6月1x日

「やっと......お目覚めかい? 華君」


 かなりくぐもった声だった。イメージするのは......ハンカチや適当な布を口にかぶせた時に出る声だろう。ただ、今回は声を出している側に問題があるのではなく、聞く側......昼間寝の耳に問題がある。


 耳全体がもやもやとして明瞭としない。それどころか、意識が大きく左右に揺さぶられているような感覚。思わず吐き気を催してしまいそうになり、昼間寝は居ても立っても居られなくなった。上体を思い切り起こす。



「..................ここは? 烏取さん」



 彼の目の前にいたのは烏取電波。白いワイシャツを身にまとい(ただしほとんどはだけている)、シワの目立つジーンズを履いている。向かいにあるソファーに深々と座り、ぼさぼさの黒髪をいじりながら昼間寝を見ていた。


「まあここがどこかはどうでもイイじゃないか。そんなことよりね、僕は怒っているんだよ華君」


 極めて真面目な目つきで、冷淡に冷酷に冷徹な声色で昼間寝に言う。雰囲気に流されるように昼間寝は姿勢を正して烏取へと向き合う。


「怒っている............って、どういうことですか。僕が何か」


 そこまで言いかけて昼間寝は口をつぐむ。彼の意識には、頭には、確かに記憶されていた。保科金糸雀と危うく命のやり取りをしかけたあの放課後の出来事を。生々しいまでに鮮明に。


 ナイフを持った時の感触も、保科の鬼神の如き迫力も、まるで録画した映像のように昼間寝の脳内で再生された。


「彼女に君を任せたのは僕だ。ほとんど投げやりと言ってもいいだろう。けれど、それでも限度というものがある」


「僕たち『雑貨屋』は、隠密行動を主としている。それはもちろん君も把握していると思う」


 烏取は立ち上がった。しかしそのまま話を続けた。昼間寝は口を挟むことなど到底叶わず、口を閉ざして聞き手に回る。


「確かに仕事柄、荒事を避けられないケースも存在するし、そういった事態を公にしない手立てもある。けれど、それは大方深夜......あるいは人の影のない所で行われる。一昨日みたく大っぴらに盛大にされちゃ困るんだ。事後処理をするのはこっちなんだから」


 烏取は頭を抱えているようだ。声色や動作から昼間寝はそう解釈する。一方的に尻拭いを強要されるなら無理もない、と同情も覚えた。


「その......すみませんでした」


「謝ってもらえれば僕もそれで満足だ。幸い一昨日の一件は誰の目にも触れていないようだからね」


 昼間寝は胸を撫で下ろした。同時に肩の荷も下りたようだ。しかし、一つ問題が解決すると、押して出たように次の問題が芽を出した。いや、既に芽は出ていて、単に昼間寝が気がつかなかっただけのようだ。


「......そうだ。保科さん......保科金糸雀さんはどうなったんですか⁉︎ 容態は......大丈夫......なんですか」


 しどろもどろになりながら問いただす。思わず前かがみになり、二つのソファーに挟まれるように配置されている机に手をついた。烏取はというと、昼間寝に視線を向けたまま黙っていた。その対応に、刹那の間に欠けていた冷静さを取り戻したようだ。机から手を離し、再びソファーへ腰かけた。両者の間に沈黙が流れる。


「......彼女は病院で現在も進行形で治療を受けている。僕から言えるのはこれだけだ」


 躊躇ったような挙動の後、烏取は言った。それは昼間寝にとっては苦言のような一言であった。彼が望んだのは「彼女は家で療養中だ」であったり、「彼女は元気だ」といった朗報だった。しかし伝えられたのは朗報ではなく、悲報。


 烏取は『一昨日の一件』と言った。その言葉の通り、恐らく今日は二日後。その二日経った今でさえ『進行形で治療中』ということは、かなり重症ととれる。下手をすれば命に関わるような事態とも。


「君のせいではないさ、華君。そもそも、この件に『誰のせい』なんてモノは存在してないのさ。起こるべき......いや、起こらなければおかしかったんだ」


 含みのある表現をする烏取。せわしなく、さほどの広さのない部屋の中を移動しながら彼は言う。その落ち着いた声色とは裏腹に、彼自身動揺しているようだった。


 自分のした行いによって、人一人の命が危ぶまれている。無情に叩きつけられた事実が昼間寝の体を押し潰すようにのしかかる。


「......そんな......僕のせい......なんです......僕が......」


 苦痛の色を隠さない昼間寝。隠したくとも隠せないのが現状だろうが。


「兎にも角にも、だ。......華君。今日は早々に帰った方がいい。君のためにも彼女のためにもね。また日を置いて収集をかけるかもしれないけれど、その時は素直に応じて欲しいんだ」


 小さく頷く。立ち上がったものの、覇気のない顔に引っ張られるように足音は弱々しく千鳥足であった。それでもふらふらと歩き、玄関にある扉のノブを握る。その様子を烏取は、まるで危なっかしいモノを見るような目で眺めていた。


 ばたん、と扉が閉まる音が部屋の中に響いた。それが部屋中の壁に吸い込まれて消えると、一切の音が消え、静けさを取り戻した。『最初から音なんて存在していなかった』と誤認してしまう程に。


 しかし意外にも、その『静』をあまりにあっけなく破った烏取。フローリングの上を歩き、備え付けられた固定電話に手をかけた。自前の携帯電話ではなく、わざわざ固定電話を使うということにどんな意味があるのか、それは彼にしか分からない。


 少し固めのボタンを押すとすぐにコール音が鳴った。二回目のコールで電話の相手は電話越しに現れた。


『はい。ホシナ探偵事務所』


 電話の相手は高く、可愛らしい声でそう言った。探偵事務所、という聞くに慣れないワードと、そして、ホシナ......。


「烏取です」


『あっ......! 烏取さん、ご無沙汰しております』


「いえいえ、こちらこそ。............ところで、既に聞き及んでいるとは思いますが......金糸雀さんが」


 あっ、と電話口から声がこぼれた。この話を持ち出されるとは思っていなかったのだろう。狼狽しているのが聞いて取れる。


『......はい。現在の状況も把握しています。姉の......容態も』


 姉。確かにそう口にした。電話の相手は、保科金糸雀を実の姉に持つようだ。だとするなら、なかなかどうして精神が強いようだ。実の姉が病院送りになりながらも、こうして理性を保ち烏取と会話をしている。尊敬と同時に畏怖の感情を覚えてしまう烏取。


「申し訳ありません。このような事態になってしまったのは、我々の不徳の致すところです」


『そんなことないですっ......! 仕方のないことです、不可抗力ですよ......烏取さん。まさか、あれを使うなんて』


「っ。そんな情報までそちらに届いているんですか。それについては、まだ組織外には口外しないよう箝口令を敷いていたのに」


『まあ......。情報収集で食べてますからね。それに職業柄、情報というのは付いて回りますし』


 電話口からは冷静な声が聞こえてくる。さも当たり前のように、機密情報を耳に入れている。烏取は唾を飲み込んだ。危うく音が受話器に拾われてしまったのではと疑いを持ってしまう程大きな音が鳴った。


『まさかそんなことまで筒抜けとは......いやむしろ、強引に筒抜けにされた、と言うべきか。まるでほじくるように風穴を開けられた。こちらの情報の保護は完璧に近い。完璧を謳えないのは今回のような例外ケースアウトが存在しているからだ。これがホシナ探偵事務所......』


 探偵事務所、と名前にはあるが、探偵業は表向き......副業だ。その実態は非公式である『雑貨屋』の動向を監視するために用意された、警視庁直属の工作員である。言わば、『雑貨屋』という獣を制御するための獣。警察が、表立って処理出来ない事件を丸投げするなど、烏取たちを好き勝手利用するように、『雑貨屋』も彼らを上手く使っている。さながら共生......あるいは『共喰い』といった関係だろうか。


『姉がいないというのは確かに痛手ではありますが、現状は維持出来ますので。もし万が一仕事に支障が出るならば、その時は御手洗さんにでも協力を煽りますよ』


乱仔ランコさんにですか......。あの人は気分屋だ。それに、性格が著しく欠落している。それでいて探偵としての実力は折り紙付きときた。......いや、探偵ではなく『非探偵』と彼女自身名乗っていましたか」


 相手方に傾きかけていた話の流れを、共通の友人の話題で茶を濁す。


 


「なるほど......分かりました。......この件は口外しないようお願いします」


『それはもちろん。この度はウチの姉がご迷惑をおかけしてすみませんでした』


 そこまで言ったところで通話は終わった。切られたという方が適当かもしれない。烏取は静かに息を吐くと受話器を置き、目を閉じた。


 今しがた訪れた頭痛を治めるように、眉間を指でつまむ。


「............あまり長引かせては事態を悪化させるだけ、か。早急に決着をつけないとな。とすると......四日後か?」


 微笑し、呟いた。









 月下の夜景。まるで隙間風のように弱々しく微小な風が、ビルとビルとの間......路地裏に吹き抜けた。複雑に入り組んだ路地裏は、ゲームやフィクションの世界にある迷宮を彷彿とさせる。


 加えてごみ箱の中に入りきらなかったごみ袋や生ごみが地面に散乱し、どこからか現れた鼠や虫が這い回っている。完全なる無法地帯。


 普段ならば誰しもが近寄りたがらないこの場所を、一人の少女が走り抜けていった。どこかの学校の制服であるブレザーを着、前に付いたボタンを外し、その下に隠れていたワイシャツを露見させていた。


 藍色の手提げ鞄を肩にかけたままの彼女は顔を恐怖に引きつらせ、無我夢中に走り続ける。その背後には、同じような背丈の影が一つ。その影は、右手に細長い『筋引き』と呼ばれる包丁を持ち、顔は真っ白な能面で覆われていた。


 黒いビニール生地のズボンを履き、サイズの大きいパーカーを着込んでいる。そのせいだろう、異様なまでに大きなシルエットを作り出し、ただでさえ薄暗い路地を真っ黒な影で覆った。その影に怯えながら少女は路地を駆ける。


「な............っ、何なのよっ‼︎ 何でこんなことに......! 誰か! 助けてっ、助けてよぉっ⁉︎」


 懇願のような哀願のような慟哭。しかし、彼女の必死の叫びは皮肉にも彼女の背後にいる人物......『仮面殺害者カメンスレイヤー』にのみ届いていた。しかし、その人物は依然真っ白な能面を顔に張り付けたままであり、言葉を一言も発さない。まるで言葉という概念が初めから存在していないと言わんばかりに。


 息を切らした少女は、ビルの外側に設置された階段を駆け登った。屋上へ続く階段のようだ。


 年季が入っているのか手入れが行き届いていないのか(恐らく後者だろう)分からない階段が、ぎしぎしと軋んで音を立てている。しかしそんなことは気にも留めず、少女は上り上へ上へと向かっていく。そんな様子を、背後で見ていた『仮面殺害者カメンスレイヤー』は一度階段の前で立ち止まり、階段を上る標的を見据えた。


「......」


 まるで揺らめく陽炎のように、不規則で不安定で不気味な挙動をとる『仮面殺害者カメンスレイヤー』。ふらふらとした足取りでゆっくりと階段を踏みしめ、少女の後を追う。



 階段を上りきり、ビルの屋上へと辿り着いた少女。彼女のもとに飛び込んできたのは、市街地のビル群から漏れ出た明かりと冷たい夜風。六月の中旬になり、夏の兆しが見え始めても夜は冷えるようだ。少女は身を震わせる。


 しかしすぐに今の状況を思い出し、身を隠せる場所を探した。


 辺りにあるのは落下防止用の鉄の手すりと二人がけのベンチ、そしてビルの中へと繋がる扉だけだった。真っ先に扉へと駆け寄り、鈍色のノブを乱雑な手つきで回す。しかし案の定、扉は施錠されていて開くことはなかった。


「いやっ......! どうして、どうして開かないの⁉︎ 開いてよっ......!」


 目に涙を溜め、悲痛の叫びを口にする。扉はまるで彼女を拒絶するように固く閉ざされたまま。その事実を認めたくなくて、何度も何度も何度も何度も扉を叩く。




 ふと、扉を叩く音が止んだ。少女が叩くのをやめたのだ。


 いや、『やめさせられた』というべきか。彼女の腹部には鋭く尖った『筋引き』が深々と突き刺さっていた。衣服を裂き、皮膚を裂き、内臓を裂き、そして貫通したのだ。


「あ? ..................あっ。あ......」


 自分の体に今何が起きたのか。彼女は理解出来ず、ただわずかに動く手で自身の体を弄った。そしてぴちゃり、と水音がしたかと思うと、手のひらには大量の血。


 どこまでも赤黒く、人間が本能的に嫌悪感と恐怖を覚えるモノが、彼女の手のひらをそれ一色に染め上げていた。


 何も言わず、前に倒れ込む。そこに存在している扉は、皮肉にも動かなくなった彼女の体を支えた。扉にもたれかかり、ずるずると音を立てて崩れ落ちる少女だったモノ。


 そこには血だまりが出来、彼女を鮮やかに彩っているようにすら見えた。


 全てを終えたパーカーの人物は、手に持っている凶器に付着した彼女の『痕跡』を、手慣れた手つきで振り払った。その仮面は、何の表情も見せず、何一つとして語ることはなかった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る