6月17日(2)

 昼間寝華は喉を鳴らす。冷たく集中をかき乱す汗が滴り、顎へと集まるのが分かった。


 目の前で堂々と、昼間寝に威圧をかける金髪の女性......保科金糸雀ホシナカナリア。相変わらずパーカーのフードを深く被り、その顔の半分は影で覆われていた。フードの端から垂れ下がる髪の毛は、水でも浴びたかのように濡れていた。


「どうしたの? 怖くて動けないって? どれ、ならお姉さんが発破をかけてやろうか」


 右手でバットを持ち上げ、軽く振ってみせる保科。バットとはいえ金属製だ。それなりの重さがあるはずだが、保科は意に介さないようである。


 昼間寝は一歩後ろへ退く。勝手にこの場から逃げ出しそうとする脚を抑制し、今、自分が戦うべき脅威と真正面から対峙する。


 視線を走らせ、保科の体、使える道、バットの長さなど、様々な要素を確認する。


『リーチはあちらの方が完全にある。互いに腕を伸ばしたところで先に凶器が相手に届くのは間違いなく僕ではなく保科さんだ。地の利も同じ......。なら、僕に出来るのは』


 駆け出した。敵である保科に背を向け、真逆の方向へと。一目散に。


「......ちょこざいねぇ。ま、あんなナイフ一本で特攻してくるようなら問答無用で殴り殺してるけどね。勝算のない特攻は勇気や勇敢じゃない。ただの無謀だからさ」


 保科は落胆したような、それでいて少し安心したような声色で呟いた。バットを肩でかつぎ、昼間寝の行った道をゆっくりとした仕草で歩き始めた。




 保科の敷地から這うように出た昼間寝。左右を見回し、適当な場所を探す。しかし右も左も見えるのは同じような代わり映えしない一軒家と十字路のみ。小さく舌打ちをすると、彼は再び駆け出した。



 僅かな時間差ののち、保科がゆっくりと灰色のアスファルトを踏む。昼間寝が逃げたのは右か、あるいは左か。二者択一の中、保科にはその答えが存外早く見えたようだった。


「詰めが甘いぜ......昼間寝君。付いてるんだよ、土が......まぁ、この危機的な状況でそこまで考えてられないか」


 アスファルトには、焦げ茶色の土が付着していた。ここ一帯に土が付くような場所は保科の家か、または他の住宅の敷地内のみ。ましてやその土が保科家から延びているのだからほとんど間違いないだろう。


 土が点々と続く右側の道を、あくまでゆっくりとした歩調で進む保科。ジェイソンやフレディ・クルーガーよろしく、主人公を弄び追い詰める殺人鬼のようだ。からんからん、と音を鳴らしわざとらしくバットを引きずりながら歩くのも、昼間寝を追い詰めるための術なのだろうか。


 十字路に差し掛かった辺りで、保科は眉をひそめた。土が双方向に別れているのだ。しゃがみこみ、指の腹で土を掬い取ってみる。


「......靴の裏から付着した形をしていない。......人為的に付けられたってことか」


 睨むように指にこびりついた土を見る保科。やがて土を手ではらうと、唐突に、突然に、右手で持っていたバットを顔の高さまで持ち上げた。





 金属と金属かぶつかった時に聞く、甲高い衝突音が響いた。


「く......そっ」


 十字路の死角から飛び出した昼間寝が大きく横に薙いだはずのナイフの刃は、保科の首筋には至らず、金属製のバットによって阻まれていた。強く前に押し込みたい衝動に駆られたが、バットとナイフの刀身、強度的な意味ではナイフが敗北するのは火を見るよりも明らかだ。


 歯ぎしりをし、素早い動作で後方へと退く。


「今ひとつなんだよなぁ、昼間寝君。センスはイイみたいなんだけど、あと一歩......いや、三歩足りない。まあ、その辺は補完すれば事足りるか」


 そこまで言い終えたところで、保科は言葉を区切った。


「今度はこっちのターンッ! ってね」


 直後、保科は空高く舞っていた。ほんの少しの助走もなく、ほんの少しの違和感もなく、純粋な脚力だけで跳躍していたのだ。


 あまりの大それた行動に、昼間寝は刹那の間動けずにいた。躊躇っていたのだ。地に足を着いてくると思い込んだ相手が、空を背にしたのだ。躊躇わずにはいられない。


 やっと硬直が解けた時には、既に昼間寝の間近に保科は迫っていた。


 右手に持つバットが昼間寝を捉える範囲に含まれると、保科はバットを振り下ろした。体を横に傾かせ、昼間寝は半ばバランスを崩したように倒れ込んだ。


 その行動が功を成し、バットは昼間寝の五十センチ程横に振り下ろされた。耳をつんざく金属音に思わず全身の鳥肌が逆立つ。


「やっ............ば」


 声を出すことすら精一杯な、きっ抗した状況。昼間寝は全身の筋肉を奮い立たせ、体を起こす。


「なっ」


 体勢を整えたところで、昼間寝の目に写ったのは、眼前に迫るバットと、それを振り抜く保科の姿だった。


 それを完全に避け切る程の身体能力を、昼間寝は持ち合わせていなかった。意識では確実にその凶器を捉えているが、肝心の体が反応出来ていない。上半身を捻り、避けることが出来ない。


 昼間寝が出来たのは、右腕を盾代わりにして体に当たらないようにすることだけだった。


「ぐッ............ああああああああああああぁぁァァァァァァァァ⁉︎」


 めきり、と鈍く重い音が聴こえた。それと同時に響くのは、昼間寝の絶叫。


 保科のバットは彼の右腕に直撃していた。が、その甲斐あってかバットは腕でせき止められ、体までは届いていなかった。


「くそッ」


 痛みに顔を歪めながらバットを払いのけると、力を振り絞って保科を蹴りつけた。バットに重心を置いていたのだろう、大きく後ろによろめいた。その隙を使い、昼間寝は二歩、三歩と距離を取る。


 保科の姿を目で捉えつつ、自分の右腕に目をやる。


『折れたか......? いや、腕は一応動く。とすると良くて捻挫か......』


 昼間寝の右腕は、目視で判るほどに腫れていた。患部は内出血をし、青紫色に変色してしまっている。


『骨にひびが入っている可能性も十分あり得る。何か......固定出来るものは』


「応急処置もさせないぜ」


 持っていた鞄の中から使えそうな物を取り出そうとする昼間寝。それを阻止しようと保科が動いた。低い姿勢で走り込み、ほんの数秒で二人の距離は縮まってしまう。


「......それならッ」


 昼間寝は思い切り持っていた鞄を前に突き出した。その鞄の中には筆記用具や参考書......おおよそ学園生活に必要な物が詰まっている。それがバットに触れる直前、昼間寝は極めて小さい動作で鞄から手を離し、横飛びで保科の脇腹に飛び込んだ。


 昼間寝の腕という支えを失った鞄はふわり、と宙を舞い、保科の視線を遮った。同時にバットのミドル部分にぶつかり、数メートル先の地面に落下した。


 鞄がぼす、と音を立てて落下した時には、保科は昼間寝の持つナイフの射程距離に入っていた。左手に握られていたナイフは銀色の刃を展開し、まるで虎視眈々コシタンタンと獲物を狙う獣のようであった。


「なにッ..................ち」


 明らかな動揺を見せる保科。完全に隙を突かれたようだ。


「もらっ、たッ」


 低く前傾した姿勢のまま、ナイフを振り上げる。風を切るその刃は、徐々に保科の体へと向かっていく。



 ガッ、キン。


 しかし、昼間寝の聴いた音は、予想したものとは違っていた。思わず見上げると、すんでのところで止められていた。バットによって。一度ならず二度までも捌かれてしまったのだ。呆然とする昼間寝を一瞥し、保科は慣れたような手捌きで手首のスナップを効かせ、ナイフを遠くへと弾き飛ばしてしまった。


「............ッ!」


 バットと違い、大した重さもないナイフはいとも簡単に昼間寝の手から離れ、くるくると回転しながら放物線を描き、アスファルトにて音を立てた。


 まるでナイフに引っ張られるように、昼間寝はバランスを崩し転倒してしまう。


 打ち止めだ。詰みだ、と昼間寝は確信した。それは彼にとって、出来る限り思いたくないことだったのは想像に難くない。


 保科はバットを担ぎ、昼間寝につめ寄る。さほど激しく動いていないはずだが、保科のパーカーは汗を含み黒い滲みをつくっていた。


「へへ、へ......惜しいね昼間寝君。......正直驚いたよ、『この状態』のアタシを出し抜きそうになるなんてね。なかなかどうして見込みがあるらしい。おかげで少しちびっちまったよ」


 ちびったのは嘘だけどね、と付け加える保科。その様に昼間寝は違和感を感じずにはいられなかった。


 言葉の内容は自信に満ちた、強者の余裕じみたものが感じられる。しかし、それを語る表情は苦痛に歪んでいた。ひどい激痛に耐えるような......それでいて酩酊メイテイしているような不安定さ。少なくとも、精神的に平静を保っているようには見えない。


「でも......これで終わり。......アタシの喉元にほんの数センチ近づけば思い切り食い千切られたのに......残念だよ」


 震える声で告げる。ほんの前まで担いでいたバットはいつの間にかその先端をアスファルトに擦り付け、ずるずると引きずられていた。不気味に微笑みながら一歩、また一歩と距離を縮められる。


 昼間寝は逃走を試みようとするが、すぐに断念せざるを得なかった。それは精神的にでもあり、同時に物理的でもあった。


 転倒した際に足首を捻ってしまったのだ。動かせないというわけではないものの、走って逃げられるほどの余裕はない。足をかばって歩くのがせいぜいだ。


 昼間寝は潔かった。何も言わず、ただ目をつむった。念のために注釈を入れるが、昼間寝は何度も修羅場をくぐり抜けた猛者などではなく、ごく普通の学生だ。そんな彼がこの状況で抵抗を止めるというのは、些か......いや、確実に不自然なのだ。


 一体何が起きているのか、それは当の本人にすら知り得ないことだろう。ただそうしろと脳が伝え、それに従う。そこに果たして彼の意思は介在しているのだろうか。




 目を閉じてそれなりに時間が経過しただろう。保科が持つ凶器によっていつでも意識を失う覚悟は出来ていた。下手をすれば失うものは意識ではなく命だというのに。


 しかし、一向にその時は来なかった。皮膚で感じるのは痛みではなく、時折吹く風の感触だけだ。


「..................あ、? え?」


 耐えかねた昼間寝が目を開けると、そこには予想外の光景が広がっていた。冷たいアスファルトにうつ伏せの姿勢で倒れていたのは、保科だった。唖然とした表情を浮かべる昼間寝。


「ちょ......ちょっと。そういう趣向の作戦ですか。『殺せ』そうな状況を作り、油断したところで反撃してほくそ笑む......みたいな。その手には乗りません」


 用心には用心を重ねるため、倒れる保科の側にあるバットを蹴り飛ばした。


 何も持たず、ただ倒れているだけで動かない彼女の様子が変であると気がついたのは、それから数分経ってからだった。体がわずかに震え、肩はそれに比例するように弱々しく上下しているのを見た昼間寝は、うつ伏せになったままの彼女をあおむけに起こした。


「............!」


 言葉を失った。いや、正確には、喉元まで出かけた言葉が衝撃のあまり引きこもってしまった、というべきか。


 保科の顔には、箇所箇所で紅色の湿疹のようなものが浮き出ていた。彼女は苦痛を訴えるように眉を八の字にしていた。肌にはいくつもの玉型の汗がにじみ出、顔を濡らしている。


 明らかに普通の症状ではない。持病か、あるいは性質の悪い感染症の類いだろうか。昼間寝は躊躇いの末、一番上まで上げられたパーカーのチャックを下ろした。


「......おいおいおい。何だよ......これ」


 彼女の体はねずみ色のベストで覆われていた。その隙間からは白色のTシャツが覗いている。ベストの上からパーカーを羽織る。少し変わってはいるが、気に留めることではない。だが生憎、昼間寝はそのベストに見覚えがあった。


「防刃ベスト......」


 名前の通り、刃物からの攻撃を防ぐための防具である。ケブラー繊維や金属板で作られるこれは、その材質ゆえ長時間着用が困難であるとされている。



 昨夜、保科は何かしらの刃物を使ってくるのではないかと推測した昼間寝は、防具になりそうなものをインターネットで探していた。しかし、効果が期待できるものは値段が張り、そもそも注文したところで今すぐに届くわけがない、と気がつき、すぐに断念した。


「僕が身につけることは考えたけど、相手が着ける可能性は全く考えていなかった......初めから僕に『殺』される気はなかったってことか......」


 まあ当たり前か、と不満を漏らしながらも納得する昼間寝。


 今回、保科から昼間寝に課せられた条件は、保科金糸雀という人物を『殺す』こと。それがどういった意味を持つのか、昼間寝は深く考えてはいなかった。


 本来の意味で、一般的に捉えられているように、一方的に命を奪う行為であるのか、あるいは、『殺したという事実のみを作ることができれば良い』のか。その境界線を定めていなかったのである。事実、保科は私を殺せと言っただけで、命を奪えとは一言も言っていない。


 曖昧な線引きと定義は、昼間寝を葛藤させるには十分すぎる条件だった。


「今なら............『殺せ』る。やり方は汚いけど......。いや、正攻法でどうにかなる相手じゃ......」


 ちらりと、自分の前方に落ちているナイフに視線を移す。あの凶器を手に持ち、鋭く光った刃を彼女の喉元にあてがい、手を引くだけ。簡単な行為によって起こる凄惨な結果を、倫理と良識とで抑圧する。


 地面に落ちているナイフは刃が出たままで、いつでも構わない、と昼間寝に訴えかけているようだ。今まで保科を獲物としていたその刃は、今度は持ち主である昼間寝を獲物と見定めたようにすら感じられる。


「そ、そうだ......。殺さなくてもいい、ちょっと......ほんのちょびっと傷つけるだけでいいんだ。保科さんの言っていた、殺せ、はつまり、ナイフを体の一部にあてていつでも殺せる証明をしろということだったんだ。そうに違いない」


 自分と意識を失った保科以外、誰もいない住宅街の中心で昼間寝は言う。それは自らを奮い立たせる意味でもあり、自分自身への言い訳と弁解でもあった。


 ふらふらと、ナイフのもとへと歩み寄る。その足取りは病人のようだ。少し億劫そうに屈み、手を伸ばしてその凶器を再び手の中へと戻す。


 その一瞬間、昼間寝の意識が左右に、揺れた。激しい目眩か、それを自覚する暇すら与えない短さだった。それに伴い起こる体の揺れを強く足を踏ん張り、倒れそうになるのを阻止する。



「あ............あれ?」


 昼間寝は自分の目を疑った。正確には自分の目に映る光景を疑った。


 昼間寝はナイフを取るために保科から離れた。これは必然の行いであり、これをなしにナイフを取ることは不可能だ。そして、ナイフを取ってから今までの体感時間はほんの数秒。二桁に届かないような時間だ。ましてや、その場から動いた自覚も彼にはなかった。


 にもかかわらず。



 彼は保科の体に馬乗りになっていた。ナイフを逆手に持ち、保科めがけて大きく振りかぶったところであった。


「う............うわぁっ‼︎」


 突然目の前に、瞬間移動のように現れた保科を見、反射的に声を上げてしまう。



「僕は......何をしているん......だ⁉︎ いや、何をしてい『た』んだ!」


 その場で激昂する昼間寝。しかしその感情とは裏腹に、声は畏怖の色を表していた。


 まるで白昼夢のような、夢遊のような感覚。眩む視界から見える風景はぐにゃりとわん曲し、現実感を失わせていた。



「ぼ......僕は......僕は! 『殺そう』となんてしていない! 殺したくない! ただ少し保科さんの体に切り傷を残して、殺せる証明をしたかっただけなんだ! 人として、『良い』わけがない『んだよ』! そうだ、だから............ッ!」


 昼間寝はナイフを手で握ったまま、顔を両手で覆った。彼の隣には実は視界で捉えられない透明人間がいて、昼間寝を糾弾しているのではないだろうか。......彼の取り乱し方はそれほどまでに異常だった。


「でも............っ‼︎ 今の、この状況っ......! これじゃあまるで......。"僕の中にいる誰か"が保科さんを『殺せ』と呼びかけているみたいじゃないかっ⁉︎」


 彼の慟哭ドウコクは、住宅街に建ち並ぶ家々の壁に反射して、空に消える。どんな声色で、どんな表情をして叫んでも、それが溶けて空気と一体化してしまえば、何も変わりない普通の景色に戻ってしまう。


 どんな言葉も思いもただの振動の波であるように、どんな言葉も意味を成さない。それこそただの戯言なのではないか。


「僕は何もしていない僕は何もしていない僕は何もしていない僕は何もしていない僕は何もしていない僕は何もしていない僕は何もしていない僕は何もしていない僕は何も」




 そこまで言ったところで、昼間寝の意識は、途端に切れた。

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