#3 眠れる未完のアーチスト(1.7万字)
眠れる未完のアーチスト①
一年の四分の一、三月も終わりを迎えようとしている。通りの並木に生えている桜の枝葉では蕾が着きはじめ、更に温かい四月の陽気が来るのを待ちわびていた。
そんな通りを、慌てて走る少年の影が一つ。野球の練習用のユニフォームを身に着けた彼は、練習用具の入ったバックとバットケースを担いだまま、息を切らせて走っていた。
同学年の男子と比べれば長身の部類に入るだろう少年は、周りの通行人にぶつからない程度に気を配りながら駆ける、駆ける。
やがて、彼は街の大通りからは外れた位置にある高校へと到着する。校門で学校の名前を確認すると、彼はそこを通じてさらに奥へと向かう。
その後、彼が辿りついたのは、野球部専用のグラウンドだ。すでに多くの生徒がおり、そこで皆が列をなしてランニングを行なっていた。
それを見て、少年は唇を歪める。
どうやら間に合わなかったようだ。
鉄道の事故でも車の渋滞があったわけでもなく、素で寝すぎたゆえに練習開始に遅れた少年は、冷や汗を流しながら考える。何事も最初は肝心だ。遅刻というミスを犯してしまったが、それを上手くごまかし、或いは最小限の被害に済ませて、グラウンドに入る術はないかと模索する。
そんな時であった。
「おいお前。そこで何突っ立っている」
背後からの声に、少年はドキッと振り返る。いきなり背後から声を掛けられれば誰だってぎょっとするものだろうが、少年はそれ以上の驚きはないものと油断していた。
そのため、少年は仰天する。
彼の背後に立っていたのは、強面のヤクザであった。
(ぎゃあああ! 何で学校にヤクザがぁ?!)
何とか口に出さず、心の中だけの叫びで押さえつつ、しかし上体を思わず反らして一歩引く。
そのオーバーなリアクションに、ヤクザは眉根を寄せる。浅黒い肌にサングラスをかけ、ウインドブレーカーを羽織ったそのヤクザに、少年は蛇に睨まれた蛙のように萎縮する。
そんな反応をどう思ったのか、ヤクザは少年の上下を見渡し、そして軽く立腹した様子で口を開く。
「新入生か。初日から遅れて来るとはいい度胸だな」
「え……あ、はい。すみません」
「まぁいい。とっととスパイク履いてグラウンドに出ろ。あいつらが走り終わったら、自己紹介しろよ。大声でな」
「えっと……あの、貴方は?」
「ん、俺か? 俺はここの野球部の部長、
ヤクザ――もとい森重がそう名乗ると、それを聞いて少年ははっとする。つい見た目でヤクザ、極道の人間、ないし堅気ではないと思ってしまったが、実際は野球部の関係者であるそうだ。
「し、失礼しました。初日から遅刻して――」
「言い訳はいい。とっととグラウンドへ入れ」
謝ろうとするのを遮られた上で命じられ、少年は慌ててグラウンド入りの用意に入った。グラウンド外の荷物置きのスペースへ向かうと、そこでスパイクに履き替えてグローブとバットを取り出し、グラウンドに向かう。
ちょうどその時、グラウンドではランニングを終えた部員たちが、同じくグラウンドに入った森重部長の前に集まり出していた。
「はい、遅刻野郎。さっさと自己紹介。出身中学、名前、希望ポジションの順に」
呼び寄せられた上で部長にそう催促されると、彼が部員たちの前に立たされた。いきなり名乗る様に言われ、少年は少なからず羞恥を覚えるが、惑っていると余計傷口を広げるだろうと考え、すぐに皆の前で背筋を伸ばして口を開く。
「えっと……土谷中学、水引シニアから来ました、
声を張って言うと、数秒の間の後、どこからか拍手が漏れる。その音は伝播し、やがて部員たちは皆拍手を叩いて浩太郎を出迎えてくれた。
その反応に、部長は「よう」と口を開く。
「よかったな。皆歓迎してくれたみたいで」
「は、はい!」
「が、遅刻した罰だ。今からグラウンドの外周を二十周。少しでも歩いたら最初からやり直させるから、きちんと走れ」
「……はい」
部長の冷酷な懲罰に、浩太郎は肩を落とす。その様子に数人が声もなく笑った後、森重が向き直ったのを見て口元を引き締める。
「よし。じゃあ、他の一年生はキャッチボール。塁間の距離で十分やったら次は五十メートル遠投。それも同じだけやって終わったらクイック三十回をこなすように」
「はい!」
示された練習メニューに頷き、部員たちは散っていく。
そんな部員たちとは別に、浩太郎はランニングを開始する。
それが始まると、部長はまたグラウンドを出て何処かへ消えていった。
*
創部は学校創設と同じ五十年前で、県立高校としては珍しく野球部専用のグラウンドがある。そのためか、創立当初から学校は野球部の活動に力を入れさせており、近年はその甲斐あってか、県大会の強豪として知られている。通称、『国公立の雄』といわれ、公立の学校としては一・二位を争う学校だ。
そんな学校とあって、門戸を叩いて入部をする学生は多いが、野球部に入れるのは十数名しかいない推薦入試組と、平均偏差値六三といわれる比較的難関な入試を通過した一般入試組の中から十名前後だ。
それを合わせて二十名前後となるが、実際に最後までこの部活に残る者はこれより若干減る。何故かといえば、入部からしばらくの期間の練習が過酷であり、その練習についていけずに途中脱落する学生が必ず出てくるからだ。
そんな事情がある中、今グラウンドに集まったのは二十数名――そう、勘のいい者は察しただろうが、今年の入部希望者たちだ。他の部と違い、野球部は入学式前に何度か合同練習を行なう通例があり、それに参加しない者は部員としての入部を認めて貰えない様になっている。
ちょうど今日は、先輩たちは練習試合で遠征中ということで、グラウンドを使っての練習であった。
その内容に、遅刻した浩太郎を含めた入部希望者たちは、内心安堵していた。厳しいと聞いていたがこの程度かと、彼らは安心しきっていたのである。
その認識が甘いと分かったのは、練習開始から一時間が経った頃であった。
*
「――おいお前。もう打たんでいいぞ。次の奴に代われ」
練習がフリー打撃、部長自らのトスで行われていたそれに入って少ししたところで、ある部員がそう声を受けた。
一人一人交代で打席に入っている中、四・五人目にバッターに入ったそいつは「え?」と顔をする。
ボール拾いで散らばっていた外野もざわつく中、森重部長はトスを投げる体勢から口を開く。
「お前、推薦組だったな。この冬、どれぐらい素振りを行なってきた?」
詰問に、そいつは黙り込む。それに、部長はサングラスの下の目を鋭く細める。
「どれぐらい振ったか聞いているんだ。答えろ」
「……毎日――」
「嘘つけ。だったら、ボールが飛ぶか以前に、もっと振りに鋭さがあるはずだ。せいぜいここ数日、急いで毎日数十本振った程度だろ」
そう言われ、その部員は固まる。図星だったのだろう。どうしてばれたのかという動揺が、その顔に浮かんでいた。
そんな部員に、森重は言う。
「悪いが、自主練習をごまかすような奴は、ベンチ入りどころかウチの練習についていけない。しばらくボール拾いはやらせてやるから、そのうちにこれからどうするか考えろ」
怒りも憤りも、悲しさも優しさもなく淡々と、部長はそう告げた。その言葉に、部員は見るからにショックを受けた様子で下がっていった。
その様子に、他の部員たちは固まる。まさかこんな形で、退部の勧告を受けられるものとは思っていなかったからだ。衝撃が走る。
そんな部員たちを尻目に、森重は次の打者として控えていた選手を呼ぶ。入ってきた打者は思わず緊張――するのが普通だろうが、彼は平然としていた。
「お前か。お前は冬にどれだけバットを振って来た?」
「一日、三百程度です」
構えながら言うと、それに「ほう」と森重は声を出す。
「じゃあ、それなりにいい打球を飛ばせよ。下手くそだったら、俺でも切れるからな」
「あ、ボール打つのは久々なので、お手柔らかに」
笑いすら溢してその選手が言うと、部長は鼻を鳴らす。こんなに朗らかなのは、きっと前の選手に対し、自分はちゃんと自主練習をしてきた自負があるからなのだろう。
「まぁいい。いくぞ」
そういって、森重がボールをトスする。
直後、小幅なステップを踏むや、バットが消えた。
痛烈な金属音が成り響き、ボールは鋭く内野グラウンド正面へ弾き飛ばされる。その打球は、内野に布陣していた他の部員たちは反応が遅れたこともあって、間隙を縫って外野まで転がっていった。
多くの部員がその打球に驚いていると、森重もその打球を見送ってから、相手を見る。
「ほう。本当みたいだな」
「はい。でも、ちょっと合いませんでした。本当はデカイのを狙ったので」
「ふん。よく舌が回るな。それ」
そう言って、森重は続いてボールをトスする。先ほどよりちょっと高めに放られたそれに、相手は鋭いスイングで応じる。
カキーン、と清々しい音と共に、ボールは高い放物線を描いて外野フェンスまで飛んで行った。
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