橋の下のサウスポー②
初めて康信と信仁が会話してから一週間経った頃、再び康信は橋の下へやってきた。
黙々と壁当てを続けていた信仁だったが、彼の姿に気づくと動きを止め、相手を出迎えた。
「よう。フォームは安定したか?」
「いや、まだしっくりきてない。けど、前よりは少し速くなった気がする」
「そうか。じゃあ、実際に受けてやる」
そう言うと、康信はミットを取り出して信仁の前で構える。大きく開いたミットを見て、信仁はそこめがけてボールを思いきり投げ込んだ。
「……うん。あまり変わってないな」
ボールを受けてから、康信は微笑みながらそう言った。その言葉に、信仁はややむっとする。以前に比べて球の質が変わっていると思っていた自分からすれば、その言葉は少しイラつくし悔しい。
「いや、別にお前を貶しているわけじゃねぇよ。たった一週間で、変われる方がおかしいだろ?」
ボールを投げ返し、康信はさっきより少し右側にミットを構える。それを見て、信仁が今度こそと思って球を投げ込む。綺麗なスピンをかけたボールは、小気味よい音でミットに収まった。
「それに、フォームを少し改良したのに球の質が変わらないってことは、むしろ成長していることでもある。慣れないフォームで依然通りの球を投げれているってことだから、時間が経てばもっといいボールを放れるようになるだろうってことだからな」
そう言って、康信は十球近くボールを受けると、グラブを外して自分のバックを取りに戻る。そしてそこから、色のついたビニール袋を取り出して持って来た。
「今日はな、お前に渡しておきたいものがあってな。ほら」
康信が差し出してきたものを、信仁は受け取り、中身をみる。ビニール袋の中に入っていたのは、いくつかの本と一枚のDVDであった。
「これは?」
「ピッチングの基本についての本や、トレーニングの仕方の本だ。あとは、お前が参考にしたら面白いと思う昔のプロ野球選手についてのビデオだな。家に帰ってからでいいから、一回見てみるといい」
そう言うと、じゃあ俺は今日はこれから用事があるから、と言って康信はその場を立ち去ろうとする。その背を、信仁は慌てて呼び止めた。
「ん? どうした?」
「なんで、ここまでしてくれるんだ? 頼んでいないし、赤の他人に等しい俺にこんなものまで用意してくれるなんて……」
戸惑い気味に訊くと、あぁなるほどと言って、康信は頭を掻く。短く刈られた頭を指先でひっかきながら、康信は言う。
「なぁに、ちょっとした下心と興味だよ。前もいったが、お前の球は変わっている。遅いがスピンの効いたいい球放るし、あと何気なくコントロールもいい。俺が構えたミットに、ほとんど外れることなく吸い込まれてくるし。こういうピッチャーが、後は球速と球のキレを増してウチの高校へ来てくれたら、頼もしいなと思っているだけだ」
そんな打算があることを明かし、康信は信仁を見る。
「今、ウチの野球部は投手が不足しているんだ。先輩に二人いるだけで、来年以降のエース候補がいない。あ、でも一人俺の学年のキャッチャーが投手に転向するかもって話が出ているから、そいつが来年の夏からエースになるかもしれないけどな」
そんなわけで、信仁にその気があるならば、自分の高校の野球部に入って欲しいと思っているという。もっとも、そのためにはもっといい投手の状態で、というのが前提ではあるが。
「俺を、野球部のエースに?」
うん、と康信は頷く。
「ただ、今のままでは前みたいに周りに笑われるだけだろうからな。入ってくる頃には、むしろ周りを唸らせる奴になってほしいんだよ」
少し微笑みながら語ると、そういうわけだと康信は視線を外す。
「そうじゃないと、それぐらいになってもらわないと全国には、甲子園まではいけないだろうからな」
少し照れくさそうに言われて、信仁は驚く。
高校野球で甲子園といえば、ほぼすべての球児が憧れる夢舞台だ。そこへ、目の前の青年も行きたいと思っているらしい。
そしてそれ以上に、自分にそれほどの期待を込めてくれているとは思っていなかった。甲子園に向かうのはかなり厳しい道程であるが、自分にそのための戦力となってもらいたいとまで思っているのは想像していなかった。
何故、自分にそこまで期待してくれるのだろうか、信仁は気になる。
「別に深い理由や確信はないさ。ただ、勝手に夢見ているだけだ。多くの人間が想定しなかった投手を擁して、それをリードして全国区の奴らに勝つのは、きっと楽しいだろうな、ってな」
微かに耳を赤くしてそう語り、康信は視線を戻す。
「さっき渡した資料をよく読んでおいてくれ。特にDVD。これは参考にしておいた方がいい。球速が遅くても、プロの強打者を翻弄し続けた投手が実際にいたことを証明する映像だから」
そう言って、康信は今日のところはこの場を去っていった。
それを見送ってから、信仁はいつもボールを当てている壁を見る。
「俺を、甲子園に行くためのエースに、か」
とんでもない夢・野望だなと、正直思う。
だが悪い気はしない。小学校・中学校と野球をまともにやれていなかった自分が、康信のいるチームを牽引する投手になる――そう考えると、少年の心としては当然ワクワクしてくるものだ。
大きく振りかぶり、信仁はボールを壁に当てる。綺麗なスピンが効いた球が跳ね返ってくるのを見ながら、信仁は思わず笑みを溢すのだった。
*
それから、毎週のように康信は橋の下にやってきた。彼は信仁の投げっぷりを観察したり、時折実際に受けてボールの感触を確かめながら、信仁に何かとアドバイスを送り続けた。
それを信仁は従順に聞き、修正や実践に取り組んだ。みるみるとまではいかなかったが、しかし少しずつ、少しずつと信仁は自分の投げるボールに自信を持つようになっていった。
ちょうど世間は夏休みに入っていたが、毎朝夕、信仁はボールを投げ続けた。
そして、それから約一ヶ月、夏休みは終わろうとしていた。
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