな、どうして」

 叫んで、思えば自分は捕虜の扱いなのだから戦えないのが当たり前なのだと気付いた。

 女中がワゴンを押して出ていくと、メルティリアは部屋のクローゼットを開けて何やら探し始める。

「どれがいいかしらね。金髪だから何でも合うと思うけど。うらやましいわ。私、青とか似合わないから」

 ドレスなんて小さい頃は着ていたが、戦闘訓練を始めてからは着る機会もない。

「あ、これにしましょう。どう?」

 メルティリアがクローゼットから引っ張り出したのは、薄水色のドレスだった。袖口やスカートに白い布の切り替えがあり、普段着に近い仕立てのようだった。

「髪飾りは黒いリボンで完璧ね」

 メルティリアがドレスを持って近付いてくるのに、私はとりあえずドレスを受け取ろうとした。

「はい、脱いで」

 メルティリアはドレスを持ったまま私の前で立ち止まる。聞き間違いかと思って、一瞬思考が止まった。

「何でですか」

「着替えるからに決まってるでしょ」

「あの、一人でできます」

「コルセットは手伝った方がいいでしょ?」

「コルセットはしないです」

 メルティリアは目を丸くして、すぐに眉を上げた。

「駄目よ、緩くてもいいから普段からしておかなきゃ」

 翼の腕に綿のドレスの裾を持ち上げられて、私は叫んでいた。

「一人でできますから」

「駄目、脱ぐの」

 ドレスを無理矢理脱がされて、いざショーツ一枚にされると、メルティリアは下着が必要だと気付いたらしい。クローゼットからアンダードレスを持ってきた。

「とりあえず今日はこれでね。コルセットは急いで作らせるから」

 私は胸元を隠しながらアンダードレスを受け取って、何だか泣きそうな気持ちで袖を通した。アンダードレスはボタンがなくかぶるタイプで、形はスリップに近い。違うのはレースの量やピンタックがたくさん入っているということだ。

「コルセットしないと胸もなくなっちゃうわよ」

 メルティリアは水色のドレスの後ろボタンを外しながら言う。

「胸なんて動く時に邪魔です」

 メルティリアはドレスから顔を上げて、私の目の前に指を立てて振った。

「甘い、甘いわアリア。胸は男を落とす時に必要なのよ」

 私は眉をひそめたが、ふとギルの顔が浮かんで、途端に恥ずかしくなった。

「好きになるのに胸が関係あるんですか?」

「たまに胸がない方が好きって男もいるけど、大抵は胸があった方が好きって言うわねー」

 ギルもそうなのだろうか。考えてしまってから、馬鹿馬鹿しくなって反省した。

「アリアもちゃんと寄せればありそうなんだから」

 胸の横あたりを触られて、もう抵抗する気力もなくなっていた。

 ノックの音に体が跳び上がると、メルティリアがのんびりと返事をする。

「はあい」

「いつまで馬鹿話をしてる。早く着替えて開けろ」

 扉の向こうから聞こえた物言いは、ルリオスティーゴに違いなかった。

「女の子の部屋の前で立ち聞きなんて最悪よ、ルリ」

「ふざけるな。善意で待ってやったのにお前がいつまでたっても進めないからだ」

「立ち聞きは否定しないのね」

 扉の向こうから声が聞こえなくなると、メルティリアは笑い出した。

「ごめんなさい。もう少しで終わるから待ってて」

 変わらず扉の向こうからは声がしなかったが、ルリオスティーゴの苦い顔が目に浮かぶようだった。

 メルティリアにドレスの後ろボタンを留めてもらい、髪を結われて、首と髪に黒いベルベットのリボンをつけられるまで、ゆうに三十分はかかった。

「はい、お待たせ」

 開いた扉の向こうに現れたルリオスティーゴは胸の前で翼の腕を組み、視線だけで誰かを傷付けられそうな程、苛立っていた。

「本当はお化粧もさせたかったのに」

「ふざけるな。化粧させる歳でもないだろう」

「あら、今私に喧嘩を売ったわね? 今日の夕食気を付けることね」

「事実を言ったまでだ」

 メルティリアは唇をとがらせて「否定できないわ」と呟いた。

「というか何しに来たのよ」

「こいつに今後の説明をしようと思って来たが、どうせまだ肝心な話はしてないんだろう。さっさと話せ。俺もついでに話す」

 ルリオスティーゴは朝食が置かれていた机を挟んで椅子に座った。私とメルティリアも向かいに座る。

「さて、何から話そうかしら」

「あの、メルティリア、あ、じゃなくてメルティは、この」

 私がルリオスティーゴを見ると、若葉色の目が面倒そうに私を見る。

「ルリでいい」

「あ、ちょっとルリ。何で私は駄目でアリアはいいのよ」

「異形には呼び辛いんだろ。お前はちゃんと呼べ」

「あの、何でルリって呼ばれるの嫌なんですか」

 ルリオスティーゴを見ると、面倒そうな顔のままで、口を開かない。

「『ルリオス』だと男だけど、『ルリ』だと女の子なのよね。名前」

 ああ、なるほど。メルティリアが意地悪く笑って、ルリオスティーゴはますます面倒そうな顔になった。

「じゃあ、メルティとルリはどんな関係なんですか」

 メルティリアは扇子を広げて軽くあおぎながら微笑んでみせる。

「叔母と甥。ジュリアータ、あなた達の母親が私の姉」

 ということは、メルティリアは私にとっても当然叔母にあたる。私より少し年上にしか見えないので、異形の年齢は本当に分からない。

「だからルリのことは生まれた時から知ってるのよ。アリアのことは姉様がいなくなってしまった後だから知らないけど」

「母様、ここからいなくなってしまったんですか?」

「メルティ、歴史の説明が先だ」

 ルリオスティーゴが言葉を挟むと、メルティリアは思い出したように頷く。

「まず、創世神話は知ってるわね。今の世界が創られた時、初めに人間がいたの。人間は創世神話の黒の鳥と金色の鳥の力をどうにか人工的に作り出せないものかと考えた。そうして、まず世界の外側と繋がるために、人ではないものの一部を人に融合させる実験が始まったの」

「それは、まさか」

「私達零間の始まり」

 メルティリアは特に感情も見せず答える。

「人間は手当たり次第に動物と人間を掛け合わせていった。魚、犬、猫、馬、そして鳥。初めて鳥の翼を持つ人間ができあがった時、人間の一人は思った。『これは創世を冒涜する行為だ。いつかきっと、罰を受ける』そして確かに罰はあった。とうとう黒の鳥が現れたの。それも何でもない、人間の赤ちゃんに」

「羽が、あったんですか」

「羽はなかった。皮肉なものね、黒の鳥を作り出そうとしたのに、本物の黒の鳥には羽なんて必要なかったの。ただその子の魔力は異常に高くて、泣き出すとあたりのものを『消して』しまったそうよ。家も、森も、もちろん、人も。私達は殺したり奪ったりはできるけれど、世界に準じて生きている限り物体を完全に消し去ることはできない。けれど黒の鳥はできるのね、世界の外側、『世界を壊す』という事象と繋がっているから。つまり世界は私達に見切りをつけた。創世の力に近付こうとした罰に滅びなさいということね」

「その赤ちゃんは」

「人間も黙って運命を受け入れる訳にはいかないから、決死の覚悟で、眠っている間に殺してしまったそうよ」

「殺したら黒の鳥が発現するんじゃないんですか?」

 メルティリアは首を傾げる。

「どうして?」

 私は思い出すように頭の中で言葉を組み立てた。

「私が死んだら、黒の鳥に体を取られてしまうって」

「どこで聞いたの?」

「陛下に。あ、ラルゴ・エイム・オウヴァ、父様、です」

「あいつが? 妙だな、自分の娘だから情が移ったのか」

 ルリオスティーゴが呟く。

「何でそう言われたかは分からないけど、死んだら黒の鳥に体を取られるとかそういうことはないわ。今はまだ世界は続いているでしょ? 話の続きだけど、最初の黒の鳥を殺した後、人間達の意見は二つに分かれた。今後は一切創世の力を作り出そうとしてはいけないという意見と、黒の鳥が出現したのだから研究を続ければ力を制御することもできるだろうという意見。研究を否定して、現れた黒の鳥を殺すのが人間、黒の鳥を保護して研究材料とする、それが、零間」

 メルティリアは言葉を切って、一つ息を吐き出した。

「零間と人間が争ってる理由はこんなところね。それで、最近の話をしましょうか。最初の黒の鳥が現れた後、何度か黒の鳥は現れたけど、全員人間で、そちらの皇帝の手によって殺されている。けどもう六年くらい前かしら、初めて零間に黒の鳥が現れた。今までと違って赤ちゃんじゃなくて、大人の、腕の羽が、黒くなったの」

 メルティリアは辛いのかわずかに顔を歪めた。

「それがジュリアータ、姉様だった。その時まで姉様の腕の羽は何ともなかったのに、ある日突然痛がり始めて、真っ黒になった。伊達に何百年も黒の鳥を研究してる訳じゃないから、すぐに魔力が一致して黒の鳥だって分かった。王は狂喜乱舞したわ。つまり、ルリの父親なのだけれど。これで研究が進んで、『世界を壊す』力を使って異形との戦争も終わるだろうと言った。その後すぐに、姉様はいなくなってしまった。急に妻を実験体扱いした夫が怖くなったのか、本当のところは分からないけれど」

 メルティリアは眉を寄せたまま目を閉じて、顔を上げて私を見た。

「私が知ってるのはこれくらいかしら」

「その後、母はおそらく人間に捕まり、何らかの事情を経てお前が生まれた。慰みものにされたのか知らないがな」

 ルリオスティーゴのあからさまに軽蔑をこめた視線に、私は腹のあたりが熱くなった。

「父様は母様を本当に愛していました。何度も聞かせてくれたし、私が今ここにいるのは父様と母様と約束したからだもの」

 叫ぶと、ルリオスティーゴは若葉色の目を細くした。

「何の約束だ」

 真っ赤な夕陽が射しこむ部屋で、言われた言葉を思い出す。

「人間と異形が、もう争わないように」

 ルリオスティーゴは私を見ていたが、不意に視線をそらした。メルティリアが私を見て口を開く。

「六年前、姉様がいなくなった後、零間も人間も戦争でお互いの王が殺された。そこで皇帝についたのがあなたのお父さん、ラルゴ・エイム・オウヴァで、私達の王になったのが先王の弟、つまりルリの父親の弟だった」

「ルリじゃなかったんですか?」

「まだ二歳だったから子供という理由で王位につけなかった。そちらの歳に直すと大体十二歳くらいだけど。それで、つい先日王位についた訳ね」

 ルリオスティーゴの若葉色の目と目が合うと、蔑む感情も何もなく、ただ真剣な目で見つめられた。

「お前の力を欲しがったのはお前達を皆殺しにするためじゃない。ましてや世界を壊すためでもない。お前の力を抑止力にして異形との戦争を終わらせる。その上でお前の力を研究して、黒の鳥を制御する方法を探す」

 私は、言葉の全部が理解できなかった。けれど、異形との戦争を終わらせるというのは、私がした約束と同じではないか。

「私がここにいたら、戦争は終わるんですか」

「少なくとも、俺は終わらせる気がある。先王も含めて反対派は多いがな」

「父様と、話し合う道はないんですか」

 私はすがるように叫んでいた。

「お前がこちらにいる限り応じないだろう。黒の鳥を持ったまま終戦を申し入れても信用される訳がない。だからお前を使って降伏を提案する」

「零間が、降伏する訳にはいかないんですか。滅茶苦茶なことを言ってるって、分かってますけど」

 ルリオスティーゴは目を細めたが、あまり不快な様子は感じられなかった。

「本当に降伏したとして、どうするつもりだ? 皇帝がお前を持っていながらこちらに降伏を要求しなかったのは、黒の鳥は殺すべきもので、それを研究しようとしている俺達も殺すべきものだからだ。何でお前を生かしているのか知らないが、さすがに娘を殺すのはためらったのかもしれない。とにかくこちらから戦争を終わらせるには人間の降伏しかない」

 その通りだった。そうすればおそらく戦争は終わる。約束も守れる。けれど元の場所には、帰れない。私は結局、ただ自分のために、帰りたいのだ。

「俺は零間の王としてお前をあちらに渡す訳にはいかない」

 それが答えなのだろう。けれど私は頷ける程、素直にも無知にもなれなかった。ルリオスティーゴも分かっているのか、気にする様子もなく続ける。

「本意でないのは分かってるが、近い内に婚礼をする」

 よく分からずに、私は伏せていた顔を上げた。

「どういうことですか?」

「俺とお前が結婚する。お前をそのままにしておけば、黒の鳥の研究は人体実験に進むだろうし、混血だから尚更容赦がなくなる。俺が目を光らせておくにも限界があるから、保険のようなものだと思え。仮にも正妃を研究で殺したとなれば民衆が黙っていない」

「ちょっと、待って下さい。あなたは私のお兄さんなんでしょう?」

 ルリオスティーゴは怪訝な顔をする。

「だから、どうした?」

「近親婚は」

 ようやく、ルリオスティーゴは気付いたように小さく声をもらした。

「異形は近親婚は禁止だったか。こちらでは近親婚が普通だ。一番血の近い者と結婚するから、兄弟が一般的だ」

 私は言葉が継げなかった。呆然としている私を前に、ルリオスティーゴは静かに言い放つ。

「俺達が近親婚で血を濃くすることができるのも、異形の六倍で歳を取って青年期が長いのも、この羽も、全て創造の鳥を作り出そうとした時の副産物だ。俺達は種族として創造の理から外れている。人間が零間を異形と呼ぶのもあながち間違いじゃない。けれど、俺は、この血を誇りに思っている」

 私は何を言うべきか分からなかった。ただ、ルリオスティーゴを見つめて、視線をそらした。

「どういう事情があっても、確かにお前は俺の妹だ」

 その声に束縛の響きはなく、まるで独り言のようだった。

 私は一杯になった頭の中から逃げるように、目を閉じた。

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