地獄はいつでも地下にある

 ……もっと早めにやっておけばよかった。


 心に後悔を抱えながらも、ルルーは黙々と関節を曲げ伸ばしする。


 これはストレッチと言うらしい。激しく運動する前に筋肉をほぐして温めて、動かしやすく、それから怪我しにくくするのにやるらしい。


 だけどそうじゃなくて、今みたいに、狭い所に閉じ込められてて、ずっと動かないでいると筋や関節が固まってしまうから、そうならないように定期的にやるべきことだった。


 これも、ねえ様に教わったことだ。


 離れ離れになって、ご主人様に気に入られる術を覚えて、そしてオセロと出会って、すっかり忘れて、やってこなかった。


 だから、ねえ様の言ってた通り筋も関節も固まってて、ただ曲げ伸ばしするだけでも痛い。


 だから、それを一つ一つ、時間をかけてほぐしてゆく。


 手の指、手首、肘に肩、動かせるようになった手で今度は足の指、足首に脹脛、膝を曲げて伸ばして、楽になったら股関節、腰に背骨に、首までやったらまた初めから、何度も何度も繰り返す。


 凍り付いてた体が、動くようになってゆく。


 試しに立ち上がって、自分の足で歩く。


 ……大丈夫、歩ける。


 ふらついて、流石に走れなさそうだけど、歩ける。


 移動は、これでいい。


 後は、視界だ。


 いっぱい殴られた左の顔を触る。


 走る痛み、熱く熱をもって腫れている。


 酷い顔になってるだろうと自覚はある。だけどそれ以上に、腫れたせいで左目がうまく開かない。


 視野が半分、距離感も掴みにくい。


 だから壁に手を触れてないと、真っすぐ進めない。


 ここでなら、室内とか廊下とかならこれでいいかもしれなけれど、逃げて外に出るならこれじゃあ足手まといだ。


 少しでも腫れが引かないか、冷たい石の壁に顔を付ける。


 ひんやりとした硬い感触が気持ちいい。


 と、ドアが開く音がした。


 希望をもって顔を向けたルルーが見たのは、見慣れてしまった絶望だった。


 ……パチンコは、無言で、険しい表情で、大股で、ルルーの元まで歩いてくると、その横腹を蹴り飛ばした。


 痛みと衝撃、蹴り飛ばされて、部屋の一番奥の壁に激突して、落ちて転がって、嗚咽と共に息もできない。


 いつもの、と呼べるほど頻繁に受けている暴力、だけどもなれることはできない。


 痛みと息苦しさに涙が溢れる。


 そこへまた歩き近づくパチンコ、冷たい視線、なのに上半身に掘られた骨の入れ墨たちが高らかに笑っているように見える。


 まるで恐怖の象徴、それが傍に立つと、大きく右の足を上げた。


 パチンコが靴の裏を向けたのはルルーの顔、ではなくて、そこからゆっくりと動いて、足までいってピタリと止まった。


 一呼吸に満たない動作に、ルルーは悟った。


 逃げ足を、潰される。


 膝でも踝でも、踏み砕かれたら生涯歩けなくなる。そうなった人たちを何人も見てきたし、される瞬間も、何度も見てきた。


 それをされたら、逃げられない。


 止める、そのための言葉、必死に考えるルルー、これまでの経験、ねえ様の教え、それらを総動員しても、目の前に立つ悪魔に通じる言葉が、思いつかなかった。


 …………だがその足はルルーを踏まず、代わりに体を半回転して、振り返った先へを伸ばし、意思の床を踏みつけた。


 合わせて右の腕が入ってきた扉の方へと向けられる。


 その手はナイフを掴んでいた。


 ……まるで空中から突如として現れたかのように握られたナイフに、ルルーは見覚えがあった。


 契約した朝、オセロから渡された銀の刃、切っ先は欠けちゃっているけど、間違いなかった。


 投げられたナイフ、投げられた方向、ドアへ、ルルーが見れば、そこにはオセロがいた。


「よぉ」


 左手をこちらに向けて、頭には額当てもなく、汗だくで、血もついているオセロ、小さく笑って、だけど目は泣きそうで、なのに変わってないかのように、そう言ったように、ルルーには見えた。


 ……ただ、ルルーの胸にあるのは希望よりも今しがたの絶望だった。


 オセロが投げたナイフ、それをさも当然のようにとらえたパチンコの技を、ルルーは以前に見たことがあった。


 そしてその時のオセロと同じ構えを、パチンコはしていた。


 ナイフを捕らえた態勢がすでに投げる態勢、そこから投げ返す一連の動作、あの時とは投げ槍とナイフとの違いはあれでも、神速の反射に違いない。


 ここまですべてを思い浮かべる前に、反射は終わってた。


 辛うじて目に映るのは銀の軌道、まっすぐオセロの胸に伸びてる残像だけだった。


 対して、オセロの左手が跳ねた。


 体に巻き付くように胸を横切り、肩から後ろへ、跳んだ五本の指が飛来してきた銀のナイフをつかみ取る。


 投擲を捕らえる反応速度、それに加えて捕らえた姿はまた、反射の態勢だった。


 止まる刹那も飛ばしてナイフは投擲され返される。


 改めて迫る銀の軌道に、パチンコは別の、黒の軌道で応じた。


 腰より引き抜かれた黒い刀身の刀、一閃が、銀の刃を煌きに粉砕した。


 飛び散ったナイフの刃が体の上を超え、壁に当たって撒かれて落ちて、それからやっとルルーは反応できた。防衛本能から目を瞑り、腕で顔を覆い、体を丸める。


 もはやルルーには見届けることすら敵わない領域での戦い……そこへ、ルルーを放り込んだのは、パチンコだった。


 ……右の二の腕への違和感、熱くざらついた何か、新たな違和感が体に満ちて、腕をどかして視線を広げれば、ルルーの体は、パチンコに捕まれ持ち上げられていた。


 その視線はあくまでルルーを見ていない。だが歯を見せて笑う表情に、何をするのかは嫌でもわかった。


 覚悟し息を飲むその前に、ルルーの体は投げられていた。


 軌道、高さ、速度、狙い、何もかもわからないまま宙を飛ぶ。


 回転する体、どうしていいかもわからず体をこわばらせて、それでも見える視界から状況を理解しようとする。


 ……そして見えたのは、オセロの顔、そして振り下ろされた右の拳だった。


 ▼


 考えうる限り最善で、最悪の攻撃に、オセロは食いしばる。


 こちらへ刀の切っ先を向けたまま、僅かに膝を曲げる動作、そこから左手を背後に伸ばすとほぼ同時に、パチンコはルルーの二の腕を掴んでいた。


 そこから持ち上げ、ぶん投げるまで、オセロにできることは何もなかった。


 丸めた小さな体が飛ぶ軌道はまっすぐオセロへ、顔面へと昇り上がる軌道だった。


 だがその前にパチンコは、パチンコなら動く。


 経験だが本能だが、とにかく読み取ったオセロは前へと駆けだしていた。


 それに示し合わせたかのように、パチンコもまた間へと駆けだしている。


 ……同時に、腕を畳んで引き絞られる右腕と、黒刀の切っ先、刺し狙う先はルルーを超えた先のオセロだった。


 投擲物の陰より迫り、壊してくらわす奇襲は、アンドモアの最後の方で習った技だった。


 オセロはこれを財布でやるのに対し、パチンコはルルーでやらかそうとしていた。


 最悪の攻撃、だがオセロは瞬時に最善を選び抜いた。


 最優先、ルルーの身柄、守るため、切っ先の軌道よりルルーをどかす。


 握った拳でルルーを叩き落し、空いた空間に穿たれた黒刀の切っ先へ、左手逆手で抜刀した同じく黒刃のナイフで弾いて受けた。


 それた切っ先が額をかすめ、そこから斬り下ろす流れへ、触れ合う刃、鳴る金属音、立ち上る異臭、激突の足はすでに止り、二人は刀とナイフを挟み、鍔ぜり合う。


 鼻息のかかる距離で二人、目が合う。


 「「よぉ」」


 合わさる一声、至近距離、水面に向き合うようにオセロとパチンコ……言葉を続けたのはオセロだった。


 「……相変わらず、お前の乳首ピンクだな」


 自然と出てきたセリフは練習のたまもの、パチンコの性格を考え、研究し、割り出した挑発の言葉だった。


 冷静さを奪う。


 らしくない悪意に満ちた心理攻撃……だが揺らいだのはオセロの方だった。


 それだけ、パチンコの涙はインパクトがあった。





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