モンゴル語習得法

@komitetsu

第1話

最近、モンゴル人と出会った。仕事の関係で月に2,3回は顔をあわせる。大事なお客様だ。


語学が好きな私はこれまで、英語、スペイン語、中国語、韓国語、ロシア語など、かじってきた。

たいして話せもしないのに、スペイン人と会えばスペイン語を、韓国人と会えば韓国語を、知ってる言葉だけ並べる。相手は笑顔で驚いてくれるが、内心困ってるかもしれない。それでも、日本という、今も江戸時代の鎖国状態に近いこの国で、草の根的でも世界からの理解を得ることが必要だと思い、語学学習に取り組んでいる。


モンゴル人と定期的に会えることは貴重だ。彼の日本語は流暢ではあるが、独特のアクセントがある。関係を円滑に進めるためにも、今度はモンゴル語に手を出してみることにした。人はこの世に生まれた由縁と共に生きている。互いの心の奥深くの、侍と遊牧民が分かり合う瞬間を思えば、語学に費やす時間は惜しくない。


言語を習得し始める時はいつも同じだ。

こんにちは。さようなら。ありがとう。

これらの言葉を覚えれば、たちまち国際コミュニケーションの扉が開く。


モンゴル語で

「こんにちは」は、「サインバイノーゥ」。

「さようなら」が 「バイヤールタイ」。

「ありがとう」が「バイヤールララ」。

なるほど、「バイ」を良く使うのか。しかも、「さようなら」と「ありがとう」は、ともに「バイヤール」から始まるか。「ララ」か「タイ」かの違い。なるほど、これは覚えやすい。モンゴル語は比較的簡単な部類だろうか。


その日から、会社を出るとき「お疲れ様」と言いつつ、「バイヤールタイ」と頭の中で繰り返した。頭の中で繰り返すのは大切なことだ。実戦の機会が少なくても、日々頭の中で話していれば、咄嗟の時も流れるように美しく外国語が出てくる。これは長い語学学習の末に編み出した私の自慢の習得法だ。


取引先のモンゴル人に会うまで10日ほどある。10日あれば3つの基本会話は完璧だろう。勤務中いつもすれ違う白髪長髪の50歳くらいの男、オフィスビルの女子大生だろうコンビニの店員、そして散歩中の犬に対してさえ、想像の中で、その顔をモンゴル人風にアレンジして、バイヤールララ、バイヤールタイ、サインバイノーゥと頭の中で繰り返し、イメージトレーニングした。


そして10日後、今日は例のモンゴル人との商談の日だ。

朝、自分の朝食を用意した自分の姿が鏡に映り「バイヤールララ」と呟いた。

完璧な出来栄え。発音はカタカナだが、堂々とした口調で違和感は感じないだろう。

「上方の訛りはこんなだったかな?」程度の感で済むかもしれない。


家を出て駅に向かって歩く。知っていた。今日も今日とて、前からやってくる白髪長髪の男。

すれ違い様に「サインバイノーゥ。」つい小さく声に出てしまった。うん、意識しなくともポロポロと言葉が溢れてくる。今日はどのタイミングでモンゴル語をだしていこうか。会ってすぐか、それとも商談の後がいいか。勝手に口から出てしまっては致し方ないが、それもいいだろう。


「サインバイノーゥ」


今、確かにそう聞こえた。聞こえた方を振り返ると白髪長髪の男しかいない。

後ろ姿では確認できないが、その広い背中はモンゴル人力士と同じ殺気を感じた。


「お兄さん、モンゴル人か?」


なんと言うことか。この男は私のモンゴル語を理解した。しかも、モンゴル人のアクセントを持つ日本語だった。モンゴル人だったのか。全く気づかなかった。私はイメージの中で、彼を二重にモンゴル人にしていたのか。しかしこれは千載一遇のチャンスと今は捉えよう。今この時をモンゴル語実戦、初陣とするほかない。


これは江戸時代の旗本と同じだ。竹刀、木刀を使った修練に何十年耐えても、真剣勝負の経験がない。人を切ったことのない侍が、初めて、己が手にした白刃の先に、人の、生きてる人間の眼差しを垣間見た時、尊敬する師匠、切磋琢磨した兄弟弟子、剣にかけてきたはずの人生、それら全てを疑い、手足が震える。やがて夜が明けそうなほどに長い数秒の間に、噴き出した手の汗で、太刀は滑り落ち、その切っ先は己の足の甲を貫くのである。


既に「こんにちは」は言ってしまった。次に抜く剣は、、、「さようなら」では会話が終わってしまう。「ありがとう」と言えなくなってしまう。ならば「ありがとう」と好意をしめしつつ、すかさず「さようなら」である。会話が始まると、片言も話せないことがバレてしまう。すぐに別れを切り出せば、急いでる事くらい察してくれるだろう。

心は決まった。「ありがとう」で行く。


「バ、バ、バ、、、」


なぜだ、おかしくも、緊張だろうか、言葉が溢れ出ない。これが侍の初陣なのであろうか。


「バ、バイ、、、」


その時、何故だろう。私の右手は太刀の柄を握るごとく、ジャケットの左のポケットに向かっていた。


「バイヤー、、、」


言語学習者にとって、単語は武器だ。侍の如く刀を構えようではないか。


「バイヤール、、」


左ポケットには長財布。確かに現代人の武器。掴み、取り出した。

その刹那、私は江戸の旗本と一体化した。手汗にまみれた革の財布は、右手の全ての指を第二関節から第一関節、そして指先へと滑降し、2メートル先の白く肩に下がる髪に飛び込んだ。男はかがみ、地面の財布を掴み取る。財布を拾ってくれれば、「ありがとう」の言葉にとっては完璧なシチュエーション。

男は財布を手にし、そのままクラウチングスタートの姿勢をとる。そして一瞬私と目があった、と思った時には、信じられないスピードで走り去って行った。


追いかけることもできなかった。唖然とする私の口から言葉がこぼれ落ちた。


「タイ。」


私の語学習得法は、確かに完璧だった。

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