橋の下のサウスポー③
その日やって来たのは、康信だけではなかった。
他に数名、彼に案内されながらやってくる高校生たちがいた。以前、信仁の球を嘲笑った連中である。
その来訪に、信仁は驚かなかった。事前に、そろそろあの時お前を馬鹿にした仲間の部員を連れてくると、康信から予告があったからだ。
他方、連れてこられた高校生たちは、少しにやついていた。まだあの少年が壁当てを続けていることを知り、もう一回からかいたくなったのだ。無駄な努力をしている人間を嘲笑いにくるのは非常に醜悪であるが、高校生特有の感傷か、彼らに悪意らしい悪意があるわけではない。
茶化しに来たのだろう高校生たちを前に、康信がミットを持って信仁の前に腰を下ろす。そして、仲間に向けて言った。
「ちょっと誰か、バッターとして立ってみろよ。面白いものが見られるぞ」
その提案に、高校生たちは一瞬きょとんとしたが、その内の一人がにやけながら康信の前へやってきた。そして、バットはないものの実際に構えて見せる。
「ぶつけてくれるなよ? ウチらそろそろ秋の県予選があって、怪我するわけにはいかないんだから」
そう言って構えた彼に、康信は心の裡で、お前はレギュラーどころかベンチ入りも怪しいだろうがとぼやき、ミットを構えた。
その構えた位置に、信仁は少し目を見開き、そして笑いをこらえる。
康信が構えたのは、バッターに近めのコース、内角高めであったからだ。顔まではいかないが、打者の胸の位置まで構えた康信に、その意図が伝わった信仁はゆったりと振りかぶる。
そして、以前より大きく持ち上げた右足を前へ踏み出すと、全身の力を余すことなく振り絞って、投射した。
バックスピンの効いたボールは、唸りを上げてミットまで一直線の軌跡を刻み――
「うおっ!」
ズパンッ。
ボールがミットに収まった瞬間、打席に入っていた高校生は仰け反って大きく後ろへ退いた。
同時に、それを遠目で見ていた高校生たちも目を見張る。彼らが軽く驚いたのは、信仁の球を見たから、ではない。打席に立った仲間が、びっくりして仰け反る様にぎょっとしたのだ。
打席に立っていた高校生は、しばし呆然としていたが、やがて目を尖らせて信仁を見る。
「お前、今わざと――」
「ストライクだぞ」
声を張ろうとした相手に、康信が言う。「は?」と振り向く打者へ、康信はにやにやしている。
「インコース高めいっぱいのボールだ。俺が構えたミットにピンポイントに来たから、球審も九割は手を挙げるはずだ」
そう告げると、康信はボールを信仁に投げ返す。その言葉に、バッターの怒りの矛先は彼へ移る。
「てめぇ、何そんな所へ要求して――」
「で、どうだった? 球速は、およそ見積もって百十キロ台だったはずだが?」
「何言ってやがる! 今のはそんな遅い球じゃ……は?」
怒鳴りかけ、そのバッターは気づく。今の康信の発言、何かがおかしい。思わず仰け反ったのは、そのボールのコースが近かったのもあるが、それ以上に、ボールの圧力に驚いたからだ。
そうでもなければ、高校で野球をやっている人間が、たった百十キロ台の球にびびるなどありえない。
「嘘つけ! 今のボールはそんなに遅いはずが……」
「じゃあ、もう一球行ってみよう。今度は、外角低めに構えるから、仰け反らなくて済むはずだ」
そう言って、康信は言葉通り打者の外角低めに構える。
それを見て、信仁が振りかぶったので、打者は慌てて構える。
信仁は、ゆったりとしたフォームでミットを着けた腕を胸の前へ寄せ、上体を捻りつつ、大きく上げた足とミットを前へと踏み出し、鋭く身体を巻き戻してボールを放った。白球は、綺麗なラインを描くように宙を奔り、ズパンッと康信のミットに収まった。
それを見て、打者は固まる。
「どうだ? きちんと百十キロ台に見えたか?」
「う、嘘つけ! 今の球、絶対百三〇キロ以上はあるぞ!」
打者がそう口走ると、横で見ていた他の高校生たちが、一同に「え?」と怪訝な顔をする。
「何言っているんだ、お前。今の、康信の言う通りの遅い球だろ?」
「な……馬鹿いえ! なら今度はお前立ってみろ!」
そう言うと、渋々横にいた高校生の一人が打者を交代する。そして構えると、康信は真ん中にミットを構えた。
それを見て、信仁はまたボールを放る。
気分のいいミットの音が響く。
「――なっ! 何でいきなりこんなに速くなったんだ?!」
新しく打席に立った高校生は、思わず康信を見てそう抗議する。彼の目から見て、ボールの速度は普段部活で打っているマシンよりもずっと速かった。
「悪いが、そんな速くねぇよ。今のも、百十キロ台だ」
「う、嘘だろ!」
そうだよな、とその打者は背後の仲間たちに同意を求める。だが、仲間たちは皆疑問符を浮かべており、先ほど打席にいた者でさえも首を捻った。
それを見て、その打者は康信を見る。
「ど、どういうことだ? どうしてあいつ、前とはまるで別人の球を放れるようになったんだ? 一体、どんなマジックを使いやがった?!」
「別人になったわけじゃねぇよ。ただ、フォームを改良しただけだよ」
「フォーム?」
復唱すると、康信は頷く。
康信曰く、今の信仁のフォームは、以前よりもゆったりとした始動から鋭い腕の振りで投射するようにしており、またボールの回転数が上がるように足を大きく振り上げるようなものへ変え、そして腕を投げる手前まで身体で隠すようにした――とのことで、それらにより、相手打者を可能な限り幻惑させるような工夫が凝らされてあるとのことだった。緩やかな動きから投げられ、またボールの回転数を上げられ、出所が見えづらい位置をリリースポイントにすることによって、球のスピードを通常よりも速く感じられるようにしたとのことだった。
そのため、横から見ると百十キロ台の遅い球も、正面から向かってこられる打者側からすれば、それより三〇キロ以上も速く感じられるとのことだった。
高校野球で一四〇キロといえば、全国区の高校のエースが投げる球にも等しい球威である。
「球の球速自体はほとんど変わっていない。だが、工夫を凝らして努力し、それを体得した結果、アイツは高校級のボールを手に入れたということだよ」
そう言って、康信は笑いながら信仁にボールを返す。
「一か月前は、確かにアイツの球はへっぽこだった。けど、理論的な練習を反復することで、少なくとも今のお前たちは打ちとれるぐらいの球は習得した。このことから、そうだな、言えることは一つだろう」
ミットを構えた康信に、信仁は投球する。パシンッと良い音が鳴った。
「考えて取り組み続けた努力は、絶対に嘘をつかない。必ずこのボールのように、確かな結果となって現れる。まるで
だから、と康信はそこで仲間たちを見て、笑う。
「お前たちも、人を馬鹿にする暇があるんなら出来る努力をしてみろ。そうすれば、こんな中学生を馬鹿にして悦に浸る必要もなく、実力でベンチ入りぐらいは掴めるはずさ」
康信がそう言うと、仲間の高校生たちは黙り込む。その顔は、羞恥からか少し赤らんでいく。少し気障な言い回しではあったが、実際に以前は見下していた信仁のボールが豹変したのを目の当たりにしたためか、誰も反論を述べることは出来なかった。
その後、大体の仲間は帰途についた。
馬鹿にするつもりが、そんなことも出来なくなるようなものを実際に見せられたことで、誰もが意気を挫かれて茫然となったためだ。
軽い衝撃を受けただろう彼らが今後どうなるかは、康信にすれば少し楽しみなことでもある。
そんな中で、橋の下には信仁と康信、それに部員の中の一人だけが残っていた。
「すごいな。本当に、一四〇キロぐらいのボールに見える」
打席の位置に立ちながら、その部員はそう感想を漏らす。「だろう?」と相槌を返し、康信は信仁にボールを返した。
彼らのやりとりを聞いて、信仁はかなりいい気分になっていた。以前は自分を馬鹿にした奴らが、ショックを受けて帰っていく様を見るのは、なかなかに機嫌がよかった。
「なぁ康信。こいつ、やっぱりうちの高校にスカウトするのか?」
「勿論。じゃなければ、練習帰りに何度も丁寧にアドバイスはしないだろう?」
それもそうか、と部活仲間は納得する。
「ところで、アンタたちの高校って強いのか? まだどこなのか聞いてなかったけど」
すっかり忘れていた基本的なことを思い出した様子で、信仁が尋ねる。その問いに、何で今まで聞いてなかったんだ、と相手が呆れるが、康信も笑ってごまかす。
「県立
「……えっ、龍城?!」
聞かされた名前に、信仁はぎょっとした。
龍城高校とは、県の地区ではかなりの強豪として知られている学校だ。県内には、『私学四強』と言われる四つの私立高校を筆頭に、いくつもの強豪の高校が鎬(しのぎ)を削っている。龍城高校は、その中でも『国公立の雄』と呼ばれる学校で、ここ五年だけで、夏の大会で二度の準優勝を果たしている学校であった。
まさか、そんな有名の高校の部員とは思っていなかった様子に、康信は笑う。
「あぁ、龍城だ。ちなみに俺は正捕手候補で、
そう言って、康信は捕手としての姿勢から立ち上がった。
「前もいったが、うちには今投手が不足している。この前、ようやく俺らの学年で一人投手に転向したが、俺たちの代ではちゃんとしたエース投手がいない。だから、お前を成長させてウチのエース候補に仕立て上げようという企みもあって、ここには足しげく通っていたんだ」
打算、下心を正直に語ると、康信はキャッチャーミットをバックにしまう。
「で、どうだ? ウチに来る気はないか?」
「……正直に、言った方がいいよな?」
「あぁ」
「正直、戸惑っている。そんな強豪校だとは思っていなかったから。けど、興味はある」
「そうか」
信仁のあまり芳しくない返答に、しかし康信は微笑んだ。
「ま、強制はしないよ。ただ、うちの学校に来た方が、その後も野球をする上で良い経験になると思う。プロになった人はいないが、大体ウチの出身の選手は、大学や社会人でも活躍している人が多くいる。それに、来年か再来年には、プロになれる人が出るかもしれない」
「そうなんだ……」
「あぁ。現エースと主将が、そのつもりで毎日練習しているからな。きっといい刺激になると思う」
ミットをしまったバックを肩から掛け、康信はなおも口説く。
「まぁ、出来るだけ早めに決めておくといいさ。うちの学校、進学校でもあるから、一般入試で入るのが厳しいかもしれないからな。入るなら、学校から推薦を貰っておくのが確実だ。勉強が苦手ならな」
少し笑みを含みながら康信に言われ、ぐっと信仁は喉を詰まらせる。その反応に、康信と和弘は笑った。
「じゃあまたな。ただ、しばらくは俺たちも県大会が始まるから来れなくなると思う。今度会う時は、ウチの新入部員として会えることになるのを願っているよ」
そう言って、康信は背を向ける。帰途に着くその背に、和弘もついていく。
「――あ、あの!」
その背を、信仁は呼び止める。
「ありがとう、ございました。この恩は、必ず返すから!」
「……あぁ、楽しみにしているよ」
少し照れ気味に言う信仁に、康信は笑い返す。
そして、しばらくとなるだろう別れを告げて、橋の下から去っていくのだった。
*
その半年後。
県立龍城高校野球部を、頭を丸刈りにした新入生たちが門戸を叩く。
そのうちの一人の左腕投手が、やがてとある捕手とのバッテリーで全国を驚かすことになるのが、それはまた別の話――
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