第5話

4年前、父が亡くなった。

わたしが生まれた時には7人家族だった実家は、姉たちが嫁ぎ、祖父が亡くなり、祖母が亡くなり、そしてわたしが嫁ぎ、長い間両親ふたりの生活だった。

それがとうとう、母ひとりきりになってしまった。

7人でもゆとりのありすぎた家は、たった一人で暮すにはあまりに広い。

わたしは自分の住む街に、母を呼び寄せようと声をかけた。

しかし母はやわらかく、それでもキッパリとその提案を断った。

高齢になってから住まいを変えるのは、それだけで負担なのだろう。

その代わり、なるべく足繁く母の元に通う。

幼少の頃の苦い記憶は消えることは無いが、自分にも子が生まれ、大人の事情というものも多少なりとも理解できた。

時折昔のように頑なな一面を見せるものの、母は年をとってずいぶん丸い人間になったように思う。

そしてわたしも、母に言いたいことを言えるほどの図太さを身に着けた。

最近になって自身の歳と健康を考えたのか、彼女は少しずつ家の中を整理し始めた。

実家を訪ねるたびに、仕舞い込んでいた服、使わない食器とわたしの前に差し出しては、欲しいものが無いかと尋ねてくる。

都度わたしは、それらをより分けながら家に持ち帰っていた。

或る日、母は丁寧に細工されたジュエリーボックスを部屋の奥から持ち出してきた。


「これは大事にしているものだけど、欲しいものがあったらあげるわ。お母さん、そういうのを着けて出かけることももう無いから」


それはコスメボックスのように上部が開閉式の蓋になっていて、手前から持ち上げると蓋の裏面は鏡になっている。

中には色とりどりの宝石を使った指輪や、カメオのブローチ、プラチナのイヤリングなど、いかにも高価なジュエリーが几帳面に整理されて並んでいた。

その開閉部の下には2段の引き出しがあり、上段を引き出すと、素人目にもクオリティの高さを窺わせるネックレスが10本ほど、やはり乱れぬ姿で顔を出す。

母らしいな……と思いながら、下段の引き出しを何気なく引いた。

そこには封筒の束と、見覚えのある包装紙が入っていた。

途端に私の胸に、針で刺したような痛みが走る。


「コレは……」


わたしの声に、母は目を逸らしながら歌うようにつぶやいた。


「下の段の引出しのものは、ダメよ」


わたしはその引き出しの中を凝視した。

包装紙は何度も何度も包みなおされた形跡があり、その中にあのハンカチがあるのだろう。

わたしは声が震えてしまうのを悟られないよう、ゆっくりと息を吸った。


「コレ、憶えてるよ」


目を逸らしていた母が、昔と同じようにバツが悪そうにチラッとこっちを見た。


「もったいなくて、ね」


ぶっきらぼうにつぶやいて、再び目を逸らす。

母は、使わなかったのではない。

使えなかったのだ。

鼻の奥がツーンと痛くなって、涙が一気にせりあがってくるのを感じる。


「泣くこと、ないでしょう?バカな子ね」


母は小さく鼻を鳴らし、わたしの頭にそっと手を伸ばした。

わたしは頭に慣れない温もりを感じながら、考えあぐねていた今年の母の日のプレゼントを決める。

もう一度ハンカチを贈ろう。

あの時と同じく、花をあしらったピンクのハンカチ。

今ならもう、もったいなくても使ってね、なんて冗談っぽく言えそうだ。

きっと母はやっぱり苦い顔をしながら、それでも使ってくれるだろう。

そうしたら、わたしの中に根付いている寂しさも。


そのハンカチがほんの少し、拭い去ってくれるに違いない、から。

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花のハンカチ 積田 夕 @taro1999

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