#2 とあるバッテリーの約束(1万字)
とあるバッテリーの約束①
「実は、大事な話があるんだ……」
ひどく真面目で思いつめたような口調で、相手はそう口火を切る。場所は、二人が所属して通っている野球のチーム・山代シニアの練習の帰り道で、練習用ユニフォームの恰好で並び歩いている最中であった。
キャッチャーミットをはめたまま歩いている側の少年は、自分より背丈の高い長身の相手へと顔だけ振り向くと、小さく首を傾げる。
「どうした、改まって。好きな子でも出来たか?」
「いや、違う。実は……スカウトされた」
重々しい口調で言う相手に、少年は得心いったように目を細める。そういう話か、と特に驚くこともしなかった。
「へぇ、どこに? アイドルか、それともモデルの事務所にか?」
「違う! もう、ふざけないで聞いてくれよ」
相手の剣幕に、少年は「悪い悪い」と詫びる。言いながら、キャッチャーミットに収めていたボールをお手玉しながら、視線を外す。
「で、どこに?」
「東京の、
「……へぇ。すごいじゃん」
口に出された高校の名に、少年は今度は茶化すことなく素直な感想をつく。
「随分都会の強豪校だよな。それで?」
「うん。そこに、行こうか迷っている。なんでも、特待生で入れてくれるって言ってくれていて」
「お前をスカウトするんだから、当然の話だな」
顎を引いて頷き、少年は言う。
そして、横目で相手に目を戻し、お手玉していたボールをミットにしまうと、揶揄するような笑みで相手を見る。
「けど、お前をスカウトする高校なんて他にもいっぱいあっただろ?
「うん、あった。全部で、二十校以上はあったと思う」
少し照れたような微苦笑を浮かべ、相手は頬を掻く。実際にはもっとあったが、あまり誇る様な事でもないと考えているのか、彼はちょっとした嘘をついた。
もっともそれは、相方の少年に見破られていたのであるが。
「じゃあ訊くが、どうして帝大三高なんだ? 近さから言えば、愛知の私学に行くのが普通だろう?」
「……父さんに、説得されたんだ。これまでに来た学校で選ぶんなら、より成長していい投手になりたいんなら、帝大三高が一番だって」
少し恥ずかしそうに、しかし彼はそう告白する。自分の意思ではなく親の意思、そのことに少し気が引けている様子だったが、訊いた少年に彼は正直に打ち明けてくれた。
「そこの監督やコーチ陣が、今全国で見ても一番投手の育成が上手いって言ってきてさ。ここ十年で、プロになった出身者は六人もいるし、九年前には全国も制している。だから、いいって」
「ふうん。なるほどな。それで――」
親が言った理由を代弁する彼に、少年は数回小さく頷いてから、笑みを消す。
「お前は俺に、なんて言って欲しいんだ? 背中を押して欲しいのか、それとも止めて欲しいのか。ちょっと分からんから、正直に言ってくれ」
俺はエスパーじゃないからな、という少年に、相手は口を噤む。
自分も本心ではその高校へ進みたいと思っていて、しかしいまいち踏ん切りがつかないというのなら、少年はその尻を叩いて後押ししてくれるだろう。
また、実は行きたくないが親に反抗しがたく思って、自分の進学先を考え直すように言ってくれる仲間が欲しいなら、少年は進んでその役目を買うつもりだ。
そんなことが互いに容易に想像出来る中で、少年はあえてどちらかを聞く。
やや間を置いて、長身の相手は言う。
「い、一緒に来ないか? 一緒に、東京へ」
それは、少しだけ想定していなかった言葉だったのだろう。少年は、軽く目を丸めて相手へ振り向き、それから目を瞬かせる。
相手は、意を決した様子で告げる。
「一緒に帝大三高に入って、それでまた全国へ行こう。もう一度、高校でも日本一になろう」
「……なるほど。そうきたか」
目を瞬かせた後で、少年は乾いた笑みを浮かべた。ただ自分の進路を迷っているだけの相談かと思っていたが、どうやらそこまで単純な話ではなかったようだ。相手は、己だけでなくその相方である自分も一緒に同じ高校へ入れないか悩んでいたようだ。そのために、こうして話を切りだしてきたのである。
それに対し、少年は沈黙した。
しばし間を置いて、やがて少年は首を振る。
「悪い。それは無理」
「……どうして?」
「言ってなかったが、俺もスカウトされていてな、別の高校に。その中に、帝大三高はなかった。それと、行くんならここって決めていた高校もある」
「どこだ?」
「愛知の、
そう告白すると、相手はしばらく沈黙する。少し難しい顔で眉間に皺を刻んでいた彼は、やがてその高校に目星をつけると、今度は驚く。
「龍城って……。確かにあそこは強い学校だけど、甲子園出場はまだ果たしたことない場所じゃなかったっけ? それに、まだプロになった人もいないはずじゃ」
「あぁ、そうだよ。でも、俺はあそこに行くってずっと前に決めていたからな」
「い、いつから?」
「……二年ぐらい前かなぁ。いや、もっと最近か。確かあれは――」
そう言って、少年はどうしてその学校へ行くのかという理由を、語り始めた。
*
山代シニアに所属する捕手・
ただ、それはある種当然であった。何せ、中学一年で全国大会の優勝投手になった人間だからだ。それも、ただの偶然ではなくちゃんとした実力で、だ。
彼は唸るような直球と角度のある変化球を駆使し、次々と全国の強打者を三振に仕留める。その上、自分の球が容易に打たれないチームには遊びのボール球は投げず、逆にしつこくくらいついてくるチームには難しいコースをわざと打たせてゴロで済ませるという、少ない球数で相手を倒す投球術と賢さも併せ持っていた。
その圧巻の三振ショーや零封術に、皆はやがて彼をこう呼んだ。
『
沢村栄治という人物は、プロ野球黎明期、世界大戦以前の球界で活躍した投手で、浮き上がる様なストレートと落差の大きいカーブなどで数々のバッターを翻弄した伝説の選手だ。その当時のメジャーリーガー選抜、あのベーブ・ルースなどを擁した米国選抜をわずか一点に抑えた話を筆頭に、数々の伝説を残している。現代のプロ野球では、年間最も優れたピッチングをした投手に贈られる最高の賞・沢村賞があるが、それが彼の名をもじっていることからも、如何に彼が偉大な投手だったかは推し量ることができよう。
そんな投手に、康信の相棒はなぞらえられている。
だが、それは彼が単にすごいからだけではない。
というのも名前が悪い。
きっと彼の親は意識してそう付けたのだろうが、彼の名は全体を見ると瓜二つなのだ。
もったいぶらずにいえば、その少年は名を「
僅か漢字一つ違いのその名は、当然注目を浴び、しかしその注目が飾りではないほどの投手であるのが、康信の相棒の投手であった。
*
その日、栄治は愛知県で行われた野球の大会で、大会記録となる奪三振を記録した。すでに全国を制す快挙を成し遂げた後ということもあって、彼はたくさんの記者や大会関係者によって大会後に囲まれ、矢継ぎ早のインタビューや賞賛を受けていた。
そんな彼に対し、康信は誰の注目も受けることなく、野球用具などの荷物をマイクロバスへ運ぶ雑用をこなしていた。大人気である栄治の相方である康信だが、彼自身が人気であるわけではない。まだ一年である彼は、試合以外の場所では二・三年の先輩からこき使われることが多かった。
余談ながら、二・三年の先輩は当時康信のことをよく思っていなかったらしく、彼にいじめに近い行為を行なっていたこともあった。投手の栄治は認められていたが、何故康信は彼の相方として捕手のレギュラーなのか、ということを納得していない上級生が多くいたのだ。幸い、大事になる前に監督やコーチ陣がその事に気づき、その上級生を即刻追放したことで、事態が深刻になることはなかったこともあった。
そんな事情もあって、康信は上級生がやりたがらない雑用もまめに自分から行なうようにしていた。多くの先輩が試合後の疲れで怠ける中、彼は荷物を移動用のバスまで運ぶ。
自分が身につけるキャッチャー用具一式を運んだ康信は、そろそろ相棒を迎えにいくかと、駐車場からグラウンド方面へ戻ろうとした。
その時である。声が掛かった。
振り返ると、そこには二人の人物がいた。大人の男性だったが、その姿を見て康信は正直ビビッた。
(うわ、ヤクザだ! ヤクザがいる!)
老人の方はともかく、横に立つ壮年の男性はどう見ても堅気の人間とは思えない強面だった。老人が皺の多い顔に、人の良さそうな柔和な表情なのに対し、壮年の男は青と黒のジャージでこそあるが、浅黒く焼けた強面をサングラスで隠した、恐ろしい顔つきをしていた。
康信は、まだ中学一年の少年である。そんな彼が、自分の倍以上は生きているヤクザをみれば、硬直するのは必至。ちびらすまではいかないが、正直怖くて金縛りにあった。
背中が冷や汗で濡れる中、老人が話しかけてきた。
「君だったよね。今日、日村君の球を受けていたキャッチャーは」
「え、あ、はい」
一見優しい声色に、康信は反射的に頷く。その一方で、決して油断してはならないと、気を許してはならないと、康信の本能が警鐘を鳴らす。
やや硬い彼の返答をどう思ったか、老人は続ける。
「そうか。いやぁ実に日村君の三振の数々は素晴らしかった。確か空振りの三振が八個、見逃しの三振が十個だったね。ところで、キャッチャーの君は、その内の十二個目に奪った三振は覚えているかい? 六回の最後に、四者連続三振で奪った三振だけど」
訊ねられ、康信は内心怖がりながらも何でそんなことを聞くのだろうと思う。
「えっと……三球目のアウトコース低めのストレートでしたけど、それが何か?」
戸惑いながら答えると、それを聞いてヤクザの方が「ほう」と少し驚いたような声を出す。
「では、七回の十五個目の三振の決め球は?」
「真ん中低め、ボール球になるドロップカーブです」
「では、その時のバッターの前の打席の初球は?」
「……確か、ど真ん中のストレートです。それに手出ししてこなかったので、三球とも直球で最後は空振りを取らせて三振を取りました」
淀みなくとまではいかなかったが、康信はさらりと答える。
それを聞き、ヤクザが小さく唸る中で、老人は少し得意げに同行人であるヤクザに顔を向けた。
「な? 儂の見た通りじゃろ? 全部記憶した上で、意図して投げさせている。それにこの記憶力。あれだけのキャッチングをしてこの記憶力は、先天的に捕手として必要なもんを備えている。こんなキャッチャー、他におらんよ」
半ば、孫でも自慢しているかのように言うと、老人は康信へ目を戻す。どうやら自分は褒められているようだ、そう悟った康信は、しかし何故そんなことを言ってくるのだろうと疑問を持つ。
そんな彼へ、老人は懐から名刺入れを取り出し、そこから一枚の名刺を差し出してきた。
目を落としてみると、そこにはこう書かれていた。
愛知県立龍城高等学校野球部監督、
顔を上げると、老人はニコッと愛嬌よく笑う。
「いきなりすまんが、儂はこういうもんじゃ。君さえ良ければ、来年うちに来んかい?」
どうやら老人が極道関係ではなく野球関係者だということを理解した康信に、木元はそう誘いの声をかける。それに、康信は戸惑う。
「君なら二年生で、いや、来年からレギュラーになることもできるじゃろうな。どうだ?」
「……僕、中一なんですが?」
「は、中一?!」
康信の言葉に、ヤクザが驚く。その声にびくっと康信が肩を震わす中で、木元も一瞬呆けた後、困ったように笑う。
「ほほう。そうじゃったか。じゃあ、早くてウチに来れるのは三年後じゃな。じゃあ三年後、ウチに来てくれ」
「え、えぇっと……」
老人の勧誘に、康信はようやくこれがスカウトというものであることを悟った。こんな言葉を受けるのは、人生で初めての体験であった。
その後、答えを渋っていると、康信は遠くからコーチに呼ばれた。それを聞いて、木元とヤクザはあっさりと引き下がった。ただ一言、
「また、愛知で試合がある時は見に来よう。その時に、またいい返事をくれ」
そう言葉を残し、彼らは踵を返して行った。
その背を見送った後、康信は手元に残った名刺にじっと目を落とすのだった。
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