ダイヤモンド・マギカ

嘉月青史

#1 橋の下のサウスポー(1.2万字)

橋の下のサウスポー①

 パコン、パコン――と小気味の良い音が響いてくるのを聞き、通学途中であった高校生・岡崎康信おかざきやすのぶは自転車を止めた。

 川沿いの道路を進んでいた彼は、橋の下の壁にボールをぶつける少年の姿を捕える。大きく両手を振りかぶった後に、左腕から投げられる硬式のボールは、パコンと音を立てて壁から跳ね返った。


(あいつ、今日もやっているのか)


 通学途中、いつも通る場所である橋の下で、その少年は毎日壁当てを行なっている。康信が高校に通うようになって三カ月が経とうとしているが、朝夕の登下校時、その少年の姿はほぼ毎日確認できた。

 何者だろうか、と康信は思いつつ、ペダルを漕いで進み始める。急がねば、授業前の練習に遅れてしまう。ゆえに、康信は今日も目撃した少年を意識外に追いやって、高校へ向かう。


 ただ、依然と聞こえてくる壁当ての音に、康信はどうしてこのような人目のない所で毎日それを行なっているのか、やはり気に掛けるのだった。




「お前、どこの学生だ?」


 康信が好奇心に負けてその少年に声を掛けたのは、まもなく七月も終わろうとしていた夏休みの夕刻だった。橋の下にいた少年は、突然現れて声をかけてきた康信に相当びっくりしたようだ。そう、である。少年を見にやって来たのは、康信だけでなく彼の部活仲間たちもであった。

 事の次第は、康信が何気なく毎日橋の下で壁当てをしている少年のことが気になると部室で漏らしたところ、部活仲間たちも興味を示したことにあった。同年代っぽい少年が、その齢になって壁当てなどという一人遊びをしていることが気にかかり、じゃあ皆で会って正体を掴もう、という話になったのである。


 高校生数名がいきなり薄暗い橋の下にやって来たことに、少年はだいぶ緊張と怯えを見せていた。だが、康信が「別に危害を加える気はない」また「俺たち不良じゃないから、カツアゲでもない」などと説明して一定距離を置いた上で話を進めたところ、少年側も多少なり警戒を解いた様子だった。


 やがていろいろ訊いてみると、いろいろな事実が判明した。

 まず、少年は名を岩野信仁いわののぶひとといい、康信たちの一学年下、中学三年生であるということだった。またここで壁当てを行なっているのは、高校に進学したら野球部に入ってピッチャーをしたいからであり、そのための練習を行なっているとのことだった。


「ん? どうして壁当てなんだ? 野球したいなら、近くのクラブチームに入ってやればいいじゃないか? それが駄目なら、部活だって……」


 康信の仲間の部員がそう疑問をぶつける。この近くの地域には、中学生を対象としたシニアリーグという野球クラブがいくつもあり、そこで野球に打ち込んで高校へ進学する人間は少なくない。また中学校の多くには、軟式ではあるが野球部も大体あるはずだ。野球をしたいのであれば、こんな場所で毎日壁当てをしなくてもいいのではと、少なからず不思議だった。

 それに対し、信仁は答える。自分の家は、あまり裕福とは言える家庭ではないために、シニアリーグに入るだけの余裕はないとのこと、また中学校にも野球部はなく、亜種でソフトボール部ならあるが、自分がやりたいのはあくまで野球であるために、部活には所属していないということだった。


 それを聞いて、康信たちは納得する。同時に、彼らは興味を抱いた。事情から野球活動が出来ずに、一人で坦々と壁当てで投球練習を続けている少年の実力がどれほどのものか、気になり知りたくなった。


「ちょっと投げるところを見せてみろよ。俺らも野球部だから、いろいろと教えられるかもしれないぞ?」


 そう言われると、信仁は少し躊躇ったが、早よ早よと急かされ、渋々壁から一定距離を置いた位置に立った。距離はおよそ二十メートル、野球での投手の投球位置から捕手の捕球位置までと等しい距離である。

 数人に注目される中で、信仁は振りかぶり、ボールを放る。

 それを見て、康信の仲間たちは瞠目した。



 信仁が投げたボールのスピードが、あまりにも遅かったからである。



 あまりの遅さに、壁から跳ね返ってきたボールを拾う少年の前で、高校生たちは失笑した。


「おいおい。まさか、今のが全力じゃないよな?」

「嘘だろお前? 今の球、百キロ台じゃねぇか? 小学生ジュニアリーグのピッチャーでももう少し速い球放れる奴いるぞ」


 そう言ってくすくす笑う高校生たちに、信仁は気づいてむっとする。


「何がおかしい?」

「おかしいって……お前、今みたいな球のくせに高校で投手やるつもりなのか? 無理無理。絶対に無理だって!」

「打撃投手ならできるだろうけど、試合で放る投手としては遅すぎるって。万年一回戦落ちの弱小校でも、二番手以下だって」


 そう言って、高校生たちは信仁を嘲笑う。

 それを聞き、信仁はカッとなる。ボールを握ったまま、肩を振るわし、頬を僅かに朱に染めて、高校生らを睨みつける。

 そんな彼の剣幕に畏れも抱かぬまま、高校の野球部員たちは康信を見た。


「なぁ康信。お前もそう思うよな?」

「お前ら、笑うんならもう帰れ」


 求められた同意に対し、康信は呆れた様子でそう言うと、自身の抱えていたバックの中を探りながら、仲間たちを見る。その言葉に周りがきょとんとする中で、康信はバックの中からキャッチャー用ミットを取り出した。


「俺はお前らにこいつを嗤ってもらいたくて、こいつのことを教えたわけじゃねぇんだ。嗤い者にしたいならもう充分だろ。とっとと帰れ」

「いいけど、お前はどうするんだ?」


 ミットを取り出した康信を見て、仲間の一人がそう訊くと、康信は鼻を鳴らす。


「もう少しこいつと話してから帰る。ちょっと確かめたいことがあるからな」

 そう答えると、その仲間は「分かった」と言って他の高校生たちと共にその場を撤収していく。彼らの多くは康信の態度に何やら不満げな様子だったが、別段文句をその場で口にすることなくこの場から去っていった。


「――悪いな。アイツらに悪気はないんだ。ただ、馬鹿なんだ」


 仲間がいなくなって、信仁と二人きりになってから、康信はそう詫びる。


「お詫びに……というには少しふてぶてしいが、提案がある。俺が受けてやるから、投げ込んでくれないか?」


 その提案に、信仁はいまだ憤懣が拭えない様子で相手を見る。康信はミットを叩きながら微笑む。


「実際に誰かにボールを受けてもらったことはないだろ。壁と人のグラブじゃ、的も違う具合に見えるもんだ。一回試しに投げてみるのはどうだ?」

「……分かった。投げてやる」


 不承不承といった様子で、信仁は了解する。その態度に康信は微苦笑を浮かべると、いつも信仁が的にしている辺りの、橋の壁際に腰を下ろす。

 中腰よりさらに低く腰を下ろし、康信はミットを構える。それを見て、信仁は反射的に目を丸める。キャッチャーミットは、大体大きさ二十センチ程度の大きさのもののはずだ。だが、康信が構えるグローブは、何故かそれより五センチも十センチも大きく見えた。


「ほら、来いよ」


 康信が催促すると、信仁はいつもの位置に戻る。

 そして、大きく両手を振り上げて、モーションを経て、ボールを投げ込んだ。


 ――バシンッ。


 僅かに動かされたミットに収まったボールは、そう爽やかな音を立てた。

 その瞬間、信仁は背筋にぞっと何かが走った。怖気、寒気ではない。それとは違う、何かだった。

 一方で、康信は笑う。


「力んでいるぞ。そう速いボールを投げ込む必要はないんだから、もっといつもの感じで投げ込んでくれ」

「いつもの感じ?」


 信仁が問うと、「あぁ」と相槌を打って康信はボールを投げ返す。


「いつも毎日壁に当てている時は、もっとボールを長く持っているだろ? 的に向かってへの正確さを念頭に、ボールに掛ける回転を意識して投げてみろ」


 そう言われ、信仁は驚いた。相手の指摘のうち、半分ほどは普段から意識してやっていることだったからだ。ボールを長く持つようにして腕を振り、ボールにスピンをかけて投球するように――それが、普段から自分が気を付けていることだったのである。

 言われた通りのことに気を付けながら、信仁は振りかぶる。


 ――パシンッ。


 ボールは、上下左右に微動だにしないミットの中に収まった。それを受け康信は口角を持ち上げる。


「なんだ。やっぱり良いボール投げるじゃないか」


 そう言って、康信は笑いながらボールを投げ返す。そのボールは、信仁の胸元に吸い込まれるように投射され、鈍い音と共にミットへ収まる。


「それは、当てつけか? 俺のボールは遅いって、言っていた癖に」

「それは、俺の仲間がだろう。俺は言っていない」


 あっけらかんと康信が言うと、それもそうだったと信仁は思う。


「じゃあ、実際は速いと?」

「いいや、クソ遅い。小学生のピッチャーの方が速いかもしれん」


 しれっと正直にそう感想を述べると、信仁は青筋を立てる。そんな彼を笑いながら、康信は続ける。


「だが、ボールの軌道はまともじゃない。たぶん、さっきの奴らがバッターに立ったら、皆最初はびっくりするだろうな?」

「は? どういう意味だよ?」

「ボールの回転数が凄いんだろうな。ボールを投げた時の初速と、ミットに収まるまでの終速の差が極めて少ないんだ。そのため、こちらに届くボールは、とんでもなく伸びて見える」

「……何が言いたいんだ?」

「要するに、ボールが横目から見た球速以上に速く見えるってことだ。実際には百十キロに満たないボールだが、打席やキャッチャーの位置では、それよりも五キロから十キロは速く見えるということだよ」


 これは凄いことなんだぞ、と康信は言う。

 普通、投手の球は投げる瞬間が一番早く、そこから徐々に減速しながら捕手に向かっていく。だが、信仁の球はそんな常識とは違い、ほとんど減速することなく、むしろ加速しているかのごとく捕手に向かってくるというのだ。康信はこれを、ボールに綺麗なスピンが掛かっているゆえの揚力によるものだろうと説明するが、知識の浅い信仁にはそのことは上手く理解できなかった。

 その事を伝えると、康信はむしろそれに驚いたようだった。


「なんだ。じゃあお前は、無意識のボールの握りで、これだけのスピンが効いたボールを投げ込めていたのか?」

「あ……いや。ボールの握りは流石に知っている。縫い目に四カ所指を掛けるっていう、確か、4シームって握りだったと思う」

「誰に習った?」

「……漫画で読んだ」

「………………」


 唖然、ないし愕然と康信は固まる。そしてその後、流石に失笑する。


「マジかよ……。そこまで素人だとは、思ってなかったわ」

「し、素人で悪かったな」

「いや、いいさ。通りで、投球フォームが滅茶苦茶なわけだ」


 そう言うと、康信は立ち上がって信仁に歩み寄っていく。


「はっきりとわかりやすく言うと、今のお前のフォームは酷い。身体の半分も、有効活用できていないな。簡単に言えば、上体の力だけでボールを投げている」


 そう言いながら、康信は相手に投球フォームを真似て見せる。そして、具体的に指導を始めた。

 ……綿密にそのアドバイスを記すと冗長になるので省くが、要略すると、下半身の動き、投げ始めから投げ終わるまでの足のステップの幅や体重移動の仕方、その基本といえる論理を彼は伝える。それを、信仁は全く新鮮な様子で聞き、実際に身体を動かして実践してみた。


「すごく、投げにくいんだけど……」

「それは最初だけだ。慣れれば、というか習得すれば、そっちの方が球速は安定するし、ボールに伝わる力も大きくなる」


 やや戸惑った様子で語る信仁に、康信はそう言いくるめる。

 それから、康信は実際にボールを壁に投げ込ませながら、信仁に三十分ほど指導を続けた。


「ま、最初はこんなもんだろう。あとは、練習の繰り返しだけだな」


 そう言うと、康信は投げ出したままだった己のバックを抱える。


「また今度、時間がある時にいろいろ教えてやるよ。その時までに、今俺の言ったアドバイスを忘れるなよ」

「また、来るのか?」


 少し驚いた様子の信仁に、康信は微笑する。不満か、と聞くと信仁は首を振る。彼としては、自分に付きっきりで指導をしてくれる康信が奇妙に思えたのだ。

 その事を伝えると、あぁなるほどと康信は頷く。


「今日、俺が連れてきた仲間たちがいただろう?」

「うん。いた」

「ちょっくら、あいつらを黙らせたくてな。今度また連れてきて、その時に奴らを驚かしてやりたいのさ」


 そう言う康信の横顔に、信仁は妙な感慨を覚える。まるで、自分のことのような、自分が馬鹿にされたようで許せないという印象に見えたからだ。

 その後、康信は帰途に就いたが、信仁は彼が帰った後も、壁当てを続けた。

 不思議と、その後投げ込んだ球は、普段よりも球質がキレているように思えた。

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