この気持ちを表す言葉
誰かが私の目の前で喋っている。
茶色いブーツに薄い布でできた白いタンクトップとズボン、白い素肌に金色の腕輪をたくさんしていて、髪は毛先の跳ねた白っぽい金髪、目は若葉のような緑色だった。
とても美しい顔をしているけれど、体つきと、先程から聞こえている声で男性だと分かる。歳は私とそんなに変わらないように見えるから、二十歳前後だろう。一度見たら忘れられない印象なのに、目を離すとすぐに記憶が曖昧になる。
男性は何かに気付いたように声を上げる。
「これなら通じるだろ」
男性の声が、初めて意味のある言葉に聞こえた。男性は眉を寄せてこちらに近寄ってくる。
「聞こえているなら返事をしろ」
「聞こえてます、けど」
男性は満足そうに口の端を上げる。視線が上から下へ動いて、私を眺めているのだと分かる。
「誰ですか」
男性は私と目を合わせて、おかしそうに笑った。
「今日は試しに見に来ただけだ。詮索なら次にしろ」
私は眉を寄せる。
「時間だ」
私はいつも枕元に置いている懐中時計を探った。右手に違和感があって、見ると白い包帯でぐるぐる巻きにされている。それだけならまだしも、手首に添え木がされているようで、物がつかめない。
指先だけで懐中時計を開いて見ると、ああ、そういえば今のは夢だったのかと思い出した。盤面は六時半を少しすぎていて、薄暗いから多分夜だと思う。
上体を起こして部屋を見渡すと、いつも自分が寝起きしている部屋ではなかった。一人分の部屋にしては広く、チェストと机が綺麗に並んでいて、大きな窓にはレースのカーテンが引かれ、ベランダごしに木の上半分と月が透けて見えた。
記憶をたどる。思い出すと、私が最後に見たのは動力炉でのギルの顔だった。捕まったのか、助かったのか。
右手に巻かれた白い包帯を見ると、異形を撃った瞬間を思い出してしまって、頭から血が引いていく感覚がした。まずいと思ってめまいを覚える前に横になって、深呼吸を繰り返す。最近は落ち着いてきたと思ったが、そうでもないらしい。一番頻繁に起きていたのは、四年前だ。
遠ざかっていた体をようやく自分のものとして認識できて、私はゆっくり上体を起こした。その時初めて、サイドテーブルの水差しの下に挟まれた紙片に気付いた。
『目が覚めたら薬を飲んで下さい。七時から戦勝パーティがあります。もし体調がよければ出席して欲しいとのことです。(あたしは寝てる方をお勧めするけど。)着替えはチェストの中に入っています。シディ・ビジュネ』
紙片を開くと、綺麗な字で書かれていた。シディも、助かったのだ。私は紙片を見つめたまま、胸に手を当てて、深く息を吐いた。
支度を終えて廊下に出ると、見知った皇舎の中だった。赤い軍服の胸ポケットから懐中時計を引き出して見ると六時五十五分だった。中央のホールだったら急げば間に合うだろう。右手の添え木のせいで、着替えに手間取ってしまった。噴水に投げこまれた時の魔力で治っているはずだが、念のためだろうか。体はどこも痛まないし、左腕もいつも通りに戻っている。
白い包帯が仰々しい右手を眺めながら歩いていると、高い声に名前を呼ばれた。見ると、正面からシディが小走りに私の方へ向かってくる。
「様子見に行こうと思ったのに。平気なの?」
私と同じ赤い軍服のシディは、走って乱れたボブの金髪を頬から払う。
「平気です」
「敬語抜きでいいから。色々聞いたけど同い年なんでしょ。ほぼ同期なんだから、面倒くさい」
私はシディの勢いに押されて頷いていた。
「じゃあ、大丈夫」
「薬は飲んだ?」
「あ、忘れました、じゃなくて、忘れた」
シディは腕を組んで私を睨む。
「まあいいか。動けるんだったら何かお腹に入れた方がいいし。お酒は飲んじゃ駄目だからね」
シディが今しがた来た方へ引き返していくので、私は横並びについていく。
「でも、痛み止めでしょう? 別に痛くないし、動かせると思う」
私はシディの前に右手を差し出す。今は添え木に固定されているから手首は動かせないが、指は動く。
「そんな訳ないでしょ、回復かけてないのに。って、今かけるから手、貸して」
私は手を引いて首を振る。
「あの、動力炉で魔力の水の中に落ちたから、多分治ってると思う」
「意味が分からないんだけど」
「魔力の水の中に落ちて魔力が体の中を通ったから、再生が促進されたというか、ノゼリオ(回復呪文)と同じ効果なんだけど」
シディは眉をひそめたが、諦めたのかあまり納得していない顔で二、三度頷いた。
「あんたが痛くないって言うんだったらいいけど。あと、体内の魔力を整える薬。あんた、その凝縮された魔力の中に落とされたんでしょ? あたしは見てないけど」
噴水に満ちていた薄緑色の液体のことだ。あれに落ちるということは、普通の人間なら体が膨大な魔力を収められず、体が壊れて魔力に還元される。私はあそこにあった魔力より、体が収められる魔力の方が大きかったというだけの話だ。
「今は、多分、大丈夫です。あ、大丈夫」
「無理に直さなくてもいいけど」
私は首を振る。
「今まで話せる人がそんなにいなかったから、いいの、嬉しいから頑張る」
シディは珍しそうに私の顔を見て、笑う。
「あんた、変」
「ど、どうして? どこが? 言ってくれれば直すから」
「別に直して欲しいとかそういうのじゃない」
ホールの入口にいる警備の兵士に敬礼して中に入ると、既にパーティは始まっていて、皆自由に立食していた。戦勝パーティだというから、この前には陛下の言葉があったはずで、聞けなかったことが残念だった。
黒い軍服の中に赤い軍服がちらほら混じっているのが見えて、その内の二つがこちらに近付いてくる。
「アリア」
グラスを持ったギルが足早に駆けてきて、もう一人、知らない男性がゆっくりついてきた。
「大丈夫か?」
私は返事をして頷く。
「連れてきましたよ。ご指示通りね」
シディが投げやりに言うと、ギルは困ったように髪をかき混ぜる。
「俺に当たるなよ」
「分かってますよ。まったく、負傷者をパーティに引きずり出すなんて何を考えてるんだか」
「何の話ですか。あ、何の、話?」
言い直してシディを見る私を、ギルが不思議そうな目で見る。
「友達になることにしたんですよ」
シディが言うと、ギルは不思議そうな顔のまま相槌を打った。
「陛下ができればあんたを連れてきて欲しいって言ったの」
シディは気に入らないようだが、私にとっては陛下に気にかけてもらえるのは嬉しいことだった。
「多分、陛下は私の体調を分かってるんだと思う」
「分かってるに決まってるでしょ。報告したんだから」
「そういうことじゃなくて、もっと根本的な、体のことというか」
シディが眉を寄せる。
「アリア、あんた本当に陛下と、そういうあれなの?」
そういうあれとは何だろう。今度は私が眉を寄せる。ギルを見ると、複雑な表情で固まっていた。その後ろで、先程ギルについてきた知らない男性が声を殺して笑っていた。男性は私と目が合うと、微笑んでギルの背中を叩く。
「ギル、紹介」
ギルは気付いたように振り返る。
「あ、ええと、俺の同期」
「レイジ・アヤセです。レイジって呼んでね。アリアちゃん」「先輩」
シディが低い声で語尾をかき消す。
レイジ・アヤセはギルよりも頭少し飛び抜けていて、黒い髪に黒い目をしていた。黒髪はよく見るが、目まで黒いのは珍しい。緩くくせのある髪が赤い軍服によく映えていた。
「何、シディ、やきもち?」
「蜂の巣にされたいようですね。この子に変なことを吹きこまないで下さい」
ようやく私は自分が名乗っていなかったことに気付いた。
「アリア・トリニアです」
レイジは満足そうに微笑む。
「うん、ギルから色々聞いたよ。トリニア大将の娘さんなんだってね。とっても強いっていうからもっとつんつんした感じの子かと思ってたけど、可愛いね。小さくて」
小さいとは、背のことだろうか。確かに私はシディより背が低い。
「よく見ると目の色違うんだね。左が緑で右が、青か」
レイジの顔が近付いてきて、私は反射で一歩後ずさりした。
「先輩」「レイジ」
シディとギルの声が重なる。
「何だよ、ギルまでやきもちか」
「やめろ気色悪い」
ギルが叫ぶ。
「冗談。俺だって嫌だよ。お気に入りの子には目印つけておかないと取られちゃうぞ。たとえば俺とかに」
「それ、相手もお前を気に入ったらの話だろ」
「じゃあアリアちゃん、一緒に中庭でも行こうか」
「先輩、何でこの人連れてきたんですか」
「勝手についてきたんだよ。俺のせいじゃねえ」
「楽しそうだな」
外側から投げられた声に振り向くと、そこにはマントをはおり、皇帝衣に身を包んだ陛下が微笑して立っていた。流れる空気が一変して緊張する。いつからいたのか、まったく気付かなかった。
陛下はおかしそうに吹き出して口元を押さえる。
「そんなにかしこまらなくていい。先も伝えたが、ギル、シディ、アリア、お前達の活躍は見事だった。レイジ、お前も前線でよく戦ってくれた。感謝している」
皆口々に礼を返す。
「アリア、体調はもういいのか」
私は言いかけた言葉を一度飲みこんで、はいと返事をした。
「呼びつけておいて何だが、無理はしないようにしなさい。では、邪魔をしてすまなかった」
陛下が離れていくと、誰からともなく息を吐き出す音が聞こえた。
「うわあ、俺明日殺されてるかも」
レイジが深刻な顔をしてため息をつく。
「よく分かってるじゃないですか。日頃の行いですね」
「というか陛下がライバルなんて反則だろ。若いし、金持ちだし、愛人の噂もあったけど皇帝だし。ギルと同い年だっけ? それなのにこの差は何だ、なあギル」
「お前の妄想なんて知るか。あと陛下は二十三で、俺は二十歳だっての。それより、笑ってるところ、初めて見た」
ギルが私の方を見る。確かに陛下と会えて嬉しかったから、笑っていたと思う。
「私、笑ったことなかったですか?」
「初めて見た」
なぜかギルは嬉しそうに微笑んだ。
「ふうん、じゃあ会ってすぐ見れた俺ラッキー。女の子は笑った方が可愛いんだから、もっと笑うといいよ。あ、シディもね」
「無理に付け足さなくていいです」
「冷たいなあ。そんなんじゃすぐお婆さんになっちゃうぞ」
「先輩、発砲許可をください。今すぐに」
シディがギルの方を向く。
「シディ落ち着け」
ギルが私の方を向いて、笑った。
「笑ってくれた」
私は多分、嬉しいのだった。陛下に会えたのも嬉しかったけれど、今までこんなにたくさんの会話に入ったことがなかったから、話の中にいられるというだけで、満ち足りる。
「何がおかしいの、アリア」
シディが私の頭をかき回していく。
「ご、ごめんなさい」
「冗談よ。冗談通じないの、あんた」
シディは呆れたように言った。
「陛下ー、シディがアリアちゃんをいじめてますよー」
「窓から飛び降りて来て下さい今すぐに」
シディは冷たい目でレイジを一瞥して、私に向き直る。
「さて、飲み物もらいに行きましょうか。せっかく来たんだから食べるなり飲むなりしないと」
「あ、じゃあ俺全部取ってくるよ。もうないし」
ギルが中身の少なくなったグラスを振る。
「じゃあ、私も行きます。一人で四つは危ないので」
私が言うと、レイジが手で私を制す。
「アリアちゃん片手使えないんだろ?」
右手を見て、思い出した。そういえば包帯でぐるぐる巻きにされていたのだった。
「でも、痛くないし、指は動くので」
「いいよ。俺が三つ持つから」
私の言葉にギルが重ねる。
「む、だから俺も行くって言おうと思ったのに」
「先輩は私とご飯係にして下さい。手は五つもいりません」
レイジは不満そうに腕を組んで頬を膨らませる。
「まあギルと一緒よりはシディと一緒の方がいいけどさ」
「いちいち喧嘩売らないで下さい。殴りますよ」
「で、二人共何飲む?」
ギルが言葉を挟む。
「申し訳ないんですが、本調子じゃないのでジュースで。なかったら水でいいです」
「俺はカルーアミルクがいいなあ」
「カルーアあったかな。まあなかったら適当に持ってくるよ。アリア、行こう」
「あ、アリア、あんたもジュースにするのよ」
振り返ってシディに頷いておいた。私はギルに追いついて横に並ぶ。今までちゃんと見ていなかったが、テーブルクロスの上には色々な種類の料理が並び、軍服姿の兵士達が老若入り乱れて談笑していた。
「体調は本当に悪くないの?」
私は頷く。
「変なところは特にないです。そういえば、あの後どうなったんですか?」
「あの後って、動力炉?」
私が頷くと、ギルは思い出そうとするように上を向く。
「あの後は、異形が逃げていって、俺は救助の応援を呼んだくらいかな」
「逃がしたんですか?」
「向こうはもう戦意喪失してたし、俺だけじゃあの数は無理だった」
そう言われてみればそうだった。私が白髪の異形を殺してしまってから、彼らは戦う意志を失っていた。
「私、おかしくなかったですか」
ギルは首をかしげる。
「どういうこと?」
「倒れた後、起き上がったりしませんでしたか?」
「しなかったけど、何で?」
私は首を振る。
「何もなかったならいいんです」
ギルが立ち止まったテーブルには、飲み物が入ったグラスが整然と並んでいた。
「俺三つ持つから、アリアは自分の選んで。ジュースは多分こっち」
私は側にいたエプロン姿の兵士に尋ねて、ぶどうジュースを手に取った。ギルは両手で器用に三つグラスを持って歩き出す。
「手は、痛いの? その、どっちも」
ギルが左腕のことを尋ねているのだと分かった。
「どっちも痛くないです。特に右手は治ってると思います」
ギルは神妙な顔で頷く。
「あのさ」
「何ですか?」
「言いたくなかったらいいんだけど。その、本当に陛下と結婚を前提にしてるの?」
私の頭の中に一瞬、疑問符が浮かぶ。
「そういう気はないですけど、どうしてですか?」
「いや、かなり親しそうだから。って、それはトリニア大将の娘だからなのか」
最後の方は独り言のようだった。
「陛下には小さい頃からお世話になっていたので、そう見えるんだと思います」
「トリニア大将に挨拶に行かないの?」
「ちょっと、迷っていました。こういう時は行った方がいいんでしょうか」
ギルは思いつめたような表情で持っているグラスを眺めて、私の方を向く。
「あの、本当に失礼を承知で言うんだけど、トリニア大将に娘がいたって、今回初めて聞いたんだ。だから、アリアは本当に」
「アリア」
明後日の方向から名前を呼ばれて、私は振り向く。
黒い軍服を着た薄茶色の髪の男性が、こちらに歩いてくる。五十歳も間近だというのに体に無駄な肉はついておらず、立ち振る舞いも颯爽としている。
「父様」
私は反射で呟いていた。
「体調はもういいのか。陛下が無理矢理呼び出したそうだな」
父様は笑いながら私の側で立ち止まった。陛下に対して冗談が言えるのは、先代の皇帝からも信頼が厚かった父様くらいだと聞いた。父様にとっては陛下のことも生まれた頃から知っているから、息子のような存在なのかもしれない。
「体調は大丈夫。挨拶に行こうか迷ってて」
「来てもらえないとは淋しいな。今回初陣ながら大活躍だったそうじゃないか。なあギル」
父様がギルに視線を向ける。
「ええ、彼女のおかげで助かりました」
「アリアは、強いだろう。おまけに可愛い。まあお前にはやらんがな」
父様は笑ってギルの肩を叩く。
「お言葉通り、私にはもったいないです」
ギルは困ったように微笑んだ。
「まあ今後も面倒をみてやってくれ。アリア、遅くならないうちに戻るんだぞ」
私は返事をして、去っていく父様の後ろ姿を見ていた。ギルに声をかけられて、また横並びについていく。
「そういえば話の途中でしたね」
「いや、やっぱりいいや」
ギルは先程と同じように、今度は私に向けて困ったように微笑んだ。気になると言おうとしたら、シディとレイジが円いテーブルの側で手招きしているのが見えたので、口をつぐむ。テーブルの上には誰がそんなに食べるのか、結構な量の料理が取り分けられていた。
「はいシディ、レイジはこっち」
ギルは両手で持っていたグラスを渡す。
「じゃあギル、乾杯よろしく」
ギルは面倒そうな目でレイジを見る。
「言い出したのにやらないのかよ。まあいいや。みんな無事帰ってこれて、お疲れ様。乾杯」
「短いな。乾杯」
「やらせといて文句言うな」
言いながら、でも楽しそうに、ギルは二人とグラスをぶつける。私も目で呼ばれて、ギルとグラスをぶつけた。こういう乾杯の仕方は初めてなので、合っているか分からないが、二人にもグラスを合わせて中身を飲んだ。
「先輩、これお酒入ってますよ」
シディは今しがた口をつけたグラスを見る。
「え、嘘、ごめん。アリアのは?」
「入ってない、と思いますけど。お酒飲んだことがないので、味が分からないです」
「へえ、お酒飲んだことないの? これはちゃんとカルーアだったから飲んでみる?」
レイジは笑顔で、牛乳にココアを混ぜたような色合いのグラスを指差す。
「お前は黙ってろ。ちょっと」
ギルの手が私が持っているグラスを取ろうとして、止まる。
「あう、えっと、じゃなくて。シディ、ちょっと飲んでみて」
「何だ、ギル、今ためらったな? せっかくの間接ちゅーのチャンスを逃すなんて男じゃないぞ」
レイジが意地の悪い笑みを浮かべながらギルをのぞきこむ。
「お前本当に口を糊付けしろ。じゃなきゃ窓から飛び降りろ」
「ちなみに俺なら絶対にためらわない」
「気にしなくていいから」
シディが言って私のグラスを取って中身を飲む。
「アリアのはジュースですね」
「そっか。ならよかった」
ギルは安心したのか、笑顔を見せる。
「酔っ払ってるアリアちゃんも見たかったなあ」
「お前が酔っ払ってさっさと退場しろ」
「カルーアだけじゃ酔えないって」
「もうウォッカを原液で飲んで喉を焼け。それが一番いい」
私は無事ジュース認定されたぶどうジュースを飲んで、隣のシディを見た。
「ジュース持ってくる?」
私が言うとシディは首を振って、ギルが持ってきたお酒を飲んだ。
「いい、飲めない訳じゃないし。アリアももし飲みたいんだったら、体調戻ってからにしなよ」
「お酒ってそんなに危ないの?」
「あんた本当に箱入りなの?」
逆に聞き返されてしまった。
「今までほとんど陛下と父様としか喋ったことないから、知らないことは多いと思う、けど」
シディは訝しげに相槌を打つ。
「まあ、お酒はある意味危ないかもね」
でも陛下と父様がお酒を飲んでいるところを見たことがあるが、そんなに危ないものには見えなかった。シディに言うと、何事か考えるようにまたグラスを口に運ぶ。
「あの二人はね。私的に飲んだことはないから分からないけど。まあ世の中にはお酒に泣いたり、笑ったり、後悔する人がたくさんいる訳よ」
「アリアちゃん、あーんってしてよ。むしろ俺がしてあげるからこっちおいで」
「ちなみに先輩は飲んでも酔わないタイプ。というか普段から酔っ払ってるようなものだから変わらないけど。断っていいから」
どう反応していいのか分からずに手招きしているレイジを見ていたら、ギルがレイジの顔の前にスプーンを突きつけた。
「や、め、ろ。アリアにやらせるくらいなら俺がやる」
「うわ、気持ち悪」
レイジは本気で嫌そうな顔をして一歩下がる。
「俺だって願い下げだ。お前からアリアを守るために仕方なくだ」
「シディならいいって?」
「いいですよ」
シディが表情一つ変えずに言うと、ギルとレイジがこちらを見て完全に動きを止めた。
「ああ、俺、やっぱり今日殺されるんだ。もうおしまいだみんな今までありがとう」
「シディ、冗談でも言っていいことと悪いことがあるんだぞ」
レイジとギルが口々に言う。
「結局受けても断っても同じなら聞かないで下さい」
私は思わず笑ってしまった。
「私もギルがレイジにご飯食べさせてるところ、ちょっと見てみたいです」
二人が今度は私の方を見て、動きを止める。
「あああ、レイジとか言われて嬉しいけどアリアちゃんが一番えぐいよ」
「アリア、冗談でも言っていいことと悪いことがあってだな」
私は、必死に私を諭そうとしているギルの言葉をくすぐったい気持ちで聞いていた。
結局、会話の応酬は夜遅くまで続き、シディが部屋に戻るというのに合わせて解散になった。ギルとレイジが皇舎が分かれる前まで送ってくれて、途中からはシディと二人になった。私の部屋は数時間前に目覚めたところだそうで、シディの部屋は隣らしい。いつもなら廊下も薄暗くなっている時間なのだが、今日はまだ明かりがついている。
靴音混じりに名前を呼ばれて、私はシディへ振り向いた。
「今の勢いで聞きたいだけだから、言わなくてもいいから。あんた、陛下と血が繋がってるの?」
多分、もう顔に出てしまっただろう。今から取り繕っても自然には振る舞えない。
「内緒にしておいて欲しいんだけど」
「あっさり白状してどうすんの。ってあたしが言えた義理じゃないか。一応うっかり口は滑らせないように努力するけど」
「どうして分かったの?」
「何となく似てるから。目とか」
確かに私の右目は陛下と同じ色の青だ。
「でも、片方は違うのに」
「色もそうだけど、目の形とか」
そんなに似ているだろうか。自分では分からなかったが、人から見ると似ているのかもしれない。
「トリニア大将の養女っていうことでいいの?」
私は頷く。
「いつから?」
「四年前、かな?」
「何で?」
言葉につまった私を見て、シディは踏みこみすぎたと思ったらしい。
「ごめん、聞きすぎた」
「あの、そういう訳じゃなくて、私もあんまりよく分かってなくて。ただ」
言ってはいけないことを口に出しそうになって、寸前で止めた。
「陛下が、父様、じゃなくて、トリニア大将の娘になりなさいって。それじゃ、駄目?」
「別にいいよ。駄目も何もあたしが無理矢理聞き出したんだし。でもまあ、これで箱入りの理由が少し分かったかな。あんた、立場的にはお姫様なんじゃないの?」
確かに考えてみればそうなのかもしれない。けれど自分を姫だと思ったことは一度もないし、陛下もそういう扱いはしなかった気がする。
「でも陛下はブリューテ・ドウタに入って戦いなさいって言ったから、お姫様ではないよ」
「まあ、あたしもあんたをお姫様扱いするつもりはないけどね。同じ仕事仲間として頑張ってもらわないと」
喋っている内に部屋の前について、それぞれの扉に手をかける。
「じゃあ、明日。ちゃんと寝なよ」
淋しかったけれど嬉しくもあって、私は笑ってシディに手を振った。
まただった。私は、つい数時間前に夢に出てきた男性と向かい合っていた。空間は先程と同じ真っ白で、目の前の男性しか見えない。
男性は私を値踏みするような目で上から下まで眺め回す。
「聞いていたのと違うな。擬態してるのか?」
「今度は何ですか」
「別に。暇だからもう一度お前を見に来ただけだ。お前、黒の鳥を飼ってるんだろう?」
男性はさして重要なことでもなさそうに私の左腕を指差す。私は、何も考えないように、黙っていた。
「まあいい、戦えば分かることだ。お前には最終的にこちら側に来てもらうしな」
「こちら側って何ですか」
「
零間とは人間と対になる、異形の本来の呼び方である。
「何でそんなことあなたに決められないといけないんですか。誰だかも知らないのに」
男性を睨むと、男性は気分を害したように唇を歪めて、攻撃的に、笑った。
「何なら今連れていくか?」
頬に風が流れたような気がして、目を開ける。もう一度空気の流れを感じて、反射で上体を起こす。
人の背丈以上ある窓が開いていて、揺らめくカーテンの前に、夢で見た男性がもたれて腕を組んでいた。高く昇った月の光が、色素の薄い金髪を透かしている。なぜ夢の中の人がいるのか疑問に思う前に、男性の体から向けられている押し潰されそうな程の魔力に、肌が粟立つ。銃は手元に置いていない。呪文に意識を集中させる前に、男性が一歩踏み出してくる。
目をそらせなかった。多分魔力を集中させた瞬間に、私は何らかの形で死んでいるだろうと思った。男性は歩いてきて、ベッドの前で止まり、私の首を包むように、片手で触れた。
今何か撃たれれば、間違いなく死ぬ。
「汗をかいてる。怖いのか」
指先にこめられた魔力とは裏腹に、男性の声は子供に話しかけるように柔らかかった。歯をかみしめていないと、声を上げてしまう。それでも、胸元をつかんだ指は震えて冷たくなっている。けれど、どちらにしろ死んで黒の鳥を野放しにするなら、今開放してしまった方が、いい。
男性は視線を外して、つまらなそうに部屋の扉に目をやった。
「まあいい。時間だ」
瞬間、私は全ての制御を外した左腕を叩きつけるようにふるった。つもりだったが、電気の音と共に体が痛みで痺れて、天井を仰いでいた。
「お前がいくら鳥を飼っていても、明らかに経験不足だ」
男性は気付いたように笑みを浮かべて、私の顔の横に手をつく。
「これが鳥か」
私は黒色の翼の形に変わった腕を動かそうと力をこめるが、麻痺しているのか、感覚がない。
「安心しろ。今お前をどうこうするつもりはない」
「さっきと、言ってることが違う」
「大事になると面倒なだけだ」
男性はもう一度扉に視線を向ける。私の耳にも、廊下を叩く靴音が聞こえてくる。
蹴破られるように開いた扉の向こうに見えたのは、肩で息をしているギルだった。男性は私の横から手を離して、ギルの方を向く。
「網の主はお前か」
男性が言葉を投げると、ギルは乱れた息と共に「そうだ」と言った。開け放たれた扉の向こうから騒々しい物音がして、ギルの後ろにシディが現れる。パジャマにガウンをはおっただけの姿で、驚いた表情でこちらを見ている。
男性は特に表情を見せず、ギルは男性を睨んで、互いに距離をつめない。
「何者だ」
ギルが言うと、男性は聞こえなかったかのように何も反応しなかった。
「目的は何だ」
男性は口元だけで笑う。
「今争うつもりはない。好奇心で来てみたら騒ぎになっただけだ」
「何でアリアを狙った」
男性は笑みを浮かべたまま、もう一度私の首をつかんだ。力は入っていない、けれど魔力の通った指先は驚く程冷たく、そこから全身の熱が引いた。
左腕の感覚は戻っている。でも、動いたら、殺される。
「てめえ」
『ワプラ』
男性がギルに向けて雷撃を放つ。光と音が炸裂して、目が戻ると、ギルは床にうつぶせに倒れていて動かなかった。「先輩」シディがギルに駆け寄り、こちらを仰ぐ。
「さすがに騒ぎすぎたな」
男性は独り言なのか呟くと、私の首から手を離して、開けっ放しだった窓まで歩いていく。うめき声が聞こえて扉の方を見ると、ギルが床に手をついて、体を起こしていた。
「殺すつもりでやったんだが、意外と丈夫だな」
男性は意外そうな声をあげて、笑った。
「あれくらいでやられるか」
「まあいい、近い内に会うだろうしな。その時はあれを連れていく」
男性の緑の目と、目が合った。緑色の目はすぐにギルに向かう。
「あれは俺のものだ」
笑みを浮かべながら低い声で言い放って、男性はベランダから駆けるように飛び降りた。
「アリア」
静寂の後、ギルに呼ばれて、私はベッドから上体を起こそうとした。けれど支える腕から力が抜けて、またベッドに倒れこむ。シディがギルにノゼリオ(回復呪文)を唱え、そのまま駆けてきて、ベッドの隣にしゃがみこんだ。
「そのままでいいから。怪我は?」
私は首を横に振る。
「怪我はしてない。でも、怖かっ、た」
我ながら何を言っているのだろうと思ったが、本心だった。まだ指先の内側の方に、震えが残っている。シディは私の手を取って、肩を軽く叩いてくれた。体温を感じたら左腕に痛みが戻ってきて、見るとまだ黒い翼の形のままだった。ギルが歩いてきたのが分かって、顔を向ける。
「大丈夫か?」
私が頷くと、ギルは私の左腕に視線を移して、自分が痛むかのように目を細める。
「ギルは?」
尋ねるとギルは笑って、手を開いたり閉じたりしてみせた。
「ちょっと痺れてるけど大したことない。回復ももらったし」
ギルは笑みを消してシディに向き直る。
「陛下に報告してくるから、ここを頼む」
「私が行きます。先輩は休んでいて下さい」
「いいのか、そんな格好で」
シディは薄いパジャマの上にガウンをはおっただけの格好だ。
「非常事態なんだから陛下も大目に見て下さるはずです」
「なら、任せる」
シディは立ち上がって扉のところまで歩いていって、思い出したように振り返った。
「アリアに変なことしないで下さいね」
「するか。レイジと一緒にするな」
シディはおかしそうに微笑んで、廊下を蹴る足音と共に消えていった。
静かになると、ギルが息を吐き出す音が聞こえた。
「痛む?」
ギルはベッドの側にしゃがみこんだ。私はギルを見て、ギルの視線の先にある自分の左腕を見る。パジャマの肘から先が、鳥の翼の形をした流動する魔力に覆われている。パジャマの白とは対照的に、どこまでも、黒い。
「少し。でも、大丈夫です」
私は黒に包まれている腕の境目を握って、目を閉じる。外に出てこようとする自分ではないものの魔力を、自分の魔力で抑えこんでいく。腕を支配する私の魔力が上回ると翼は消え、私が魔力を解いてしまうと、黒の鳥に体も意識も取られてしまう。だから私が死ねば体は黒の鳥のものになる。黒の鳥はただ全てを壊すことしか望んでいない。意思を通わすことはできないが、普段でも薄々と伝わってくる。
昔、私は一度だけ、黒の鳥に体を渡してしまったことがあった。意思は全て破壊に染められて、私はそれに疑問すら持たなかった。次に体を渡してしまえば、私はこの世の全てを壊してしまうだろう。次は、ないのだ。
腕を握っている手の甲に何か触れて、体が跳ね上がった。ギルの指が、私の手に触れていた。
「あ、ごめん、でもあの時も少し楽になったかなと思って。手を当てるって、本当に気休め程度には効くみたいだし」
あの時とは多分動力炉で最下層に落ちた時だろう。そういえば確かにあの時も。考えていたら、鼓動と一緒に感じていた痛みが弱まっていって、黒い翼はろうそくの炎を息で消したように、揺らめいて消えた。
私は相当怪訝な顔でギルを見ていたのだろう、ギルは恐る恐る手を引っこめる。
「ごめん、痛かっ、た?」
私は首を横に振る。
「何かしたんですか?」
「何もしてないつもりだけど、何で? あ、嫌だったらはっきり言ってくれた方が」
私は答えに一瞬つまった。
「嫌ではないです、大丈夫です。触られた時、痛みが消えたような気がしたので。この間も、そうだったんですけど」
左腕の痛みは黒の鳥の魔力が溢れている証拠で、抑えこんでいる時は痛まない。普段は発現してしまえば抑えこむのに時間がかかって、少なくとも一瞬では収まらない。触れられるだけで痛みが消えるなど、今までに、ない。
「まあ、収まったなら、よかった」
ギルは安心したように笑って、表情を引きしめる。
「すぐで悪いんだけど、いくつか聞いていい?」
私は頷く。ギルは机の側にあった椅子を引いてきて、ベッドの前に座った。私もようやく上体を起こして、床に足をつけてベッドに座り直す。
「さっきの男は知り合い?」
私は首を横に振る。
「あの、でも、そういえば戦勝パーティの前、夢の中に出てきました。それで、さっきも夢の中に出てきて、起きたらそこに、立ってました」
私は開け放たれたままの窓を指差す。
「夢なので、ただの夢かもしれませんけど」
「いや、ただの夢ってことはないだろうけど。どんな夢だった?」
私は薄れかけた夢の記憶を反芻する。
「一回目は、様子を見に来ただけだって。二回目は、ええと、やっぱりもう一回見に来たって」
男性が放った言葉を思い出して、一度口をつぐむ。
「私を、零間側に連れていくって、言ってました」
ギルの金色の目が細くなる。
「異形か」
「でも、人間と見た目が同じでした。ああ、でも」
私は思い出して自分の言葉に対して首を横に振る。
「そういえば、一回目夢に出てきた時、確かに分からない言葉を、喋ってました」
私は動力炉で異形の言葉が分からなかったことを思い出した。
「十中八九、異形だな。奴らなら夢に干渉するくらいの魔力を持っててもおかしくない」
「でも、見た目が」
ギルは考えるように上を向く。
「ちょっと説明長くなるけど、聞く?」
私は頷く。
「まず、異形の生態から話すんだけど、生まれる過程は人間と一緒。で、生まれた時は人間と同じ見た目をしてるんだ。成長する途中で、体の一部が変化する。時期は詳しく知らないけど、そこで背中に羽が生えたり、尻尾が生えたりする。これも詳しく知らないんだけど、異形は人間より成長が早くて、幼年期と老年期が短い。つまり青年期が長い。でも寿命は人間と同じくらい。体と頭が人間の六倍の速さで歳をとるって考えられてるから、異形は三歳で人間の十八歳と見た目も知能も大体同じになる。曖昧で申し訳ないんだけど、なにしろ異形と断絶してるからさ。今の話だって上層部と兵士の一部しか知らないし。一般市民は異形が人と少し違う形をしてるっていうことくらいしか知らないんだよ」
私は頷く。
「私も少し教えてもらいましたけど、ここまで詳しいのは初めて聞きました」
「誰に教えてもらったの?」
「父様に、あ、トリニア大将に、です」
ギルは頷いてそれ以上追及しなかった。
「で、肝心の擬態の話だけど、異形は生まれた時は人間と同じ見た目をしてるから、成長してから変化した部分を隠したり、人間と同じようにできるんだ。尻尾とかは魔力で消せるし、腕が羽だったら一時的に人間と同じ腕にできる。でも異形は基本的に擬態しない。自分達の姿に誇りを持ってるし、敵対する人間に擬態したいとも思っていない。だから今人間側には異形のスパイはいないことになってる。いない理由が奴らの誇りっていうのが皮肉な話だけどな」
私は頷いてパジャマの胸元を握る。
「じゃあ、あの人は異形なんですね」
「多分な。まったく、単身で敵の本拠地に侵入してくるとは、よっぽど自信があるのか」
ギルは苦々しい表情で付け足すように呟く。
「陛下は予想してたのかもしれないけど」
「どうしてですか」
「皇舎にいる間はここに結界を張っておけって。で、何かあったら駆けつけろ、と」
そう言って下を指差す。
「この部屋にですか?」
言うとギルは頷く。
「俺の魔力だと侵入を阻むまではできないから、侵入されたら分かる程度。あいつが網って言ってただろ」
私は頷いた。少し色々なことがありすぎて、まだ頭が整理できていない。
「あいつに狙われる心当たりはある?」
私はギルの言葉でまた記憶の中に沈む。明言された記憶はないけれど、私に価値を求める理由なんて、数点しかない。
「はっきり言われた訳ではないので分からないんですけど、左腕が、欲しいのかもしれません」
ギルの目が開かれて、鋭くなった。金色の目は暗くなると、まわりから切り離されて一層際立つ。
私は男性の姿を思い返した。不意に、首筋をつかんだ指の冷たさが蘇ってきて、私は内側から震える指で胸の前を握りしめた。動力炉で対峙した異形には何も感じなかった。けれどあの人は本当に、生まれて初めて勝てないと、殺されると、思った。
「それは、腕だけ切り離して持っていきたいって意味じゃないよな。って、ごめん。無神経だった」
ギルの手が頭の上に置かれて、驚いて体が跳ねた。「ごめん」ギルも驚いたように謝るが、手は離さない。ひとしきり頭を撫でた後、言った。
「怖かったな」
ああ、気付かれて、いたのか。指に震えは残っているけれど、握りしめているからそこまで分からないと思っていたのに。何だか泣きそうな気持ちになって私は目を細めた。本当に泣いたりはしなかったけれど。
「すみません、何だか、子供みたいで」
「あれ、いくつだっけ」
「ええと、十八、です」
「そんなもんじゃないの? 聞いておいて何だけど、あれは誰でも怖いぞ」
頭を撫でてくれる手にあの人を思い出して、私は頷いた。指先の震えも収まってきて、胸の前を握りしめていた指をほどく。
「そういえば、今更ですけど髪型違うんですね」
ギルは首をかしげて、思い出したように声をあげる。今までずっとギルの赤い髪は束があって、ボリュームが出ていたが、今はストレートに下りて前髪が少し目にかかっている。
「昼間は整髪料つけてるから。何もしてないとこんな感じ」
「男の人でも髪の毛に何かつけたりするんですね」
ギルは難しい顔でうなる。
「トリニア大将もつけてる気がするぞ。俺のと種類は違うと思うけど」
確かに記憶をたどると、父様も朝、髪をとかす時に何かつけていたような気がする。
「でも、スーツなんですね」
ギルの服装はジャケットこそ羽織っていないが、ブリューテ・ドウタの平服である、白いワイシャツに黒のショルダーホルスター、黒のスラックスだった。
「たまたま寝れなかったから着替えてなかっただけ。結果的にはよかったけど」
「あ、ごめん、なさい。眠いですか? 寝ますか?」
「いや、この状況で寝ろっておかしいだろ」
「そうですね先輩。その手は何ですか」
明後日の方向から声がして、ギルはすっとんきょうな叫び声をあげながら、私の耳元あたりに移動していた手を離した。見ると、開けっ放しの扉のところにシディが立っている。
「お前、戻ってきたなら言えよ」
ギルは何かを取り繕うように叫ぶ。
「今戻りました。先輩が本当に変なことをしていないか確かめるために、足音は消しました」
「無駄なところに技術を使うなよ。別のところに使え、別のところに」
ギルはばつが悪そうに頭をかいて、椅子から立ち上がる。シディも扉のところから部屋の中に入ってくる。
「陛下には会えたのか」
「一通り報告はしてきました。結界は続けて張るようにとのことです」
「相手に心当たりは?」
「少し考えこんでる様子でしたけど、特に何も。慌ててる感じでもなかったですし」
ギルはあまり納得していないように相槌を打つ。
「まあいいや。今日は解散。シディ、悪いけどここに泊まってくれないか、寝袋持ってくるから」
「分かりました」
「あの、一人でも大丈夫です」
私は会話に無理矢理言葉をねじこむ。
「いや、でも万が一あいつが戻ってこないとも限らないし、かといって俺がここに泊まるのも変だし、それに、怖いだろ?」
「怖くありません」
私は叫んでいた。自分でも驚く程強い声が出て、私も、二人も驚いたように目を開く。確かに怖いのは本当だが、今この場でそういう風に言われるのは、とても嫌だった。止まってしまった空気を戻すために言葉を探すが、喉から声が出てこない。
「先輩、お父さんみたいですね。あ、トリニア大将みたいという意味ではなく、一般的なお父さんという意味です」
シディは言って、私が座っているベッドの横に腰かける。
「あんたが納得できないんだったら、ベッド半分貸して。そこで寝るから」
私はシディの顔を見て、体が熱くなって、かろうじて頷いた。
「はい。という訳で解散で」
「シディ、お父さんは地味に傷付くぞ」
「言葉の綾というやつです。すみません。明日、じゃなくて、もう今日ですね、会議八時からでしたよね」
ギルは頷く。
「分かりました。では、お休みなさい」
ギルは引き下がるように扉の方まで歩いていく。扉のところで振り返って、名前を呼ばれた。
「気分悪くしたんならごめん。ゆっくり休めよ。あ、シディも」
シディは返事をして、私も小さな声で返事をした。ギルの顔を見ることができなくて、扉が閉まる音を聞いて、口を開いた。
「ごめんなさい」
シディは立ち上がって、開けっ放しになっていた窓の側まで歩いていく。
「別にあたしはどこで寝てもいいし、謝られる理由はないんだけど」
シディは窓をしめて、レースのカーテンを引いて戻ってきた。
「先輩は戦場の勘は強いけど、人の気持ちはからっきしだからね。でもあんたが心配なのは同じだから」
だから今は甘えていい、ということだろうか。
私は世界にとって最強で、最悪の鳥を飼っているのに、知り合って間もない人達に守られている。男性が言っていたことを思い出す。いくら鳥を飼っていても、私は結局本当に子供なのだ。
胸の奥が焼け焦げたようにくすぶった。この気持ちを表す言葉を、私はまだ知らなかった。
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