6月16日
教室の銀色のフレームに囲まれた窓。その向こうに広がる青空は、暗い灰色の雲で覆われていた。あまりに厚い雲は太陽の光を遮り、影を落とした。
朝の天気予報では、昼過ぎ辺りから天気が崩れ、大雨になるという。恐らく天気予報を確認せずとも、この空模様を見て大雨にならないと思う人はいないだろう。
時々一定の間隔毎にゴロゴロ、と空が唸る。
その様を頬杖をついて眺める
授業が淡々と進む中、彼の大学ノートは白紙のままで、ただ薄い青色でラインが引いてあるだけであった。机に突っ伏し居眠りをしているわけではないので、誰も咎めようとしないのだろう。
というのも、昼間寝は別に雲がどれだけ厚いのか、や今後の天気について考えていたのではない。
『烏取の奴......また妙な条件を出しやがって。指定された住所に通うだけっていうのがまたきな臭い』
教室にはシャープペンシルを走らせる音と、黒板に白いチョークで文字を書く音だけが聞こえる。
『初対面の僕に向かって殺人を依頼するような電波な人間だ。ただ通うだけなワケがない。例えば......烏取がどこかに身を潜めて僕を襲い、それをどう対処するかテストするため、とかも考えられる』
昼間寝はおもむろにシャープペンシルをノックし、芯を出した。何も考えずにノートの紙面に
『まあ、今いくら考えたところで烏取の真意は分からない。ここは黙って奴の思惑通りになろう。用心は十分に』
いつの間にか、無意識に描かれた楕円が何重にも重なって、乱暴に塗り潰したようになっていた。昼間寝は我に返ると、筆箱の中に入っている消しゴムを取り出してノートへとあてがった。
暗い部屋。部屋中には影が落ち、唯一の光は閉められたカーテンの隙間からわずかに漏れているものだけ。あまりに心もとないその光は、ほんの数センチ先を照らすだけだった。
備えつけられた焦げ茶色のソファー。そこに深々と腰をかけている男......烏取電波。淡い水色のポロシャツとクリーム色のハーフパンツを身にまとった彼は、昼間寝の前で振る舞っているような雰囲気を微塵も感じさせない。目は虚ろで、焦点はぶれ、定かではない。
半ば寝ているようにも、あるいは既に死んでいるともとれる格好で佇んでいる。
彼は優れない表情を貼り付けたまま、手元にあるスマートフォンの画面に目を落とした。無機質で無感情なその画面には、一人の少女......と烏取が写っている。遊園地だろうか、観覧車らしきものを背景にして二人で写っている。少女は烏取の腕に自分の腕を絡ませて、感情豊かに微笑んでいた。
この写真の中では、烏取は確かに生きている。『電波人間』としてではなく、『烏取電波』として。今の烏取電波という男は、生きながら死んでいる、いわば『死に体』のようなものだ。
生きながら死に、死にながら生きる。
おおよその生き地獄をくぐり抜けて来たこの男は、こんな窮地に立たされても生き残るだろう。ただし。
烏取はスマートフォンの無感情な画面に向かって、同じように無感情で言った。
「
内容は物騒だが、極めて静かな物言いで、その言葉の中に込められた殺意を全く感じさせない。眉間にはしわが寄り、視線は鋭く刃物のよう。さながら狩人を彷彿とさせる眼光を走らせている烏取は、唐突に着ているポロシャツを脱ぎ捨てた。
その途端に、がらがら、と固い物が落ちる音が部屋中に響いた。
音源は、烏取の体。一体どこに隠し持っていたのか、大量の拳銃や様々な刃渡りのナイフ、果てには手榴弾までもが音を立てて床へと落ち、散乱した。
ポロシャツを脱いだ烏取の体は、壮観であった。体中に黒色のベルトが巻きつけられ、そこには鈍い黄金色の銃弾がいくつも取り付けられている。それらを手慣れた手つきで取り外していく。
ベルトを全て机の上に投げると、小さく息を吐いた。
「......万が一にと思ったが、杞憂だったか。......むしろ出てきてほしかったものだが、そう
自嘲気味に烏取は呟く。散らばった拳銃を一丁掴むと、
部屋の外から水音が聞こえた。腰かけたばかりのソファーから立ち上がると、ほぼ閉め切られたカーテンを開けた。
窓から見える外の世界は大雨だった。大粒の雨が地面に叩きつけられて弾け、また落ちては弾けた。雨で霞んだ景色を、烏取はぼんやりと眺めていた。
「ふん。実に良い天気だ」
「あ〜あ〜、やっぱり降ってきちゃったかぁ。傘は持ってきてるけど......帰るのが億劫だな」
昇降口で靴を履き替え、ゴム素材の上履きを下駄箱にしまった昼間寝は、ねずみ色に染まった空を見上げて呟いた。校庭の土は雨水を多量に吸い込んで巨大な水たまりを作っていた。傘をさし足早に帰宅する生徒、携帯電話を耳に当てて親に迎えに来てくれと懇願する生徒、その最後の希望すら断たれ、途方に暮れている生徒など様々である。
それらの生徒を
「ちょっと華?」
「あっ......。あひる、ちゃん」
昼間寝の後ろにいたのは、
「どうして何も教えてくれなかったのっ?」
「えっ」
「学校を休んでいたこと‼︎ ......心配したんだから」
最初は強気な口調でまくし立てていた澄輿だったが、徐々に語気を弱め、責めるというよりむしろ責められているような声色になっていた。
そういえば......。と昼間寝は思い出した。病院に担ぎ込まれてからというもの、烏取電波だの『雑貨屋』だのと処理しきれない情報のせいで澄輿が完全に二の次となっていたのだ。というよりも忘れていた、の方が的確かもしれない。
「ごめん......色々とごたついてて連絡出来なかった」
当然のことだが『
昼間寝の言葉に、澄輿は小さく唸って腰に手を当てた。やがて微笑をこぼすと昼間寝へと一歩歩み寄った。昼間寝と澄輿、二人の視線が交わされる。
「良いよ、別に。これからたくさん構ってもらうし......ね!」
澄輿は言った。
「......ありがと。心が広い、流石は僕の彼女」
「おだてても何も出ないんだからっ」
傘が二本、肩を並べて二人は学校を後にした。
下校の最中、ふと昼間寝は気づいた。横を歩く澄輿に、素朴な疑問をぶつけてみる。
「ねえ、あひるちゃん。部活は平気だったの? 今日は平日だけど」
澄輿あひるは陸上部に所属している。元よりセンス......才能に恵まれていたのか、はたまた死に物狂いで努力を重ねたのかは分からないが、彼女は陸上競技において県大会出場レベルの実力者だ。
いつかの日の帰り道、遊び半分で昼間寝は澄輿に競走を申し込んだ。結果は言わずもがな、澄輿の圧勝であった。昼間寝自身、足の速さに自信があるわけではないものの、かと言って無いわけでもなかった。
そんな昼間寝との勝負を、まるで赤子の手をひねるように、かつ涼しい顔でやってのけた澄輿はやはり相当な実力者なのだろう。
故に、部活内でも一目置かれているはず。そんな澄輿が部活を休めば顧問も放っておかないだろうに。
「休んできた」
やけにあっさり、きっぱりと断言された。昼間寝はどうして、と問う。
「............華と久しぶりに帰りたいからに決まってんでしょ! ......言わせないでよバカ」
昼間寝は、澄輿が帰宅したのを確かに見届け、歩の方向を自宅から『約束の場所』へと変更し、歩き出した。
傘の柄を握り、雨で視界の悪い道を歩く。所々にある水たまりを、障害物を避けるように蛇行して進んだ。
雨の粒が目の前を遮り、視界をぼやけさせている。傘に施されたはっ水加工が雨水を弾く。昼間寝の頭上でバタ、バタ、と音が鳴っている。
辺りに人影は無い。大雨だからか、家に皆こもっているのかもしれない。
『この角を曲がれば......烏取に指定された住所、か』
ただの住宅街の一角。周りを眺めても完全に風景として溶け込み、違和感を感じるどころかまずそんな事すら考えようとしないだろう。ブロック塀で形成された十字路を少し重い足取りで曲がる。
角を曲がった先には、やはり同じような、平坦な景色が続いていた。家、家、家。あまりに代わり映えしない景色に昼間寝は目を細めた。
「この家、かな?」
ある一軒家の前に立ち、見上げる。豪邸でもなければ屋敷でもない。ごく普通の一軒家があるだけだった。灰色の家壁に、藍色の屋根。少し暗いという印象は受けるものの、かといってその第一印象だけで変な家だと思えるほど異質な存在でもない。いわば普通なのだ。
観音開きの門をゆっくりと開き、石畳が敷かれた地面を歩く。その先にある玄関に立ち、書かれている表札をまじまじと眺めた。
「ん......? これは......何て読むんだ。
昼間寝は眉をひそめた。保科という苗字はさほど珍しいものではない。問題は名前の方だ。木ではなく、プラスティックで横書きの表札には『保科金糸雀』と書かれていた。
「当て字、かな? だとしたら......」
「『カナリア』だよ、少年君」
雨の音に紛れ、背後から声が聞こえた。それも、超至近距離......その距離はほぼゼロに等しいだろう。
それに気づき、振り返る直前......。眼前に広がっていたのは、肌色。人の拳だった。
「がッッ............っ⁉︎」
途端に顔全体に鈍い痛みが走り、そのまま玄関の扉に思い切り体を強打した。一瞬意識が飛びそうになったが、すんでのところで持ちこたえる。
「う......ッ、が、はっ......!」
息が上手く吸えずに激しく咳き込んでしまう。苦しさと体の痛みで昼間寝は更に悶える。片膝をつき、苦悶の表情を見せた。
「へえ、へえ、へえ。電波野郎からの話だと、『ただの』高校生だって聞いてたんだけどねぇ。アタシのグーパン顔面から受けて意識をトばさなかった奴はそう多くないよ。『勉強しようとした時に親から勉強しろと催促された子の気分』だったけど捨てたもんじゃないねぇ。『真面目に勉強したらゲームを買ってもらえると分かった時』みたいだよ」
昼間寝は見上げた。そこにいたのは金髪の女性。着ているパーカーのフードを深々と被り、この季節に不釣り合いなまでに厚着をしていた。首には巨大なヘッドホンがかけられ、ビニール生地のズボンを履いている。ヘッドホンを除いて連想されるのは、トレーニング中のアスリート、だろうか。
悲鳴をあげる体を引きずるように昼間寝は玄関から転げ落ちた。上手く保科という女性の脇を通り抜けると道路へ出、ブロック塀に寄りかかる。
しかし肝心の脚は、がたがたと小刻みに震えて持ち主である昼間寝の意思に従わない。まるで生まれたての子鹿のように、弱々しい雰囲気をまとっている。
「おいおい。こんなんでバテてちゃ『
背後から冷めた声が聞こえた。振り返ると、首にかかったヘッドホンを指でいじる保科の姿。ごく普通に、さも当たり前と言わんばかりに抑揚のない声で告げた。
「............一体どういうつもりですかッ......‼︎ 烏取さんにここへ向かえと言われて来ただけなのに......ッ」
保科は呆れた様子でため息をつくと、
「その楽観的な考え方がまず間違いなの。本当の思惑をバカ正直に伝えるやつもいなければ、今から貴方を殺しま〜す、なんて宣言してから殺す奴もフィクションの中にしかいないの。しかも、その殺人が無計画なものほど余計にね」
保科の言うこと一つひとつを昼間寝は
まあでも、と仕切り直すように繋ぐと、
「確かに烏取......というかこちらにも非はある、か。いくらなんでも素人には荷が重かったかねぇ」
保科は被っていたパーカーのフードを脱ぐと、髪をフードの外へと露出させた。黄色味を帯びた長髪が宙を舞い、それぞれが意思を持つようになびいた。
昼間寝は数秒の間目を奪われた。フードで遮られた顔が露わになり、思いの外端正な顔つきをしていると気づいたのだ。整った鼻筋や大きく開いた二重の瞳は、完全に外国人のそれであった。
「............ハーフの方、ですか」
「惜しいね、ちょっと違うわ。記号で言えば三角ね、アタシは生粋のアメリカ人。名前は単に目立ちたくないから変えただけよ。『カターリア』って名前を日本ぽくして『
保科は軽快な口調で言う。外国人だと思わせない流暢な話し口は、昼間寝に違和感すら抱かせない。ただし、それはあくまで話し方であって。
『金糸雀は日本ぽい......のか? その辺りの認識の違いはアメリカ人か......』
話の中身には違和感が見え隠れしているようだ。
「さて、自己紹介も終わったし、そろそろ本題に入りましょう。アタシ、のろのろしてるのはあまり好きじゃないの。せっかちなの」
微妙に早口になっているところからも、彼女のせわしなさが如実に表れている。保科は昼間寝の反応を待たず、パーカーの下部分にあるポケットから、長方形の物を取り出し昼間寝に手渡した。
ようやく立ち上がることが出来た昼間寝は、『それ』を見て自分の目を疑った。
「これ......ナイフじゃないですか⁉︎」
危うく落としそうになり、慌てて握り直した。長方形に見えたそれは、収納式のナイフだった。側面にはナイフの刃が収まるスペースが設けられており、銀色に輝くブレードが昼間寝を見上げる。
水色のグリップを見ると色鮮やかな調理器具を想起するが、数分前の保科の行動を鑑みると、どう見積もっても正しい使われ方をされるようには思えない。
「そ、ナイフ。でもそこら辺で売ってるような物じゃなく、完全な特注品。人を殺すための、ね」
「それで、昼間寝君。君には三日という
唖然、呆然。昼間寝は言葉も出せずに立ち尽くしてしまう。喉が干上がり、ちりちりとした感覚に見舞われる。額や腕の毛穴からは気持ちの悪い汗が滲み出、『殺す』という言葉の重みが彼に突きつけられた。
「
突然押しつけられた人を殺すための『凶器』。その『狂気』に明確な
「何か言って下さ」
昼間寝が言い終える前に。彼は後方のブロック塀に激突した。激しい衝突音と共に、ぱらぱらと塀の破片が飛び散り地面に落ちた。
昼間寝を突き飛ばした人物......保科はさっきとは打って変わり、見下すような、あるいは哀れむような視線をブロック塀にもたれかかる昼間寝に向けている。
「お前は烏取から何にも言われてねェのか⁉︎ それとも、言われてンのに聴いてないフリをしてんのか⁉︎ じゃあ何度でも言ってやる、相手は『
吐き捨てるように乱暴にまくし立てると、保科は背を向けた。彼女は既に昼間寝を見ていない。家に戻るのだろうか。
取り残された昼間寝。俯き、ただ無言で地面を見つめている。すると何も言わず、ふらふらと立ち上がると、音も立てずに歩き始めた。体は左右に揺れて不安定だが、足下はそれに同じではない。靴裏を引きずり、音が鳴らないように配慮された歩き方。これらの事が意味するところは。
「ふ......ッ‼︎」
歩く保科とは僅か一メートルにも満たない距離。昼間寝は小さく息を吐くと、駆け出し、一気に保科との間合いを縮めていく。右手には展開されたナイフが握られ、その切っ先を保科へと向けている。
鋭利な刃が保科の体に触れ、そしてその柔らかい肉を裂き......。
「良い奇襲。でも四十点」
昼間寝のナイフは、保科には届いていなかった。触れる瞬間に保科は身を大きくひねって回避したのだ。切る肉を失ったナイフは空を切り、それに引かれるように前のめりになった昼間寝は、片足に重心を傾けてしまう。
その隙を見逃さなかった保科は口元を歪め、重心の置かれた脚を柔道の体落としのようにはらった。支えを無くした昼間寝は転倒してしまう。
「気合いの入った目ェしてんね。鋭くて刃物みたいだ。もしかしてさっき殺すことを嫌がったのは
「別に......。判断と決断が早いだけです。ただ、決断するに至ったきっかけは皮肉にも貴女の言葉ですけどね」
うつ伏せのまま昼間寝は微笑んだ。手からナイフは既に離れ、コンクリートの道路に転がっていた。
「そうかい、実に結構。......タイムリミットは後三日。無事にアタシを殺せるか楽しみにしてるよ」
からからと高笑いをした保科は、喝を入れるために昼間寝の背中をぽんと叩くと、今度こそ自宅へと姿を消した。残された昼間寝は、保科に叩かれた背中が痛みしばらくの間起き上がれずにいたのだった。
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