朝おん!!

愛 絵魚

朝おん!!

 朝起きたら俺は女になっていた。


 いや、違う。


 事実としてはそうなのだろうが、俺はそんなにすぐには気が付かなかった。

 目が覚めていつものようにトイレへ行って小便器――うちのトイレにはあるのだ――の前に立ち、危険水位にあるダムの放水ゲートを固めつつ部屋着兼寝巻きのスウェットの前を下ろしてトランクスに手を突っ込んだら、その手が空を切ったのだ。

 そこで初めておかしいと思った。


 他人様ひとさまに自慢できるほどの逸品ではないだろうが、いくらなんでも摘めないほどお粗末でもなかったはずだ。

 スウェットごとトランクスをびよんと持ち上げて見下ろすと、いつもは一応見えていたはずのモノが見えない。

 改めて手をやってみるが、やはりそこにはソレもナニもない。

 代わりにアレのタニがある。

 念のために言うが風の谷ではない。


「なんじゃこりゃ」


 思わず上げた声がいつもより高い気もしたが今はそれどころではなかった。

 事態は逼迫しているのだ。

 決壊させるわけにはいかないので急いで洋式の方に移動して座って用を足すことにした。

 ホースが無くなっていて狙いが付けられないのが不安ではあったが、座っていれば氾濫するようなことはないだろう。


 なんとか無事に済ませ、いつもならちょっと振って終わりにするところだが振り回すべきモノがないので仕方なく紙で拭く。

 毎度これではトイレットペーパーが早々に無くなりそうだ。

 買い足しておかないと。

 危機回避に成功した安堵の中、俺の頭に一番に浮かんだのはそんなことだった。


 人心地ついた俺はようやく異常事態であると思い至った。

 トイレの隣にある脱衣所兼洗面所に飛び込んで洗面台の鏡を覗き込む。

 しばらく散髪をサボったせいで伸び気味の髪の下から見返してくる顔はいつもと変わらない。


 いや、ちょっと違うな。

 口元の感じが違う。

 よく見ると三日ほど剃っていなかったはずの無精ヒゲが無い。

 手を当てて鼻の下やらあごやらを撫で回してみるとやはりヒゲは無くなっていてすべすべしている。


 そのまま手を首へ下ろしてみると、元からそれほど目立っていたわけではないがそれでも確かにあったはずの喉仏も無くなっていた。

 そこを撫でている手も自分の記憶よりはやや小さくて細い。

 やはりどうも女になっているらしい。

 改めて鏡に映る自分の顔を眺めてみたが、ヒゲや喉みたいな細かい変化はあるもののどう見ても俺だ。

 元々そんなに男っぽい顔付きでもなかったのだが特に女っぽくなった風にも見えなかった。


 男の平均よりやや低く女の平均よりやや高かった身長も変わらず。

 ん? 肩幅はちょっと狭くなってるのか?

 スウェットの肩が少し落ちている。

 体型は変わっているということだろうか?

 壁際まで下がってみるとなんとか膝辺りまで鏡に映り込んだ。

 ああ、やっぱり肩幅は狭く腰の幅は広くなっているみたいだ。

 同じくらいの幅だったはずなのに今は若干腰の方が広い。

 まあ、よく見れば分かるというくらいの差だ。


 プロポーションも変わったんだろうかと思ったものの、ダブッとしたスウェットの上下を着込んでいるのでは分かるはずもない。

 俺はTシャツごと上を脱いだ。


「……あんまり変わらんな」


 鏡に映る上半身裸の自分の姿は、正直言って記憶の中のそれと間違い探しレベルの差しかなかった。

 ウエストにくびれができているように見えなくもないが、いかんせん腹回りには――極厚とまでは行かないものの――肉の装甲が付いている。

 くびれなのか段差なのか誤差の範囲だ。


 胸――バストと呼ぶべきなのか――も大きさは特に変わったようには見えない。

 こっちも元々、これAカップくらいはあるんじゃないの? というサイズ、いや肉付きだったからだ。

 唯一明らかに変わったように見えるのが胸の先で、これは二回りほど大きくなっている。

 感覚の方はというとこれも、敏感になったような気がしないでもない、くらいの変化だ。

 元からの女だってノーブラにTシャツくらいはやるはずだが、その度によがりまくったりはしないだろう。


 服を着直した俺は部屋に戻って考える。

 何でこんなことになったのか。

 ネット通販でまとめ買いしたサプリに変な物でも入っていたか。

 昨日やって来た新興宗教の勧誘員が変な呪文を唱えていったからか。

 それとも昨夜ゆうべ寝る前に読んだ性転換TS物ネット小説に出てきた神様とやらの夢を見たせいか。


 小説自体は面白かったが自分が性転換したいなどと思ったわけではないんだけどなあ、などと考えていると腹がぐうと鳴った。

 女になったからといっても肉体のリズムは変わらないものらしい。

 下へ何か食べに行こう。


 半ば引きこもりみたいな生活になってはいるが俺は引きこもりではないから外食にも行くし、寝巻きのまま外出するほどズボラでもない。

 とりあえず着替えることにする。

 それもまずはパンツからだ。

 どこへとは言わないがさっきから時々トランクスの縫い目が食い込んでどうにも気持ちが悪い。


 スウェットの下を脱ぎ捨てるとスネ毛がほぼ無くなっているのにも気が付いたがとりあえずパンツが先だ。

 トランクス派に転向する前に買って新品のまま残っていたブリーフに穿き替えると気持ち悪さは治まった。

 ブリ-フ万歳だ。

 ただ、身体の幅が変わった影響か腰回りがピチピチだった。

 トランクスはゆったり目だったので気にならなかったのだが。


 ……ということは、ちょっと待て。


 嫌な予感に苛まれながら試してみると、案の定昨夜スウェットに着替えるまで穿いていたジーンズが入らなかった。

 尻がパツンパツンでファスナーが上がらない。

 やはり腰回りが数センチは大きくなっているようだ。

 男か女か以前に社会の窓全開で出掛ける露出性癖は持ち合わせていない。

 パツパツジーンズを何とか尻から剥がして、ピチピチブリーフ丸出しのまま俺は穿けるズボンを探した。


 クローゼットをかき回した結果、一応入るのはさっきまで穿いていたスウェット以外にはウエストにアジャスターの付いた黒い略礼服のスラックスだけしかなかった。

 ジーンズもスーツ系もサイズがきちんと合っていたやつが全滅だ。

 もうちょっとスマートだった頃の物は言わずもがな。

 食事のついでに何かまともな物を買ってこないといかんな。

 これ、元に戻らなかったら着る物だけでえらい出費になるぞ、おい。


 他に選択肢が無いので黒スラックスに足を通す。

 結婚式や葬式に行く訳ではないので上はブルーのワイシャツでいいだろう。

 他のを合わせるのも変だろうと略礼服の上を羽織り、ちょっと思いついて黒のボルサリーノをザザッとブラシを入れた頭に載せる。

 これで黒タイを締めてあごヒゲがあればルパンの相棒みたいだ。

 いや、体型から言えば介といったところか。


 財布やら何やらを握って玄関に向かう。

 靴下を履いた時にそのかかとが足首の後ろまで上がってきたので足も小さくなっていることには気が付いていたが、やはりというか当然というか靴もブカブカだった。

 一歩ごとにガポガポいうのもイヤなので別の靴下を丸めてつま先に詰め込んでやる。

 おお、これでなんとかなりそうだ。


 マンションの部屋を出てエレベーターで一階に下りる。

 ここの一階は全部店でそこに入っている喫茶店はいつもの馴染みだ。

 週の半分以上はここで朝メシを食べている。

 ドアを押し開けるとカランコロンとベルが鳴った。


「いらっしゃい」

「モーニング、まだやってます?」

「ギリギリだね。ところでその声どうしたんだね。風邪か何か引いたかい?」

「あー、なんかそんな感じです。他には熱も何も無いんですけど」


 ナニも無いんです、とは頭の中でだけ付け加えた。


「気をつけなよ。一人暮らしなんだから」

「はい、ありがとうございます」


 やはり声もちょっと変わっているらしい。

 何故か女将おかみさんと呼ばれている店長に突っ込まれてしまった。

 でも、さすがの女将さんもまさか女になってるとは思わなかったようだ。

 毎日のように顔を合わせている彼女がこれならこのまま買物に出ても大丈夫だろう。


 厚切りトーストとサラダ、スープ、ゆで卵という定番のモーニングにコーヒーはいつものサントス。

 うん、普通に腹に収まった。

 胃の最大サイズは靴の大きさだという話を聞いた覚えがあったので食べきれるかどうかが心配だったんだが、この程度の量なら大丈夫なようだ。


 店を出た俺は普段はあまり行かないショッピングモールへと向かうことにした。

 あそこならいつもとサイズの違う服や靴を買っていてもそれに気が付く店員もいないだろう。


 買うのはもちろん全部メンズだ。

 ランジェリーコーナーに突入して「ええ、自分が穿くんです。細かいサイズ? いえ分かりません。え、測るんですか?」なんてやっている自分は想像したくない。

 それ以前に通報モノだ。

 立場が逆だったら絶対通報する。

 とりあえず要るのはピチピチでないパンツとちゃんと穿けるジーンズかスラックス、それに靴と靴下だ。

 試着して、合うやつの裾上げだけしてもらえば十分だろう。


 結局、服や靴や食い物なんかを買い集めて家に戻るまでに、俺が女であると気付いた者は誰一人としていなかった。

 顔見知りにも何人かと出くわしたが、せいぜい「太った?」とか「風邪引いた?」とか言われる程度だった。

 まあ、知り合いの性別が変化したかどうか、なんて普通は考えないよな。

 むしろ、服装に対する突っ込みの方が多かった。

 ほぼ全員が「何かのイベント?」とか「何のコスプレ?」とか聞いてきやがる。

 そりゃいつもはほとんどジーンズだけどさ。


 部屋で黒スラックスを脱いで買ってきたジーンズに穿き替えながら、俺は後何をしておくべきかと考えた。

 それが済んだら仕事とやりかけのゲームの続きだな。


 ◇


 数日経ったが俺は相変わらず女のままだ。

 原因も元に戻る方法も今のところ分からない。


 あの後、法律関係の仕事に就いている友人に連絡を入れて事務所を訪ねた。

 ひとしきり世間話をした後、実はと本題を切り出したら「いつモロッコへ行った」などと言いやがった。

 いつも何も月に何度か一緒に飲んでるだろうが。

 そんな間がどこにある。

 そう言ってやったらああそうかと頷いた。

 ともあれ、法的な対応は奴に頼んだ。

 今の俺が本人ではないとかいうことにされたらえらいことだからだ。


 ただ奴が言うには、最近は手術だなんだで見た目が変わることも割とあるので、ナニが無くなったくらいでいきなり別人だということにはなかなかならないらしい。

 他に「本物の俺」が現れたり、俺がニセモノだという訴えでも起きれば別だが、そうでなければ書類と判子を握っている者がそのまま本人ということになるそうだ。


 その書類をどうするかについては、いきなりそうなったのならいきなり戻る可能性もあるということで、当面様子見ということになった。

 信用できる医者とやらへ連れて行かれて診察も受けたが、年齢相応の女であるという診断をもらっただけだった。

 肥満気味ですから摂生しましょう?

 分かってるよそんなことは。


 結論。


 一人暮らしの男やもめがそのまま女になっても特に変わることはない。

 トイレは男性用の個室に入って行っても誰にも見咎められないし、風呂は自宅で入るからこれまで通り。

 そのうち生理やらが来るようならわずらわしそうだが、ネットで情報も用品も仕入れられるからよほど重いとかでなければ慣れてしまえばそんなに困ることもないだろう。

 ああ、このままもっと歳取ったら更年期障害とか来るのか。

 それはイヤだな。


 でもまあ、今までの暮らしと何が変わるわけでもないだろう。

 基本自宅でできる今の仕事で生活費プラスアルファくらいを稼ぎ出して、あとは好きなことをして過ごすだけだ。

 美少女になってモテまくるっていう話を読んだが、それも「ただし、元がイケメンに限る」ってやつだろう。

 男の姿で女に縁が無かったものが性別だけ女になったからってモテるはずもないし、そもそも男にモテても嬉しくない。


 ああ、そうそう。

 ひとつだけ良いことがあった。


 オナニー。

 これだけは女の身体の方が絶対気持ちいい。

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