ブリューテ・ドウタ

有坂有花子

左腕の鳥

 父様の言った言葉の意味がよく分からなくて、私は父様を見上げた。私と同じ金色の髪と、私の右目と同じ青い目をした父様が、今にも消えそうな笑みを浮かべていた。部屋の窓いっぱいに広がる真っ赤な夕陽で、金色の髪が硝子の粒のようにきらめいて、とても綺麗だった。

「母様のお願いを叶えたい?」

 父様はもう一度同じことを言った。私は母様のお願いが何なのか問わない内に、頷いていた。母様のお願いなら何でも叶えてあげたいと思ったのだ。

 父様は青い目を少しだけ細めて、私の髪に指を通した。

「じゃあ、そうしよう。私とアリアで母様のお願いを叶えよう」

 そう言って父様は私を抱きしめた。

「かあさまのおねがいって、なに?」

 父様は私を抱きしめたまま呟いた。

「人間と異形いけいが、もう争わないように」



 世界は金色の鳥に創られ、黒色の鳥によって終わる。世界で信じられている創世神話はそう伝えている。金色の鳥が世界を創り、世界が世界として壊れ始めると、黒色の鳥が世界を消す。そうしてまた、金色の鳥が世界を創る。

 今の世界も何度目か分からないけれど、繰り返しの結果らしい。私は気付いた時から、教えられた訳でもなく、ただ知っていた。何度も世界が繰り返すのに創世神話が残る訳は、私のようなものがいるからだろう。

 今、私の左腕には、黒の鳥が宿っている。


 小さめの円卓を七人が囲んでいる。空席があるが、今回の出席者はこれで全員だ。場に満ちる空気は決して楽しいものではなく、それもそのはずで今は会議の真っ最中だった。調度品で飾られた部屋に窓はなく、時計もないので時間が分からない。部屋に入った時には昼だったから、もう夕方だろうか。

「では、最後にブリューテ・ドウタの作戦についてだが」

 円卓の上座に位置する人物が私達の方に顔を向ける。金色の少し長めの前髪から青い目がのぞいて、微笑した。

 勝気というか、挑戦的というか、陛下は最近よくこの笑みを浮かべる。普段は重そうなマントに身を包んでいるが、今回は前線に出るとあって、今は甲冑の下に着る戦闘衣を着ていた。

「ブリューテ・ドウタには異形の補給地点の制圧を命ずる」

 陛下は私から視線を横にずらした。ブリューテ・ドウタとは、私と、私の隣に座っている女性と、その隣に座っている青年のことで、血のように赤い軍服を着ている。横目で見てみると、赤い髪の青年は待ってましたとばかりに瞳を輝かせ、すぐに表情を引きしめた。

「かしこまりました。陛下」

 上座寄りの席に座っている黒い軍服の老指揮官は、あからさまに苦々しそうな目で青年を見た。

「今更伝えるまでもないと思うが、対象は例の動力炉だ。建物内部の情報は知る限り伝える。動力炉に配備されている異形は約三十人、制圧の方法は異形の降伏か殲滅だが、場合によっては建物の爆破も辞さない。作戦に当たる人数が人数だ、ギル、お前に任せる」

「陛下、これは単なる老婆心なのですが」

 老指揮官の隣で同じく苦い顔をしていた中年の指揮官が口を開く。

「補給地点の制圧は、その、三人だけでは」

「少ないとお考えか、中将」

 陛下は楽しそうに言葉を引き継ぐ。敬語なのは年上に対する配慮だろう。何しろ陛下と指揮官達の年齢は親と子程離れている。確か陛下は二十三歳だったから、この中では赤髪の青年が一番歳が近い。

「ブリューテ・ドウタは危険を請け負うのが仕事だ。というより、現実問題として貴殿の部隊からも人員を裂く余裕はあるまい。前線の異形は約千人、対する我々は約五百、その内ブリューテ・ドウタ約百人を魔法支援を含め五人分とみなしたところで九百、こちらが火器を持っているといっても数は芳しくない。私としては前線に重きを置きたい」

 いつの間にか陛下は笑みを消して、鋭い目で中将を射抜いていた。

「このメンバーを選んだ理由は実績を持って説明する。責任は私が負う。今回はこれで納得いただきたい」

 中将は押し黙って、額の汗をぬぐった。

「他に意見があれば聞こう」

 誰も口を開かない。黒い軍服の老指揮官も、中将の隣で苦々しげな表情をしたままうつむいている。

「それでは、前線部隊は午前六時、ブリューテ・ドウタは午前三時出発とする」

 陛下は円卓を見渡して、満足そうに微笑んだ。

「健闘を祈る。以上」


 運転席で赤い髪の青年が大きなあくびをした。

「たく、陛下も人遣いが荒いよなあ」

 屋根のないバギーを包みこむ空気は暗く、月が高く昇った空は夜明けにはまだ遠い。

「陛下の悪口を言わないで下さい」

 私は隣でハンドルを握っている赤い髪の青年に言った。

 普通のバギーでこんな岩肌を走っていたら会話など成り立たないだろうが、これは運転手の魔力を動力にして地上すれすれに浮いて走るので大丈夫だ。運転手の技量と魔力にもよるが、普通のバギーより三倍程速い。ただ、屋根がないので風が耳を裂いていって、おまけに髪が顔を叩いて邪魔だ。

 後部座席から、私と青年の間に金髪の女性が乗り出してくる。

「何? あんた陛下が好きなの?」

 からかっている風ではなく、退屈しのぎに聞いているのだろう。女性は風で暴れる髪をうっとうしそうにかき上げる。頬のあたりで切りそろえられた髪は私より短いけれど、邪魔なのは同じらしい。

「別に、そういう訳じゃ」

「初仕事がこんなのなんて、ついてないなお前」

 そういう青年の顔はあまりつまらなそうではない。むしろ目が慣れてきて見間違いでなければ、会議で見た時より楽しそうだ。

「というか俺まだお前の名前聞いてないや」

「相変わらず適当ですね、先輩」

「そう言うなよ、会ってからすぐ会議で話す暇なんてなかっただろ」

「仮眠の時間を削ればよかったじゃないですかと思いましたけど、さすがにそれはないですね」

「そうそう。睡眠は食べるのと同じ位大事だぞ。分かってるな、シディ」

 女性は金色の髪を押さえて、私の方を向く。

「シディ・ビジュネ」

 確か百名程のブリューテ・ドウタの中で女性は一人と聞いたから、この人がそうなのだろう。歳も同じ十八歳だし、唯一の同性だから仲良くしなさいと陛下が言っていた。

「ギル・ライオネル」

 青年の声が聞こえて、私は視線をそちらに移す。ブリューテ・ドウタの平服は黒いスーツに黒いネクタイだが、この人はネクタイをせずにシャツのボタンをあけて黒いチョーカーをしている。

「分からないことがあったら今のうちに聞いとけよ。あ、ちなみに先輩って呼んでるのこいつだけだから、呼び捨てでいい。ブリューテ・ドウタは呼び捨ての方が慣例だから」

 ギルは赤い短髪を風に揺らしながら、シディを指差す。私は頷いた。

「アリア・トリニアです」

 私を見ていた二人の目が見張られる。納得したようにギルが声をもらした。

「だから陛下のお気に入り、か」

 数時間前の会議、陛下の隣にいた男性がエルドイ・トリニアだった。先代の皇帝から側近という立場についていたそうで、陛下の信頼も厚い。

「トリニア大将の娘か」

 ギルはハンドルを握ったまま、私の方に少しだけ身を乗り出してくる。

「先輩、安全運転」

「いや、あんまり似てないなと思って。髪の色とか。まあ目の色が特別だから似てなくても不思議じゃないのか」

 確かに父様の髪は薄い茶色で、私の髪は薄い金色だ。目はギルの言う通り、左目が緑で、右目が青い。

「しかしまあ、いいところの娘をこんなところに放りこむとは。陛下もトリニア大将も何を考えてるんだか」

 私が口を開く前に、ギルは私の方を見て口を開く。

「あ、今のは悪口じゃないからな。むしろ今回は中将らと一緒に行動しなくてすんで感謝してる。見ただろ、あの顔」

 ギルはなぜか楽しそうに笑った。中将とは会議で意義を唱えた人だ。

「あれは私もほっとしました。一般人が混ざるとやりにくくて面倒です」

「シディ、悪口はいつか本人の耳に入るぞ」

「先輩もお互い様です」

「あの、ブリューテ・ドウタって何ですか」

 ギルは虚をつかれたような顔をする。

「何も聞いてないのか?」

 私は頷いた。私は今まで違う場所で戦闘訓練を受けており、つい昨日初めてこの人達に会って、ブリューテ・ドウタとして作戦に参加するように言われた。

 ギルは束のある赤い髪をなでつけて目を細める。

「まあ、いいけど。ブリューテ・ドウタってのは言葉通り、ブリューテ・ドウタ(血まみれの犬)。よく言えば魔法が使えるエリート集団、悪く言えば陛下の犬かな?」

「何でそれで血まみれになるんですか?」

「昔は一般兵より突出したやつが集まってただけだったけど、そのうち魔法が使える奴を集めた集団に変わって、小回りのきく特殊部隊になったと。で、特殊部隊だけ軍服が赤かったから、非公式に揶揄されて呼ばれてた名前を、皇帝が面白がって正式名に採用したらしい。って俺は聞いた」

 ギルの言葉が切れて、私は首をかしげる。

「特殊部隊なら名誉なことではないんですか?」

 ギルは渋い顔をしてうなり声を上げる。

「名誉ねえ。俺はこの仕事好きだけど。要は恐れとやっかみだ。確かに陛下直属の部隊だから名誉ではあるけど、一般兵と俺達は違う。奴らは魔法が使える俺達のことを内心では異形いけいと同じだと思ってるんだ」

 ああ、そういうことか。ようやく腑に落ちた。

 人間と異形いけいは遥か昔から争いを続けていて、どちらかが衰退し、繁栄してを繰り返して今に至る。異形は人間と似ているが、体の一部の形や髪の色が違い、人間が魔法を使えるのが少数なのに対し、異形はほぼ全員が魔法を使える。

 異形というのは正式名称ではない。ただ人間に似ているけれど人間ではない種族だから異形と呼んでいるだけで、その証拠に異形は人間のことを「異形」と呼ぶのだ。

 争いの理由などもう誰も覚えていない。争っていた過去があるから、どちらかが根絶やしになるまで続くだけだ。

「先輩、いつからブリューテ・ドウタにいるんですか」

 ギルは気のない声を上げて上を向く。

「十四からだから、六年前。早いなあ。って、そういや作戦について何も話してなかった。もう着くから手短に話す」

 ギルはジャケットの胸ポケットから折りたたまれた紙を出して私に渡す。風でうなる紙を広げると、四角がたくさん連なった絵柄がどうにか見えた。

「建物の見取り図、一応渡しておく。今回の目的は前線への補給地点になっている建物を制圧すること。で、建物だけど、元々はこっちの持ち物で、地下から魔力をくみ上げる動力炉だったんだけど、いざ完成してみると設計の欠陥で魔力が取れなくて、結局使われなくなったと」

「完全に無駄遣いですよね」

 シディが呟く。

「まあ戦争が始まってからは一応補給地点として使ってたけど、それも一年前異形に奪取された。背景はこんな感じ」

 ギルがこちらを見て、今までの話は私にしていたのだと分かり、頷いた。考えてみればシディは少し前からブリューテ・ドウタに所属していたから、知っているのだ。

「という訳で基本三人で固まって行動するけど、自分の命を最優先にしろよ。以上。このままつっこむから準備しとけ」

「つっこむって、車のままですか?」

 シディは怪訝な声を上げる。

「ん。で、内部に侵入する手前で降りる」

「帰りはどうするんですか」

「これで帰るか皇都から回収されるのを待つ」

 ギルはハンドルを指で叩く。

「強奪されません?」

「ロックかけとくから平気だろ。壊されたら諦める」

「まあ分かりました。臨機応変ってことですね」

 ギルを見ると、横目で私を見て笑っていた。

「実力見せてもらおうか。ええと」

「アリアです」

「そう。アリアな。覚えた」

「どうだか。私の時は一ヶ月かかりましたよね」

 私の手の中で騒々しく音を立てる紙の横で、シディが呟いた。


 黒い岩肌しかなかった景色に、赤い光が見えてくる。一つではなく、固まるように一箇所に集中していた。赤い光は炎だと分かって、炎に囲まれて見えてきた建物が動力炉なのだろうと思った。横幅はそれほどなく、高さがある。要塞としては堅牢な造りではないだろう。

 音がして振り向くと、シディが何やら座席の下からサブマシンガンを取り出していた。

「あの。捕虜は必要ですか」

 何か喋っていた方が落ち着きそうだったので、ギルに尋ねた。

「捕虜なんてどうせ前線で出るからいい。って、お前は初陣なんだから生きることだけ考えてればいいんだよ」

 ギルは私の頭の上に手を置いた。それがあの人に似ていて、少し驚いた。

「先輩」

 シディが冷静な声を出すと、ギルは前を見てハンドルを思い切り右に切った。車体が浮いているとはいえ、私は反動を思い切り受ける。視界を戻す暇もなく爆発音がして、今度は逆方向に体が叩きつけられた。

「気付かれた。気を付けろよ」

 私はシートベルトをつかんでようやく前を見た。

 建物は目前で、前、横、斜めから火の球がこちらに飛んでくる。視界がぶれて、ギルが全て避けているのだと分かった。炎に照らされて、建物の前に異形が十数人集まっているのが見えた。

「シディ、撃てるか」

 ギルが叫ぶ。

「魔法なら、でも数が多すぎます」

「私が撃ちます」

 私は会話に割って入っていた。

「全員動きを止めればいいんですよね」

 叫ぶと、ギルは驚いたような顔で私を見ていたが、気付いたように頷いた。

「分かった。やってみろ」

 私は頷いて、左手を胸に置く。

『世界の終わり 透に包まれ』

 本当は詠唱を破棄して呪文名だけで成立させることができるのだが、今は自信がなかった。服の上からだというのに自分の鼓動がはっきり聞こえて、左腕がわずかに焼けるように疼く。

『この手の先を裂き尽くす』

 私は魔力を集めた左腕を突き出した。

『アリス』

 耳を裂く風の音が消えて、私のまわりから風が消える。瞬間、左手の先から空気のうねりがほとばしった。先程までの風とは比べ物にならない音と反動が体を襲って、自分自身が吹き飛ばされないよう反動を魔力で殺す。

 風が収まり、薄暗くなった建物を見ると、建物を囲っていた炎は消えていて、見える範囲では誰も立ち上がっていなかった。

 成功した。そう思ったら、ギルが私を凝視しているのに気が付いて、私は自然と体を硬くしていた。

「ごめん、なさい。炎も消してしまいました」

「いや、別にそんなことはどうでもいいんだけど。すごいな。魔術師なのか?」

 よく見たらギルの表情は怒っているのではなくて、純粋な驚きだった。

 確かに人間で魔法が使える者の中では魔力は最高ランクだろうと、陛下は言っていた。ただ、実戦は初めてなのでよく分からない。

「あんまり無理には撃つなよ。そのために武器があるんだからな」

「大丈夫です。役に立てたなら。魔力は、たくさんあるので」

 ギルは何か言いたいのか私を見ていたが、目前の建物に目を移した。

「それじゃあ、一丁侵入しますか」

 私達は手前で車を降りて、見上げる程の高さになった建物へ侵入した。


 内部は動力炉の趣で、壁には太い配管が埋まり、広い空間にいくつも梯子がかかっていた。手すりにつかまって通路から下を見てみると、中空を切るように通路が何本も走っていて縦に移動していくような構造になっている。外と違い電気が通っているようで、薄暗いなりにも物は見える。

「それで、責任者は上下どっちですかね。下かなと思いますけど」

「同じだな。お前は?」

 声が飛んできて、反射的に体が震えていた。

「私も、下だと思いました。魔力の流れが少し乱れている気がします」

 ギルは感心したような声をもらして、こめかみに指を当ててうなり、すぐにやめた。

「まあ、言われてみればそんな気もしたけど、俺は勘だな。動力炉の心臓部が下だってだけ」

「それで合ってると思います。魔力を補充する場所を離れる理由があまりないので」

「では下ですね」

 シディが肩にかけたサブマシンガンの肩紐を担ぎ直す。歩き出すシディをギルが呼び止めた。

「俺が前で、シディが後ろで、お前が真ん中な。基本」

「先輩、名前を覚えてあげて下さい」

「覚えてる。ええと、アリアだろ。呼ばないだけで」

 ギルは子供のようにむきになって言い返していた。

 歩き出したギルの後ろについていって、振り返ると後ろからシディが歩いてきていた。目が合うと、どうしていいのか分からず視線を外してしまう。

「前向いてないと転ぶよ」

 私は精一杯頷いて前を向く。

「何だよ、ちゃんと前向いて歩いてるぞ」

「先輩じゃありません」

「冗談通じないな」

 声が途切れると、聞こえるのは虚空に反響する靴音だけになる。

「誰もいないんでしょうか」

 内部に入ってからまだ三十分もたっていないが、異形の気配が近くに感じられない。

「単純に考えれば罠だろうな。それか残ってる奴らが意外と少ないとか」

「せっかく気合入れてきたのに無駄でしたかね」

「まあ罠にしろ何にしろやることは同じだ。って、ちょっと待て」

 ギルが急に立ち止まって、私は背中にぶつかりそうになった。

「何ですか、先輩」

 ギルの背中を避けて前を見ると、道がなくなっていた。正確には、今まで通路だった足元から、中空を向こう側まで、水平に梯子が渡っていた。下は、やはり黒しか見えない。魔力で体を覆っているとはいえ、落ちたら死ぬかもしれない。

「これは、渡れないだろ。上からも下からも」

 上からというのは梯子の上を歩いて渡るということだろう。下からというのは、梯子にぶら下がって渡るということだろうか。

「まいったな。迂回はできないよなあ」

「いっそのこと落ちた方が楽ですね」

「それはちょっとなあ。浮いて渡るしかないか」

「浮いてって、スイル(飛行呪文)ですか?」

 私が言うと、ギルは頷く。

「俺、苦手なんだよなあ」

 呟くギルの後ろで、私の鼓動は速くなっていく。

「あ、の、すみません、私、スイル(飛行呪文)は使えないんです」

 両側から、ギルとシディの視線が集中したのが分かる。

「だから、ここで置いていかれても、構わないです」

「別にそんなに申し訳なさそうにしなくてもいいから」

 意外なことにシディが口を開いて、私は顔を上げる。

「意外だな。魔力高いと何でもできるのかと思ってたけど。むしろ高いから逆にできないのか?」

「かかえて渡るのが一番現実的ですかね」

「んん、でも順番がなあ。俺が試しに先に行ったら、シディが抱えないといけないんだぞ」

「肉体強化に魔力を使えば安定しますけど、スイル(飛行呪文)との併用は集中力が必要ですね」

 肉体強化とは魔力を使って体の機能を強化する技術だ。何もしていない時の何倍もの腕力が出せたり、怪我を負いにくくすることができる。肉体強化はそれほど難しくないが、スイル(飛行呪文)は呪文の中でも難度が高く、併用に集中力が必要というシディの言葉はもっともだった。

「心配なら先輩が先に行って、問題がなかったら戻ってきて下さい」

 ギルは真面目な顔になって、目を細める。

「まあいいか。いい、俺が抱えて渡る。しかけてくるなら多分ここだろうし、二回渡るのも無駄な気がする」

 ギルは私に背を向けて、しゃがみこんだ。

「ほら、乗って」

 おぶるから背中に乗れということらしい。

「あ、の、それは」

「先輩、嫌がられてますよ」

 申し訳ない気持ちでいっぱいになっていると、横からシディにつっこまれた。

「いえ、あの、嫌な訳ではなくて」

「俺だってお姫様抱っことかの方がいいと思うけど、こっちの方がまだ安定するから仕方なくなんだよ。今回は我慢してくれよ。な?」

 何だかそういう訳でもないのだが、進めない方が迷惑だろうと思って、私はギルの肩をつかんだ。持ち上げられると、視界が上に移動する。

「あの、ごめんなさい。本当に」

「まあこの借りは今後の働きで返してくれよ。行くぞ」

 笑いながら持ち上げ直されて、私は小さく悲鳴を上げていた。

『世界の続き 透に包まれ 鳥に願い この身の全てを飛行させる スイル』

 まわりの重力がなくなったような感覚にとらわれて、ギルはそのまま滑るように一歩踏み出した。

「一応、何が起こっても大丈夫なように心の準備はしといて」

 私は小さく返事をする。落ちる可能性はもちろんだが、奇襲される可能性も高い。銃は暴発が怖いので、攻撃手段は魔法になるだろう。

 視界がゆっくりと中空を進んでいって、両側からすがるものが何もなくなっていく。若干浮いているとはいえ、ギルは間違いなく梯子の上を歩いていて、綱渡りと同じなのだ。底は黒い闇で、傾いてもいないのに体が吸いこまれて落ちていくような錯覚を起こす。指先が震えて、ギルの肩を強くつかんでしまった。

「怖い、で、す」

「ああ、下は見るなよ。俺も怖いから」

「もう手遅れです」

 多分、飛べたらそれ程までには怖くないのだろう。異形が仕掛けてくるならここだとギルが言っていたが、そうすると現れる場所は限られてくる。

 ふと体に違和感が走る。私の中の魔力が波立って、振幅を増していく。

「降ろして下さい」

 私は声を高くしていた。

「どうした?」

「異形が来ます。この状態で戦うのは無理です」

 こんな時だというのに、ギルが笑ったように聞こえた。

「何言ってんだ。降ろしたらお前落ちるだろ。で、上下どっちだ」

 上ですと言おうとしたら、ギルが梯子の上を横跳びして、声が悲鳴に変わってしまった。

「あっ、ぶねえ」

 先程いた場所の梯子がひしゃげていて、羽音と共に、何もない空中を異形が、飛んでいた。姿は人間の男性と同じで、背中に片方だけ鳥のような白い翼が生えている。目で追えただけでも、六人はいる。

『おい、無駄だと思うけど話し合う気はないか』

 ギルが空中に向けて分からない言葉で叫んだ。飛んでいた異形の一人が、目の前の空中で翼を羽ばたかせて静止する。

『俺達の目的はここの占拠だ。立ち退くなら殺し合う必要もない』

 黄緑色の髪をした異形の青年は、侮蔑の笑いを浮かべた。

『俺達とお前達は殺し合う他ない。ここを渡す気もさらさらない』

「んじゃあ決裂だな。シディ、やっちまえ」

 シディがサブマシンガンを構えると、土砂降りのような発砲音が空間に鳴り響いた。

「アリア、全員撃ち落とせ。シディが危なさそうだったら援護しろ。絶対落とされるなよ」

 私は返事をして左手に集中する。異形の動きはまだ目で追える。今なら撃てる。

『ワプラ』

 空中に発生させた雷撃が異形の一人を捕らえる。撃たれた異形は声も上げず、地の底へと落ちていく。

「詠唱破棄か」

 ギルの言葉に返事をする暇もなく、ギルは体当たりを繰り返してくる異形を避けて梯子の上を跳ぶ。ぎりぎりのところで避けた異形にワプラ(雷呪文)を撃って、もう一人底へと落とした。横目で見るとシディも善戦しているようで、二対一ではあるが、危険な状態には見えなかった。

『ニーロ』『ワプラ』

 空中の二方向から同時に呪文が飛んでくる。

「あっちを避けて下さい」

 私は炎を指差して、向かってくる電気の塊に向けて叫ぶ。

『オスタ』

 水球の中に電気が鮮やかに弾けて、目がくらんだ。耳が異質な音をとらえたのと同時に、ギルが私の名前を叫ぶのが聞こえる。

 体が浮き上がる感覚の後、私は足場を失っている自分の体を見て、異形に捕まえられたのだと知った。羽音と笑い声と共に私は重力を取り戻して、黒い底へと、落ちていく。背中から落ちていく時、全てがゆっくりと見えて、ギルとシディが目を見開いてこちらを見ているのもよく分かった。黄緑髪の異形の狂ったような笑みを見て、左腕から指先の熱がなくなった。

 私は、生まれて初めて、頭に血が上った。

 左腕から真っ黒いもやが噴き出す。光を通さない黒いもやは一瞬で空中に広がり、異形達を絡めとり、飲みこんでいく。遠くなっていく景色の中で、黄緑髪の異形の顔が笑みから驚愕に変わり、黒に飲まれたのが、見えた。

 落ちているという状況が、私はまだよく理解できていなかった。でも、上はもう大丈夫だろう。さあ、飛べないと言っている場合じゃない。怪我を負って抑えこめなくなってしまうよりは、自分から飛んだ方がまだ制御も効くはずだ。

 遠くなっていく梯子を眺めながら左腕に意識を集中させると、梯子から、誰かが落ちた。異形は全員飲みこんだから、落とされたのではないはずだ。

「絶対落ちるなって言っただろ馬鹿」

 怒号が反響して何重にも聞こえる。ギルが、落ちてきている。今度こそ私の頭は止まった。どうして? 自分から落ちてきたというのか? 私が落ちてしまったから?

 左腕が内側から破裂するような痛みを感じて、意識が引き戻された。左腕があるべき箇所を覆う黒いもやは、今は鳥の翼の形をしていた。駄目だ、腕が、鼓動している。集中を切った隙に体も心も半分持っていかれたようだ。

 今はただ、申し訳なかった。眠りに落ちる直前のように、目に見えるものも、思考も消えていった。


 水が沸騰するような音が聞こえていて、目を開けた。左腕を見ると、痛みは残っているけれど、もやは消えて元の腕に戻っていた。

 瞬間、思考が糸のように繋がって跳ね起きると、地面にはえぐられたように大きな凹みができていて、かたわらにギルが倒れていた。私は四つんばいで近付いていって、ギルの肩を叩く。

「大丈夫ですか、ギル、さ、ん」

 まさか、死んではいないだろう、もう一度叩く。

「さん付けとか、気持ち悪いから、いい」

 弱い声に次いでギルが目を開ける。私は自分が息を止めていたことに気付いて、吸って、深く吐き出した。

「回復をかけますから、ちょっと、待って下さい」

 左手を胸に当てると、左腕が鼓動して、痛みに声を上げてしまった。

「おい、お前の方が酷いんじゃないのか」

 ギルが上体を起こす。

「大、丈夫です、収まりますから」

 先程に比べたらまだ抑えこめる。左腕をつかんで呼吸を整える。

「折った、訳じゃないか」

 ギルもシディも、私が落ちた直後、左腕が黒に飲まれるのを見ているはずだ。

 ギルの指が私の左腕に触れて、反射で振り払うより先に、違和感があった。左腕の鼓動が弱まったのが分かって、痛みが薄くなっていく。

 私はギルを見た。思っていたより近くで目が合って驚いたが、暗がりだというのにギルの目は金粉を散らしたように綺麗な金色をしていた。金色の目なのだと、初めて意識した。

「収まり、ました。大丈夫です」

 私が左腕から手を離すと、ギルも指を離す。

「それは、よかった」

 私以上に安堵したのか、ギルは目覚めてから初めて笑った。

「回復をかけます。どこが一番酷いですか?」

「いや、別にかけなくていい。全身打っただけで大怪我はしてないから」

 意外だった。肉体強化に魔力を使っても、地面に激突すればどこかしら骨を折ると思っていたのだ。

「どんな魔法を使ったんですか?」

「スイルでなるべく衝突の瞬間を和らげただけ。お前抱えてな」

 私は眉を寄せる。

「私、浮いてませんでしたか?」

「落ちてたぞ、ずっと」

 私が気を失う前、体と心は既に飲まれていたから、意識がなくなればあちらが優位になって飛べる、というか少なくとも浮きはするはずなのだが。

「あ、でも、若干止まってた、かな?」

 ギルは思い出したように付け加える。

「でも、追いついて俺がつかんだら浮きはしなかったから、そのまま落ちたってことだろ?」

 何だろう、よく分からないが、今考えても分かることではないだろう。私は胸の前に左手をかざして、呪文を唱える。

『世界の続き 白に包まれ この身の先を回復する ノゼリオ』

 淡い光に包まれた左手をギルの左胸に当てると、光は吸いこまれるように薄れてなくなった。ギルが小さな声で礼を言う。

「平気なのか? 魔法使って」

「魔力はたくさん、あるので」

「その、左腕は魔力がはたらいてるんだよな」

 ギルの視線は興味本位ではなく、聞きづらそうながらも、私の左腕に向けられている。

「魔力が宿っているのは、そうです」

 多分、誰でも不審に思うだろう。体の一部が変化する魔法など、人間は使えない。異形に似ているが、異形は体の一部分に魔力を宿している訳ではない。

 ギルは黙って私の腕を見ていたが、自分の赤い髪をくしゃくしゃに撫でて、立ち上がった。

「ごめん。お前が言いたくなったら言ってくれればいいや」

 手を差し伸べられて、私はどうしていいのか分からなかった。何もしないでいると、腕をつかまれて、体ごと引き上げられた。

「あ、ごめん、回復かける」

「いえ、どこも痛くないので」

 ギルは頭に手をやって呟く。

「まあ、それならいいけど」

「これからどこに向かうんですか? というかどこですか、ここ」

「落ちるところまで落ちたから、多分底じゃないか? 落ちた方が早いって、シディの言う通りだったな」

 私は今まで気付かなかったことに驚いて、叫んだ。

「シディは」

「俺も勢いで落ちたから反省してるけど、一応最下部で合流とは言っといた」

 集中して付近の魔力を感じてみる。割と大きめの魔力がいくつかと、上にいる時も感じた、魔力が乱れる波形がはっきりと分かった。

「魔力をくみ上げている場所がすぐ近くみたいです」

「最下部で正解かな。行こう」

 ギルが歩き出すのに私はついていく。上とは違い、水が蒸発するような音がずっと聞こえていて、生暖かい水の粒がたちこめている。魔力をくみ上げている影響なのだろうか。

「あのさ」

 ギルが振り返る。

「言いたくなかったらいいんだけど、お前のこともう少し聞いていい?」

「質問によります」

「うん、いいよ、それで」

 ギルは歩調を緩めて、私のすぐ斜め前を歩く。

「今までどこで何してたの?」

「今までって、ここに来る前ですか?」

 ギルは頷く。

「ここに来る前は、ほとんど戦闘訓練を受けていました。主に魔法で、体術も少し。武器は銃とナイフだけです」

「誰に?」

「父様、あ、いえ、トリニア大将に」

 ギルは相槌を打つ。

「どこで?」

「皇舎の近くです」

「いつ頃から?」

「四年くらい前からです」

 ギルは小さく四年前か、と繰り返して相槌を打った。言葉が続かなかったので、今度は私が口を開く。

「そういえば、異形の言葉が喋れるんですか?」

 ギルは返事をして頷く。

「交渉があるかもしれないから陛下も喋れるし、佐官以上と古株のブリューテ・ドウタは喋れるよ。読み書きも教わる。逆に向こうも王族に近い奴らはこっちの言葉が喋れる」

「さっきは何て言ってたんですか?」

「立ち退いてくれたら殺し合わなくてもすむけど、どうだ? って。まあ、念のため聞いただけ。そんなんで解決したら何千年も争ってないだろうしな」

 ギルが足を止めると、目の前には鈍色の質感の扉があった。ノブはなく、真ん中に入った縦線で、両開きであることが分かる。ギルは扉に手の平を当てて前のめりになった。

「まあ、開かないよな」

 手をかけるところがないので、引くことはできない。

「吹っ飛ばすしかないか」

 ギルは私に下がるように言うと、扉へ手を向けて構える。

 ふと、肌が粟立った。私の中の魔力が今まで感じたことのない揺らぎを示して、声を出そうとしたら両手を背後でねじり上げられていた。ギルが振り返り、私の名前を叫ぶ。

『無駄な魔力は使わないことだ。お前の仲間をもう一人預かっている』

 知らない言葉が聞こえて、私は反射で左腕に魔力を集中させる。

『聞こえなかったのか』

 つかまれていた両手を更にねじられて、私は声を上げていた。

「アリア、逆らうな」

 ギルが叫ぶ。

『こっちに分かる言葉で話せ』

 ギルが言うと、背後で笑みを含んだ声がもれた。

「これは失敬。異形と言葉が通じないのを忘れていた」

「シディは生きてるんだろうな」

 ギルが低い声を押し殺すと、靴音と共に体が引っ張られた。

「殺してしまっては意味がない。安心しろ」

 左横を振り返ると、白い髪に白い翼の生えた異形の青年がいた。先程の異形は全員背中に翼が生えていたが、この異形は左腕の肘から先がそのまま鳥の翼になっている。

 異形は私の後ろ手を引っ張ってギルの横を通りすぎると、鈍色の扉に手をかざして中へ入っていく。

 内部はホールのようになっており、床のタイルの目地から薄緑の光が立ち上っていた。中央には緑の光が満ちた噴水のようなものがあり、中に人の背丈の二倍程もある結晶体が浸かっていた。形は水晶のようで、床と同じ淡い緑の光を放っている。

 気付けば、背中に羽の生えた異形が中に続々と入ってきていて、ギルは異形の一人に手の平を向けられながら結晶体の側で止まった。

 私の隣にシディがつれてこられて、横目で見ると、気を失っているようだった。魔力を感じるから、生きてはいるはずだ。

「で、何をなさるおつもりで?」

 ギルが口を開くと、異形達の間に流れる空気が張りつめて震えたのが分かる。

「まあそう急ぐな」

 私の後ろ手をつかんだままの青年が言う。

「どうせ殺すなら魔力を抽出してから死んでもらおうと思ってな」

 ギルは目を見開いて、弾かれたように結晶体を見上げる。

「完成させたのか」

 異形は答えず、笑った。

「そこにあるのは大気から魔力を凝縮した液体と結晶だ。自己の器より大きな魔力に触れれば、器は壊れて中身が溢れる。つまり体が魔力を収めきれず、壊れて魔力の中に溶けるということだ。お前達にはそこで溺れ死んでもらおうと思うのだが、どうかな」

「こんな浅い噴水で溺死なんて滑稽だな」

「大丈夫だ。触れた瞬間に全て終わる。理論上はな」

 ギルの金色の目と、目が合った。その一瞬、ギルの思考が頭の中に焼かれたように直接伝わってきた気がした。

「理論上はだろ。それならまず自分で試してみやがれ」

 ギルがジャケットの内側から銃を抜く。それを合図に私は叫ぶ。

『ワプラ』

 背後でうめき声が上がり、私は腕を振りほどく。広範囲に撃ったつもりだったが、片翼の腕を持つ異形は私に手の平を向けて構えていた。

『世界の終わり 透に包まれ 鳥に願い この視の先を破壊する ガヤド』

『世界の終わり 黒に包まれ 鳥に願い この視の全てを飲みこむ マヴェオ』

 体勢を崩しながら、透明な衝撃波を黒い球体で打ち殺す。床から反動をつけて駆け出して、ジャケットの内側、左脇のホルスターから銃を抜いた。安全装置を弾いて、左手も右手の上から握る。シディを脇に抱えたまま動けないでいる異形の目の前へ飛びこんで、喉元に銃口を押し当てて、撃った。

 異形の首が半分千切れて、血が吹き出す。戻しそうになる程濃い、血と火薬が混ざり合った匂いに、私は息を止めてこらえて、すぐに支えを失ったシディの体を受け止める。

 異形の体力は人間と変わらない。シャワーのように降り注いだ血は、ぬめりけがあって温かく、赤いのだと、今更思った。

 空気の震えを感じて背後に銃を向けるが、狙いをつけるより早く、私は胸を蹴られて床を滑った。起き上がるより前に、銃を持ったままの右手をつかまれて引き上げられる。白い髪の異形が、私を見下ろしていた。

 離れた場所から銃声が聞こえた。ギルが他の異形を一手に引き受けている。私がシディを守らなければ。

「中々油断ならないな」

 異形の手に力がこもる。引き金を引くより早く、右手に感じたことのない痛みがあって、私は、生まれて初めて、痛みで息ができなくなった。右の手首が異形の手の中で曲がらない方向へ曲がっていて、銃を取り落とした。

「女だからと思っていたが、所詮異形の女だ。お前からにしよう」

 異形が私を引きずっていく。私は歯を食いしばれずにうめいた。経験したことのない痛みに息が継げず、全身から汗が吹き出し、体が痛いと訴えてくる。右手の痛みと共に左手の指先から熱が失われていく。

 ギルの声が聞こえて振り向くと、私はようやく頭の片隅で思考する余裕を取り戻した。声は出せなかった。けれど、私の考えが正しければ大丈夫だと、心の中で繰り返す。

 異形は噴水の前で私の体を抱え上げた。これから落ちる液体の魔力を背中に感じる。

「お前が初めての有機物だ」

 背中から感じるに、魔力の波形も穏やかで、そんなに悪いものでもない気がする。

「どうなっても、知らない」

 私の呟きを異形は一笑に付す。

「溶けろ」

 背中から放り出された時、ギルが私の名前を叫ぶ声が、聞こえた。

 水音が聞こえて、目の前が薄緑色の揺らぎに包まれる。沈む程深くはなかったはずなのに、どういうことだろう。魔力の流れが水のように体を通り抜けていく。やっぱり思った程悪くない、むしろ心地いい。抗えないとここで本当に溶けていくのだろう。でも、知っている。私は抗える。

 左腕から力を抜くと、腕が鼓動する。この安らかな場所には何て、似合わない。痛みと共に左腕が自分の感覚から遠ざかっていく。右手の痛みは消えていたけれど、左腕の痛みは、消えない。

 最初から分かっていた。私の左腕にいるのは、全てを飲みこむ、黒い鳥なのだと。

 水が沸騰するように気泡に包まれて、視界が薄緑から白に塗りつぶされる。手を伸ばして、へりのようなものに手をかけた。絵に色がついていくように、景色が戻ってくる。

 噴水の側では白い髪の異形が、遠巻きには背中に翼の生えた異形達が、ギルが、目を見開いてこちらを見ていた。

 噴水の中の液体はほぼなくなっていて、見上げる程だった結晶体は粉々に砕け散っている。左腕を見ると、黒い流動する魔力の翼に覆われていた。

 魔力は、全て、左腕が飲みこんだ。底なしの『どこか』に繋がっている、この黒い翼が。

 私は噴水のへりをまたいで、濡れて頬に張りついている髪を払った。

「なぜ」

 白い髪の異形が我に返ったように叫ぶ。

「なぜ溶けない。あの量の魔力を収めて耐えられる体など、この世に」

 異形の視線が私の左腕で、止まった。

「お前、いや、そんな。そういう、ことなのか?」

 異形の声は震えていた。異形の左腕の翼と、私の翼は似ている。けれど私の翼は黒く、魔力そのもので実体がない。私は白い髪の異形の側へ歩み寄った。誰も動かず、一言も発さず、私の靴音だけが響いている。

 白い髪の異形の前に立つと、異形の唇は色を失って震えていた。左腕が、鼓動と同じ速度で、内側から一撃、また一撃と殴りつけられているように痛む。これから、どうなるのか分かっている。それでも、私は。

 異形の唇が開いて膝が崩れ落ち、何かを言う前に、私は左腕を振るっていた。黒い魔力の羽根が舞い散って、異形の体を黒が覆う。異形の形をした黒は段々収縮していって、花が散るように細かく飛散した。

 それを合図に、空間に悲鳴が満ちて異形達が方々へ散っていく。逃がさない、逃がしたら、私は帰れない。部屋の出口へ集まっている異形の元へ走る。

 名前を叫ばれて、左腕を中心に体が後ろへ思い切り引っ張られた。驚いて振り返ると、ギルが、私の左腕を、黒い翼をつかんでいた。ギルの表情は悲痛そのもので、私の胸の中に後悔が押し寄せる。

 私は異質だ。人間でも異形でもない。けれどたった数時間前に会っただけのこの人は、私を少なからず受け入れてくれた。だから、今嫌われてしまうことが、とても、悲しい。

「痛いんだろ、もういい」

 ギルは叫ぶ。私は耳を疑った。何を言っているのだ? 私の腕が痛むからやめろと言っているのか? ただ異形を皆殺しにする得体の知れない力を不気味がっている訳ではないのか? 意味が、分からない。

 けれど私は眠るように、体から力が抜けて、少しだけ遅れて意識が遠ざかっていくのを感じた。ギルの腕が崩れ落ちる私の背中をとらえて、私はギルの顔を仰いだ。

 ああ。この人は一体、何を思っているんだろう?

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