初めてこの体を呪って
「何しに来た」
ギルの鋭い声で固まった体が現実に引き戻される。
「知ってるの?」
レイジが隣のギルを振り向いた。
「この間会ったばっかだろうが。ってお前いなかったのか。後で話す」
「そう苛立つな。戦いに来た訳じゃない」
異形は不機嫌そうに眉をひそめる。
「信用できるか」
戦いに来たのではないのなら、何のために来たのか。私を連れていくためだろう。
「まあいい、先日は手違いで迷惑をかけた。ここを襲った兵士達が、命令を無視してうさ晴らしにやったことだと証言した」
何のことを言っているのかと思ったら、リウ族が異形の襲撃にあったことを指しているのだと分かった。
「意外だな。謝罪する異形なんて聞いたことないぞ」
「こんなことで揚げ足を取り合うのも面倒だからだ。ここへの攻撃は何の得にもならないし、無駄に疲弊しただけだ。俺の指導力がまだ足りないという教訓にはなったがな」
「うさ晴らしで殺された仲間の無念をどうしてくれるんだ」
住人の中から男の叫び声が上がると、異形の目は険しくなった。
「だから謝罪しているし、当事者達は厳重に処罰した。ただ、ここの人間はどうだか知らないが、異形の軍も同じようなことをしている。お互い反省すべき点があるということだ」
言われて初めて、自国の軍にもそういう側面があったことを知った。無知と言われればそれまでだが、心の中ではやはり自分達は異形と違うと思っていて、少なからず苦い思いが広がる。
「話がそれたな。俺達の狙いはあくまでも皇帝の首と、それだ」
異形の指はまっすぐに私を指し示して、私はせめて震えないよう体に力を入れた。
「いや、今の一番はそれか。皇帝の首などそれを手に入れた後でどうにでもなる」
「言いたいことはそれだけか?」
ギルを見て、異形は吐き捨てるように笑った。
「それを渡せ。無駄な戦闘はしたくない」
「人をそれとか言う奴に渡すか馬鹿。まず自分から名乗れ」
「ルリオスティーゴだ」
聞き覚えのないその名前に、シディの目が見開かれたのが分かった。
「うわ、ついてない」
レイジも苦々しい声を出す。多分私以外の人は知っているのだろう、重要な人物には違いない。
「わざわざご苦労なことで」
ギルが刺々しく言い放つと、ルリオスティーゴは薄く笑った。
「今一番必要なのはそれだと言っただろう」
一瞬、私が大人しくついていけばこの場は収まるのではないかという考えが頭の中をかすめた。けれど、私は単純に怖い。それに、ついていってもその後に攻撃されないという保障もない。
「アリア」
呼ばれて、私はギルの背中を見た。
「行くなよ」
ギルの言葉はそれだけで、でもそれは私の身を案じたものではなかったのだとしても、嬉しかった。
「はい」
私は力をこめて返事をした。ギルがいいと言ってくれたのなら、私はブリューテ・ドウタとしてこの場を戦うだけだ。
「ギルかっこいー」
「あほか。外の指揮と連絡は任せる」
「はいはい。了解」
レイジは住人達を振り返って、リタの方を見た。
「こっちの都合で悪いんだけど、俺達の指揮下に入ってもらうよ」
リタはシエンに支えられるようにして立ち上がる。
「分かってる。ここで公私混同する程馬鹿じゃない」
「そんな減らず口叩けるんだったら充分だね」
レイジはいつものように笑った。
「大人しく渡す気はないということでいいか?」
ルリオスティーゴは特に表情を変えず、ギルを見つめる。
「ない。これっぽっちもな」
「なら奪うまでだ」
ルリオスティーゴの左腕、白い翼が揺らめいて見えて、人の腕の形になったのと、ギルが踏みこんだのは同時だった。
ルリオスティーゴが左手に持った銃はギルの目の前に向けられていて、ギルも銀色の銃をルリオスティーゴに向けて、お互い動かなかった。
「とうとう火器を導入したのか」
ギルが低い声で言うと、ルリオスティーゴは自嘲ぎみに笑った。
「魔法至上主義の頭の固い連中を説得するのに時間がかかってな。今こちらで作れるのはこのくらいだ」
ルリオスティーゴがギルに向けているのは自動式ではなくリボルバーだった。弾数は少ないけれど、これだけ至近距離で撃たれればどんな銃でもただではすまない。
何か、相手の気をそらすものを。魔法は詠唱を破棄してもおそらく魔力に気付かれて防がれる。そう思ったら思い出した。
私はなるべく魔力を抑えて、左手の指先に意識を集中する。詠唱はせずに、心の中で呪文名を唱えて発動させた。
指先から水がしたたり落ちる前に、私は駆けてルリオスティーゴの前に左手をつき出した。全力で解放した水にルリオスティーゴが押し流されたのが見え、テントが大きく揺れて私は体勢を崩しながら銃を抜いた。
「上出来だ」
ギルは振り返って笑うと、そのままレイジに向き直る。
「レイジ、正面突破する」
レイジはあまり驚いた様子も見せずに腕を組んだ。
「篭城は?」
「ここじゃ強度が知れてるだろ。他に浮かばない」
レイジは考えるように目を細めて、腕をといた。
「まあギルがそう言うんだったらいいや」
「シディ、陛下に連絡。レイジはリウ族の指揮、アリアは俺と先陣を切る。増援まで持たせるぞ」
みんなそれぞれに返事をして、私も返事をする。
「先陣が落ち着いたら外に出るけど、相手は魔法と飛び道具だから無理しないこと。シディと族長とシエンは戦えない人の保護に回って」
レイジがリウ族を振り返って早口に言うと、リタが声を上げる。
「何であたしとシエンを外した」
「あのね、ここで死んだらさっきしたお芝居の意味がないでしょうが。族長なんでしょ?」
リタは目を開いて、唇を結んだ。
「そっちの娘をおとなしく渡せば助かるんじゃないのか」
「アリアを渡しても殺されない保障なんてない」
誰かの呟きを切るようにギルが声を上げる。
「考えれば分かるだろ」
ギルの声は低く、とがっていた。
多分、謝ったらギルはもっと怒る。だから今は戦うことだけを考えるしかない。けれど、それでもいたたまれない気持ちは少しだけ薄れた。
「はい、怒らない怒らない。急ぐんでしょ」
レイジがギルの肩に手を置く。
「逃げてもいいですよ。逃げられるものならね」
レイジが笑顔で放った言葉は、リウ族の中に居心地の悪い空気を作って消えた。
ギルは機嫌が悪そうに自分の髪を撫でて、私の側へ来る。
「そもそもの原因は異形だ。気負うな」
ギルの金色の目は強くて、私は声を出して頷いた。
「詠唱だけしておいて、外に出たらエカザ(消滅呪文)撃って。囲まれてるから」
「じゃあ先に出ます」
ギルは何か引っかかったのか苦悩したような表情をしたが、すぐに頷いた。
『世界の終わり 透に包まれ 鳥に願い』
手を下ろしたまま詠唱を始める。行くなと言ってもらえた、ただ、今はそれだけでいい。
『この視の先を消滅させる』
左手に魔力が集まったのを感じて、ゆっくりと手を閉じた。
「行くぞ」
ギルの声はよく響き、私は頷いてテントの外へ駆け出した。
薄闇の中、たいまつの明かりに照らされて、十数人の異形がテントを囲むように銃を構えていた。
『エカザ』
動かれる前に手を横にふるって、目がくらむ程の白い光を放つ。
異形達の悲鳴が聞こえるのと同時に砂埃が舞い上がって、心の中で舌打ちした。視界のことまでは考えていなかったと思ったら、すぐ近くから銃声が聞こえてきて体がすくんだ。
「好きなだけ撃て」
隣からギルの声が聞こえて、硬直が解ける。私は力いっぱい返事をして左手を砂埃の中にかざした。
『ニーロ』
ただ撃っていればいい分、こちらの方が有利だ。異形は私を殺せないから、撃ちながら盾になればいい。隣でギルは怖い程静かなまま正確に異形を撃ち抜いていく。
砂埃が収まって、立っている異形が一人もいなくなった時、土の匂いと焦げた匂いが急に鼻をついて、静かになった。
後ろから足音が聞こえてきて、振り返るとレイジとリウ族の面々がテントから出てくるところだった。
「終わり?」
レイジが声を投げると、ギルは弾倉を交換しながら振り返る。
「まだ。あいつがいない」
あいつとはルリオスティーゴのことだろう。確かに姿を見ていないし、これくらいで引き下がるとは思えない。
ふと頬に冷たいものがあたって空を見上げた。まったく気が回っていなかったが、闇にまぎれて灰色の雲が頭上を覆っている。
「雨か」
「恵みの雨になるといいんだけどね」
ギルは何も答えずに弾倉をはめこんで銃身をスライドさせた。
体が痺れるような感覚に、私は反射で異形が倒れた方向に魔法を撃っていた。詠唱破棄した水球に明らかな魔法がぶつかって、爆発した魔力の衝撃に顔をかばう。
すぐに目をこらすと、テントの影から続々と異形が現れて、まわりを囲まれていく。その中心には、左手に銃を下げ、右手に空気を威圧する程の魔力をこめたルリオスティーゴがいた。
異形達が銃を構える音に、私とギルはルリオスティーゴに銃を向ける。詠唱破棄した魔法で相殺できたのだから、魔力では決して負けていない。気圧されてはいけない。
「最初から俺が出るべきだったな」
ルリオスティーゴが独り言のように呟くと、ギルは銃を向けたまま「そうだな」と返した。顔を叩く雨が強くなってきて、水滴が頬を滑り落ちるが、拭っている余裕はない。
ふと、遠くから馬のいななきが聞こえてきて、耳に意識を集中した。一つや二つではない。異形の援軍か。焦燥感が胸を支配して私は奥歯を噛んだ。
「皇都の援軍だ」
ギルが叫んだ。囲まれた異形の隙間から荒野の向こうに目をこらすと、雨と馬に混じって黒地に金色の鳥の翼が描かれた旗がはためいているのが見えた。後ろのリウ族からざわめきが上がる。
連絡を受けてから到着するのが早すぎる。まさか最初から待機していたのか? こうなることを知っていて? 不信感が募ったが、すぐに心から消した。ギルは驚いていないから、今は気にしている場合ではない。
ルリオスティーゴの口が小さく動いた。魔力が増幅しなかったから、気が付かなかった。まずいと思った時に呪文はもう間に合わず、私は銃の引き金を引く。
『ワプラ』
ルリオスティーゴが皇都の援軍に手を向けたのと同時に、ルリオスティーゴの前で魔法が弾けて銃弾が消される。
空を裂く雷と同じ音と、一斉にこちらへ放たれた銃声が混じって、頭が真っ白になった。
名前を叫ばれて、私は地面に倒された。覆いかぶさられた体の重みを感じて、我に返る。
『世界の終わり 透に包まれ 鳥に願い この視の先を消滅させる エカザ』
地面に伏せったまま、異形の方へ撃った。爆発音と共に白い光で目がくらんだが、地面から起き上がって私に覆いかぶさっている体を支える。
「ギル」
叫ぶと、ギルは顔を歪めながらも首を振る。
「ほとんど当たってない、心配すんな」
「アリアちゃん、もう一発撃って」
レイジが叫ぶのが聞こえて、再び始まった銃声に私は早口で呪文をつむぐ。
『世界の終わり 透に包まれ 鳥に願い この視の先を消滅させる エカザ』
白い光の合間にレイジがギルの側へ駆け寄ってくる。
「ギル、撤退しろ」
ギルは厳しい目でレイジを見上げる。
「援軍は」
「今ので多分半数くらいになった。あいつの魔法が強すぎる。あいつの狙いはアリアちゃんだ、一旦逃げろ」
ギルは苦悩した表情になって、すぐに立ち上がった。
「森に逃げる。アリア、回復、詠唱破棄でいいから」
私は返事をしてギルにノゼリオ(回復呪文)をかける。
爆発の余韻が収まった景色を見ると、立っている異形はルリオスティーゴを含め十数人、その向こうには数を減らされながらもこちらへ向かってくる援軍の姿が見える。
「落ち着いたら合流する」
ギルは言って、私の腕を取って駆け出した。
『追え』
ルリオスティーゴ自身も異形と共に走り出し、こちらに迫ってくる。
『世界の終わり 透に包まれ 鳥に願い この視の先を破壊する ガヤド』
ルリオスティーゴは背後から撃たれた魔法を振り返り、電気で相殺する。
「あなたの相手は俺がしますよ」
続けて銃を撃ったレイジにルリオスティーゴは魔法で銃弾を防ぎ、吐き捨てた。
「貴様。何のつもりだ」
「アリア、レイジに任せろ」
目の前にギルに叫ばれて、私は遅れて返事をした。私達を追ってくる異形達から魔法が放たれて、私は早口で詠唱する。
『世界の終わり 透に包まれ 鳥に願い この視の先を消滅させる エカザ』
何度目かの白い光に目をかばって、私は今度こそ前を向いた。強くなった雨の中に霞む黒い森へ、ギルの背中を見ながら走り続けた。
森に入るとあたりは物の輪郭しか見えない程暗かった。更に夜になれば何も見えなくなるのだろう。空を覆う木の葉で雨は届かないが、時折水滴が降ってきて顔に当たる。
何度目か、ギルも私も地面に足を取られ、歩みが遅くなった。私は途中から肉体強化に魔力を使ったからそれ程でもないが、ギルの息は普通では考えられない程荒く、速い。
少し休みましょうと言いかける前に、ギルは歩幅を緩めて膝に手をついてしまった。私は慌ててギルの体を支えるように手をかける。
「ギル、傷は」
「数発かすった、だけ。けどやっぱり弾に細工してやがる。すげえ、だるい」
息の中に消えそうな声に鼓動が速まる。オウヴァ製の銃弾も傷口にノゼリオ(回復呪文)やロザリオ(浄化呪文)が効かないように魔力がこめられていて、そこに毒を塗ったりする。
私は詠唱破棄せずにロザリオ(浄化呪文)とノゼリオ(回復呪文)を唱えてギルの体に触れた。私の魔力でも完治はしないだろうが、何もしないよりはましだ。一旦どこか休める場所を探さなくては。
ギルは呼吸を落ち着けるように顔に手を当てて、ゆっくり体を起こした。
「ありがと、ちょっと、楽になった」
何も言えずにいると、ギルの手が頭の上に置かれる。
「心配すんな。死ぬ程じゃない」
私はやっとの思いで小さく返事をした。
「もうちょい歩いて休めそうな場所探そう」
私は返事をしてギルの腕を支えて前へ出た。
段々と暗闇が濃くなってきて、しばらく歩いていくと、削れた山肌に私の背丈と同じくらいの穴が開いているのを見つけた。ギルと一緒に立ち止まるが、暗くて当然中の様子など見えるはずがない。
「横穴でしょうか」
「照らしてみる」
ギルが穴の方へ手をかざしたのを見て、私は手で制す。
「ニーロ(炎呪文)でいいんですよね? やります」
「燃やすなよ」
ギルが少し笑ったのが分かって、私はむくれた。
「もう力の加減は大体覚えました」
私は穴の方へ手をかざして左手の魔力を絞る。
『ニーロ』
手の平に灯した炎で穴の入口を照らしてみると、ここからではまだ奥が見えなかった。念のため足元の石を拾って穴の中に放ってみると、かなり音が反響して聞こえる。
「入るか。もう暗いし」
確かに暗くてこれ以上は歩けないだろう。私は手の平に炎を灯したまま、ギルの腕を支えて中に入った。
「頭、気を付けてください」
入ると急に空気が冷たくなって、湿ったスーツのせいで余計に寒く感じる。何が出てきてもいいようにあたりの魔力に集中して歩いていくと、大きく開けた場所に出た。
土が固まったような壁が高く上まで続いていて、見上げるとうっすらと木の枝と葉が見えた。飛べないと届かない高さだが、上は外に繋がっているようだ。
「ここでいいですか?」
言うと、炎に照らされたギルは頷いた。
「たき火作りたいから枝拾ってきてくれる?」
私が返事をすると、ギルは小さく呪文を唱えて自分の指先に炎を灯した。
私は来た道を戻って、穴の入口で枝を抱えられるだけ拾った。夜はここで明かすことになるのだろうが、今後どういう風に動くのかギルに聞いておかないと。
左手に炎を灯して穴の中に戻ると、地面に小さなたき火ができていて、ギルは壁にもたれて座っていた。けれどその指がワイシャツのボタンを外しているのを見て、私は驚いて体が固まった。何をしだすつもりなのかと思ったら、ようやく思い当たって私は枝を置いてギルに駆け寄る。
「傷、見せて下さい」
ギルは何も言わずにワイシャツを脱いだ。
「ここと、ここ、あと背中」
ギルが指差したのは左の二の腕と脇腹で、肌がえぐれて血がにじんでいた。命に関わらないとしても、放っておいていい傷ではない。
『世界の続き 白に包まれ この身の先を回復する』
左手に集中してできる限りの魔力をこめる。
『ノゼリオ』
腕の傷口に手をかざすと、薄緑色の光が広がり、傷口に吸いこまれていく。普通なら時間を早送りしているように傷口が塞がっていくが、やはり何も変わらない。
銃弾にノゼリオ(回復呪文)を無効にする魔力をこめるには、人の魔力を機械で加工しなければならない。それと同じように、効果を消し去るには人の魔力だけでは駄目なのだ。
「一応さっき薬飲んだから、後でまたかけて」
辛いはずなのにギルは笑って、白いハンカチを広げて細長く裂き始めた。
薬で無効の効果を抑えても打ち消せるのはよくて二十分の一、けれど薬が効いている間に回復をかけ続ければ、完治まで持っていけるはずだ。
「傷口、洗いますか?」
ギルは私を見て少し困ったような顔をした。
「魔力、あとどれくらい?」
返された質問に私も言葉につまる。
「まだ、あります。大丈夫です」
「何パーセントくらい?」
ここで嘘をつくのは簡単だ。けれど嘘は本当のことを知られた時が怖いから、苦手だった。
「七十パーセントくらいです」
ギルは意外そうな顔をした。あれだけ魔法を撃ったから、ほとんど残っていないと思ったのだろう。
「実質、私が魔法を使えなくなるのは魔力がなくなった時じゃなくて、疲れた時なんです。魔力の分撃ち尽くすより先に体力がなくなるんです」
私の魔力は黒の鳥と繋がっている。そして黒の鳥もどこかへ繋がっている。はっきり感じ取ることはできないのだが、『世界を壊す』という事象そのもので、そこには魔力が渦巻いている。
「本当に?」
ギルにつめ寄られて私は驚いて体を引いた。
「本当ですけど、何でですか」
「いや、本当ならいいんだけど。魔力の残り嘘つかれても後が困るだろ」
「それは、大丈夫です」
嘘をつくのは苦手だが、黒の鳥のことは言えない。世界を壊す存在と知られて、ここにいられなくなるのはとても、辛い。
私は初めて、黒の鳥を具現するこの体が嫌だと思った。今まではきっと、最初から私を受け入れてくれる人としか関わっていなかったから、感じなかった。
けれど嫌われたくない、恐れられたくない、みんなの側に、いたい。
「じゃあ洗ってもらっていい?」
ギルに言われて、私は頷いてギルの腕を取った。指先から魔力を絞ってオスタ(水呪文)を唱えたら、今ここにいられるのはこの力のおかげなのだと思って、気持ちがない交ぜになった。
「だるいのはどうですか?」
私は自分のハンカチを裂いて傷口のまわりの水を拭き取った。ギルから細く裂いたハンカチを受け取って、腕の傷から巻いていく。
「だるい。正直痛いよりこっちの方が辛い」
「薬は」
「さっき飲んだ」
無効を打ち消す薬と一緒に飲んだのだろう。少しでも効いてくれればいいと思って、私は脇腹と腰に巻くために、裂いたハンカチの端と端を結び始める。
「でも俺、魔力抵抗は異常に高いからさ。普通だったら多分動けなくなってるけど、動けてるし。あいつが皇都に来た時も殺すつもりで撃ったって言ってたけど、死ぬ程じゃなかったし」
あいつとはルリオスティーゴのことだろう。確かに皇都でギルにワプラ(雷呪文)を撃った時、そんなことを言っていた。
「手加減したんじゃないんですね」
「手加減する意味がないだろ。って思ったけど、されてたら嫌だな」
ギルは自嘲ぎみに笑った。
「腕上げて下さい」
私は細長くつないだハンカチをギルの脇腹と腹を覆うように巻いた。
「ありがと」
包帯代わりのハンカチを巻き終わると、ギルは微笑んでワイシャツを拾い上げる。
「ごめん、なさい」
言わずにはいられなかった。多分ギルは怒るだろうと思っていても。案の定ギルは表情を曇らせる。
「アリアのせいじゃない」
私は頷く。
「違うんです。私が言わないと、嫌だったんです」
ギルは表情を曇らせたまま私の頭に手を置いて、困ったように笑った。
「アリアがいなくなると困る」
胸がしめつけられた。たとえそれが黒の鳥の力のことを言っているのだとしても、今は素直に受け取っておきたかった。
「これから、どうするんですか」
ギルは私の頭から手を離して、ワイシャツに袖を通した。銃弾がかすった部分が裂けて赤黒く染まっている。
「とりあえず明け方まではここにいる。電信機使いたいんだけど絶対待ち伏せされてるしな」
「ここじゃ繋がらないんですか?」
「森出ないと繋がらない。森の中で魔力が狂ってるから。だからあっちも俺達の魔力をたどれないし、逆に俺達も分からない」
少しあたりに意識を集中してみたが、確かに空気に含まれている魔力の揺らぎさえまったく感じられない。
「とりあえず明るくなってきたら森の出口に近付く、かな。援軍来てるかもしれないし。まあ、さすがに夜襲はされないと思うよ。さっきも人質は取らなかったし」
「人質を取らないのと夜襲されないのとどんな関係があるんですか?」
「王様の誇りってやつじゃないか」
「王様って、あの人がですか?」
ギルはワイシャツのボタンを留めながら意外そうな顔で私を見る。
「ルリオスティーゴ、異形の王だ。知らなかった?」
ああ、だからシディもレイジも名前を聞いた時反応したのか。
「あの人、王様だったんですね」
ギルは頷いてショルダーホルスターをつける。
「会議の時陛下が言ってただろ。前々から王が代わりそうな気配があって、有力視されてたのがルリオスティーゴだ。顔は知らなかったけど。元々羽のある異形は王族に近くて、腕が羽の異形は王族だし」
ギルの言葉を聞いて私は鼓動が速くなった。私の翼は異形とは違う。けれど。
木の枝がはぜる音で、たき火が小さくなっているのに気付いて枝を足した。湿っていて火が移らなかったので、指先に炎を灯してあぶってからくべる。
ギルが近付いてくる音が聞こえて振り向くと、頭の上に手を置かれて驚いて声を上げていた。
「はい」
ギルが差し出したのは、キャラメルだった。
「あ、りがとう、ございます」
私はギルの手の平からキャラメルを受け取る。包みを開けようとしたところでふと気付く。
「ギルの分は」
「いいよ、食べて。俺薬飲んだし」
そういう問題ではないと思うのだが、思い出して私はスラックスのポケットを探った。リウ族のところで余分にもらった一個をポケットに入れていたのだ。
「ギルも食べて下さい」
私はポケットに入っていたキャラメルをギルに差し出した。ギルはキャラメルを見て、私の方を見て、微笑む。
「ありがと」
キャラメルは口に入れるとやっぱり甘くて、けれどその甘さがかえって落ち着いた。
キャラメルを舐めていると会話がなくなって、ギルは壁にもたれた。
「少し寝ていい? 三時間たったら起こして」
「ずっと寝てていいですよ」
「そしたらアリア寝れないだろうが。それにその頃には薬効いてるだろうから、回復かけられるようだったらかけて欲しい」
ああ、そういうことか。私は頷いた。
「ごめん、じゃあ、よろしく」
ギルは壁にもたれたまま目を閉じた。
あまり音を立てないように懐中時計を取り出して見てみると、もう七時になっていた。何もせずに三時間すごすのは意外と辛いことに気付いて、何かいい方法はないか考えていると、ギルが目を開けてこちらを見ていた。
「あ、すみません、うるさかったですか?」
「いや、そうじゃなくて」
ギルは言い辛そうに目を伏せる。
「あのさ、肩貸してもらっちゃ駄目?」
一瞬、意味が分からなくて私は首をかしげた。
「肩って肩ですか?」
私は自分の肩を指差すと、ギルは曖昧にうなりながら頷く。
「いいですけど」
「や、壁痛くて」
尋ねていないのに理由を言われたので、何か思うところがあるのかもしれない。私はギルの隣に寄って壁に背をつけた。
「重かったらどいていいから」
「それじゃ意味ないじゃないですか」
「あ、うん、そっか」
ギルは小さく返事をしながら私の左肩に肩を寄せた。
目を閉じたギルの顔が何だか可愛くて、私はギルの頭の上に手を置いていた。ギルが弾かれたように私を見て目を丸くする。その顔は気のせいではなくて、赤く染まっていた。
「いつもこうやってされるから、お返しです」
私はギルの髪を撫でて笑った。ギルは赤い顔のまま居心地が悪そうに視線をそらして、目を伏せた。
夢を夢と気付くのは眠りが浅い時で、今も私は森の中をさまよっていたから、夢だと分かった。私は横穴でギルと一緒に休んでいたはずだ。
目を覚まそうとした瞬間、景色が真っ白になって、声が聞こえた。
『そこか』
私は自分の体が跳ねるので、覚醒した。とっさにホルスターから銃をつかみ出してあたりを見るが、たき火が小さく燃えているだけだ。
うっかり眠ってしまったと思って、銃をしまって懐中時計を取り出そうとしたら、左肩で眠っているギルが小さくうめいた。様子がおかしいと思って見ると、穏やかに眠っているとは言いがたく、息が速く、浅い。
『世界の続き 白に包まれ 鳥に願い この身の先を浄化する ロザリオ』
ギルの左肩に触れて浄化の呪文をかけると、ギルは薄く目を開けた。
「ギル、回復かけます、だるいのと痛いのどっちですか」
金色の目が虚ろなまま私を見て、伏せられる。
「だる、い。てか、寒い」
まさかと思って額に手を当ててみると、はっきりと分かる程、熱かった。
「ごめんなさい、ちょっと傷見せて下さい」
私はギルの体を支えながらショルダーホルスターを取って、ワイシャツのボタンを外した。血で染まった左腕の包帯を取って、濡れた傷口に手をかざす。
『世界の続き 白に包まれ この身の先を回復する ノゼリオ』
薄緑色の光は傷口に吸いこまれて消える。けれど、変わらない。もし薬が効いていたとしてもノゼリオ(回復呪文)の効果は二十分の一になっているから、まだ分からない。そう思って私は続けて十数回ノゼリオ(回復呪文)を唱えた。
私は傷口にかざしていた指先を握りしめる。少しは塞がってもいいはずの傷口は痛々しいまま血をにじませている。
薬は軍内で仲間を誤射してしまった時のためのものだから、おそらく今回異形が導入してきた火器は魔力のかかり方も、毒の種類も違うのだ。
ギルの速い息の音が耳を塞いで、息がつまった。駄目だ、考えろ。まだギルの症状を軽くする方法が絶対にある。
私は思い出して、さっき見なかった懐中時計を見た。十一時五分で、眠ってしまう前から四時間たっている。薬は通常なら三時間程度で効き始めるので、やはり効かないのだろう。薬には頼れない、それなら一体どこから回復させれば。
ふと、懐中時計を持った右手を見て、白い包帯と、レイジの言葉が繋がった。
「ギル」
私はギルの肩を軽く叩いた。閉じていた金色の目がうっすらと開かれる。
「魔力移しさせて下さい」
私の言葉でギルの目ははっきりと私を見た。
異形に右手を折られた時、魔力の液体に投げこまれて一瞬で治ったことを思い出したのだ。あれは大量の魔力が体の中を通ると、体組織が活性化して回復が促進されるということだ。だから私の魔力をギルの体の中に通せば、少なくとも今よりは症状が軽くなるはずだった。
「魔力移しって、口移し?」
私は頷く。
「あの、さ、それ本気で言ってる?」
「本気です」
「今、冗談受けてる余裕、ないんだけど」
「冗談言ってる場合じゃないでしょう?」
私は思わず声を強くしてしまった。
「動力炉で異形に手を折られた時、魔力の水の中につかって一瞬で治ったんです。だから、私の魔力をギルに渡せば、少しはよくなると思うんです」
ギルは息をついたまま私を見つめていた。
「分かった、けど、嫌じゃないの?」
ああ、この期に及んでこの人はまだそんな心配をするのか。けれど最初に会った時もそうだった。私の黒い翼を見て、痛いからもういいと、言った人だった。
「嫌じゃないです」
私はギルの前に近付いて、膝立ちになる。
「ギルが辛い方が、嫌です」
ギルの両肩に手をかけて、唇を合わせた。
口の中に魔力を集めて、唇の隙間から流しこんでいく。魔力移しなどしたことがないから、上手くできているか分からない。それに、異形の言っていた通り体に収められる魔力には限界があるから、あまり魔力を送りすぎるのもよくない。
足りなかったらもう一度少しずつ送ればいいと思って口を離そうとしたら、ギルの腕に腰を捕まえられた。驚いて顔を離すと、背中を抱きしめられて、膝が折れた。
私が見上げる形になって混乱した頭で名前を呼ぼうとしたら、口を動かす前にギルの顔が近付いて、唇が触れた。
魔力移しでも何でもなく、ギルの指が頬から耳に触れていって、火がついたように体が熱くなった。さっきまでは感じなかった。けれど今は、触れられている頬も、合わさった唇も、熱い。
ギルの肩を握ってしまって、ギルは気付いたように顔を離す。目を見ることができなくて顔をそらすと、背中を抱かれて息がつまった。
どうすればいいのか、分からない。具合はよくなったのかとか、尋ねることはあるのに、声が、出ない。ただ自分の速い鼓動の音だけが続いていって、ギルは少し腕を緩めた。
「アリア」
呼ばれて、体が跳ねた。やっぱり顔を上げることができずにいると、頬を包まれて私と同じ目線の高さまでのぞきこまれる。ギルはためらうような顔で私を見つめていて、私は視線をギルの首元に移した。
「好きだよ」
何を言われたのか分からなくて、私は驚いてギルの目を見た。金色の目と目が合うと、ギルは困ったように微笑む。
「こんな時にごめん。でも、好き」
私は、言葉に対する返事を持てなかった。こみ上げてくる言葉はたくさんあるのに、何を言えばいいのか分からない。
「ギル」
ようやく名前を言って、そこで思考がかき消された。
小さく響いた靴音に、振り返って反射でホルスターから銃を抜いていた。ギルも銃を取っていて、穴の入口へ向けて立ち上がる。私も立ち上がって、入口へ向けて両手で構えた。左手は魔法を撃ちやすいように魔力を集めておく。
入口の暗闇から聞こえてくる足音はおそらく一人で、敵か味方か分からない。
けれど先程の夢で見た白い景色が今更頭の中で繋がって、私はとっさにギルより前へ出た。
『ワプラ』
空気を裂いて目の前に迫る電気の光に左手を振るう。
『オスタ』
光の前に放った水の中で火花が弾けて、目をつぶった。
音が収まって目を開いた先には、やはり、ルリオスティーゴが立っていた。左腕は翼ではなく、人の腕で銃を下げている。
すぐに銃を撃ってしまえばよかった。けれど、それでも劣勢に追いこまれそうで、撃つのをためらった。
「どうやって探り当てたか聞かないのか」
ルリオスティーゴが言う。言葉は私ではなくて、ギルに向けられている。
「どうせまたアリアの夢に入ったんだろ」
「ご名答」
ルリオスティーゴは薄く笑って、銃を上げた。
ギルが連続で撃った。ルリオスティーゴは壁際を走り、リボルバーの銃口がこちらへ向けられて私は反射で唱える。
『アリス』
ルリオスティーゴが右手を突き出す。
『アリス』
風は風に相殺されて、突風を作り出す。風の中、ギルに腕を引かれて私は壁に背を打ちつけた。
銃声が三つ聞こえて、静かになった。ギルは私をかばうように立っていて、崩れるように片膝をついて、体を折る。
銃を下ろしたルリオスティーゴが血まみれの手でギルの手から銃を取り上げて、遠くへ投げ捨てた。反動でギルの体は力を失ったように、地面に倒れた。
ギルを越えて、ルリオスティーゴがこちらへ来る。私は銃を構えていた。けれど手も、足も震えていて、力が入らない。引き金を引いたのとルリオスティーゴに手をつかまれたのは同時で、弾は空しく中空を切る。
「来い」
「ギル」
やっと、呼べた。体が震えているのは、ルリオスティーゴを恐れているからではない。ギルがどこを撃たれたか、私は見ていない。
「脚を撃っただけだ。こっちも腕を持ってかれたんだから同等だろう」
つかまれた手にルリオスティーゴの血が伝ってきて、私はもう一度銃を撃った。
『ワプラ』
体中に痛みが走って、力の入らなくなった手から銃が落ちた。崩れる体をルリオスティーゴの腕に引き上げられる。
「運ぶのは面倒だ。封印をかけるから自分で歩け」
私はせめても精一杯視線に力をこめて、ルリオスティーゴを睨んだ。
「嫌です、ついてなんか、いかない」
ルリオスティーゴの瞳が不機嫌そうに歪む。
「自分の立場を考えろ。それなら気絶させるまでだ」
衣擦れの音が聞こえて驚いて振り向くと、ギルが地面に手をついて、上体を起こそうとしていた。腿のあたりの地面に黒い染みが広がっていて、吐く息は速く、浅い。
ルリオスティーゴが私から手を離して、私は支えを失って地面に膝をつく。
「いいことを教えてやる」
ルリオスティーゴはギルの側で立ち止まった。
「弾に塗ったのは神経毒だ。貫通しても普通はすぐに動けなくなる。他にも数発かすっていただろう、なのにお前は動いている」
ルリオスティーゴはしゃがみこんでギルの赤い髪をつかんで持ち上げる。
「お前、何者だ?」
ギルは薄く開いた目でルリオスティーゴを見据える。
「いてえ、引っぱんな」
私は痺れの治まってきた手で、落ちていた自分の銃を拾い上げた。膝立ちのままルリオスティーゴの肩を狙って一発撃つと、ルリオスティーゴは弾かれたように地面に伏せて、ギルの喉に銃口を当てた。
私は息がつまって、銃を握りしめる。
「人質を取るのは好きじゃない」
ルリオスティーゴの目は冷ややかで、微笑は消えていた。
「だがお前が抵抗するなら、殺す」
急速に指先が冷えていく。そんなの、選択肢は一つしかない。
ギルを見ると、ギルはかろうじて保っているのだろう意識で私を見ていた。唇が言葉の形に動いて、頭に焼け付くようにギルの意識が流れこんできた。動力炉の時と同じ、けれど今度はもっと強く、焼きついたのはギルの思考ではなくて、感情そのものだった。
『行くな』
確かにギルは、そう言った。
私はゆっくりと、銃を下ろした。
「安全装置をかけてから渡せ」
ルリオスティーゴが私の方に手を差し出して、私は安全装置を下ろしてから膝のまま歩いて銃を渡した。
「行くな」
途切れた小さな声にギルの方を振り向くと、ギルの瞳が歪む。
「行くな」
刺すような叫び声に、私はそれ以上目を合わせていられなかった。ルリオスティーゴが銃を受け取った手でそのまま私の手首をつかむ。
『世界の終わり 透に包まれ 鳥に願い この身の先を封印する フレイア』
手首から流れこんできた魔力で、体の中の魔力の動きが鈍くなる。完全に抑えられた訳ではないが、使える魔力の量も強さも普段の十分の一程になっている。
ようやくルリオスティーゴは立ち上がって、銃を下げて穴の入口へ歩き出した。
「来い」
振り返ったルリオスティーゴに私は首を振る。
「待って下さい、せめて解毒剤をください」
ルリオスティーゴの瞳が細くなって私を睨みつける。
「阿呆か。敵に薬を渡す馬鹿がどこにいる」
「だってこのままじゃ」
叫ぶとルリオスティーゴはこちらへ戻ってきて、私の腕をつかみ上げて体ごと引きずっていく。抵抗しようと反対側に体重をかけるが、体を覆っていた魔力もなくなってしまったので簡単に引きずられてしまう。
どんどん暗闇に飲まれていく中、私はギルを振り返る。それでもまだ地面に手をついているギルの姿を見て、苦しげに細くなった金色の目と目が合った。
電気のように頭の中に焼きついたギルの心は、自責だった。
ああ、そうじゃ、ない。悪いのは私で、私のせいでみんなが傷付くのに、私は世界を壊す力を持っていても、ギルを助けられない。
この力でなければよかった。誰かを救える力がよかった。こんな力ではなくて、ギルと普通に出会って、笑いたかった。
思いがこみ上げてきて、私は叫んだ。
「ギル」
私は初めてこの体を呪って、泣いた。
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