白犬の王子様
犬は、ルルーの目の前で変態に変態した。
そうだ変態という言葉は、変身という意味もあった、と思い出し、だから何だと思いなおしても、ルルーはその場から動けなかった。
犬から変身した変態は、夕焼けの中でもわかるほど黒い髪を襟足だっけ? 首筋のところだけを伸ばして、残りは短くそろえていた。
破けた、というか脱ぎ捨てた毛皮は腰回りだけに残ってるだけで、むき出しの白い背中は、オセロには負けてるけど、それでも歴戦の戦士を思わせる数多くの筋肉と傷跡と、それを覆う黒いうぶ毛が生えてあった。
「下がっていたまえレイディ」
そう言って振り返ったその顔は、くどかった。
縦に長い顔、太い黒眉、長いマツゲ、つぶらな黒い瞳、右には涙ホクロ、左の頬には切り傷の跡、シュッとした鼻に、ぶ厚くプルプルで光沢のある唇、口周りと割れた顎には青い髭剃り跡、更にちらりと見えた胸毛もモジャモジャしてる。
人の顔の個性を盛れるだけ盛った、といった印象の顔だった。
「出たな糞王子」
男三人の内、鉈の男が苦々しく言う。
対して、糞王子と呼ばれたくどい顔は胸を張って堂々と言い返す。
「何度も訂正させるな。私は、コロン・クリムポ・ハウメア。呼ぶならコロン王子と呼ぶのだ」
コロン、と名乗ったこの王子は、本物かどうかはさておいて、ルルーの中の王子様へのイメージを一瞬にして不可逆的に書き換えた。
「ほざけ!」
叫んだのは大皿の男、同時にその手の大皿を投げつけてきた。
大皿は、ルルーの顔を覆い隠せるほど大きく、厚みもあって重そうで、そんなのが回転しながら地面に水平にまっすぐコロンへと飛び向かう。
対してコロンは避けず、代わりにルルーからは隠れて見えない股間から何かを引き抜き一閃、振り上げた。
その一動作だけで大皿は砕け、弾け飛ぶ。
舞い散る破片の中をなおも旋回し、クルリと巡って破片を散らし、脇の下に挟まって止まったそれは、短い鎖で繋がれた棒と棒、ヌンチャクと呼ばれる武器だった。
遠心力に乗せ、テクニカルに振り回し、相手の頬を叩いて魅せる、一部では熱狂的な愛好家のある武器だ。だが所詮はおもちゃの類だと、ルルーは勝手に思っていた。
だがしかし、このコロンという男には、その動きには、オセロに通じる凄みがあった。間違いなくこの男は、強い。
……少なくとも、オセロなら笑って戦いたがるぐらいの実力者だろうと、思ってしまった。
そのコロンが動く。
ヌンチャクを持たない左手で自分の股間のあたりを弄り回すと、破ける音とともに、あの犬の頭が引き千切られた。ブラリとしたその顔は、あからさまに生きてはいないが、それでも直視は辛かった。
それに対して怯むことなく正面に進み出たのはワインボトル、大股で近寄ると同時に手のワインボトルを逆さに中身を口に含んだ。
そして噴出……の前に顔面へ、コロンは今しがた破り取った犬の頭をワインボトル顔面へと投げつけた。
吹きかけられた飛沫を防ぎながらも顔面へ直撃し落下した犬の頭は、地面に落ちると白い煙を上げて溶け始めた。
毒、酸、危険物、いかなる物質化は知らないけれど、犬の頭は溶けて形を失ってゆく。
こんな危険なもの、吹きかけられれば一たまりもなく、当然ながら口に含めば大変なことになる。
……ワインボトルの男は大変なことになっていた。
口と鼻から毛皮と同じ白い煙を噴き出して、その煙でよく見えないのに、顔が溶けてるとわかる。
それでもなお平然と近寄りワインボトルを振り上げようとするワインボトルの男へ、踏み込んだコロンのヌンチャクが真上より叩きつける。その一撃でようやく男は地に伏せた。
痛みを感じてないかのような敵に、それを平然と叩き伏せるコロン、当然のような至当にルルーは介入する余地などなかった。
「であえであえ! 糞王子だ!」
鉈の男が叫び、鉈をかざすと背後から更なる増援が湧いて出た。
彼らは、コロンも含めて誰一人、ワインボトルの煙に何もリアクションを示さなかった。
「レイディ!」
コロンがこちらを見ずに叫ぶ。
「私でもこの数は少々手こずる! 先に逃げてくれたまえ!」
そう言い左を指さす。
「そこを抜けて曲がって、レイディから見たなら右側をまっすぐ行けば村から出られる! 止まらず麦畑を抜ければ森だ! そこまで行けばこいつらは追ってこない! 行け! 決して振り返るな!」
……このコロンが敵か味方かは別にしても、ここに居続けるのは得策ではない。息も整った。走れる。逃げれる。
ルルーは、一瞬の心残りを唾と一緒に飲み込んで、立ち上がりコロンの指示したルートで逃げ出した。
……言われた通り、ルルーは一度も振り返らなかった。
▼
言われた通りに走り抜けたら言われた通りに森へとたどり着いた。
高く、太く、真っすぐな木々の間は広くて、根元には草も生えずに土がむき出しで、夕暮れなのに明るく、走りやすいけど隠れるところの少ない森だった。
昔、ここが無法地帯になる前に、定期的に材木を伐採できるよう、一種類だけの木を植えて作った森があるとかいう話をどこかで聞いた覚えがある。なんでもその材木になる木にだけ栄養が偏るように魔法がかかっていて、他の植物が生えてこないのだとかいう話だ。たぶん、ここはその中の一つなのだろう。
そんなことを考えながら走れる程度には、ルルーに余裕もできた。
複雑な気持ちだけど、コロンが言ってたとおり麦畑を抜けたあたりからはもう追手の声は聞こえなくなっていた。
だから安心、とまではならないけれど、自分のペースを保って走れた。
それでも、疲れるものは疲れるわけで、だから木々が途切れて開けた原っぱに出たところで、ルルーは足を止めて大きな木に背もたれ、腰を下ろした。
ため息のように息をついて、ルルーは目を閉じる。
やるべきこと、考えるべきこと、沢山ある。
これからのこと、追手のこと、コロンのこと、オセロのこと……脳裏に浮かんでも、浮かんだだけで、答えを得ようという努力さえできない。
膝を抱え、頭を抱え、座り込んだルルーを襲うのは疲労と安堵からくる睡魔だった。
読書という頭を使った後の体を使った逃亡、空腹も喉の渇きもあるけれど、何よりも頭も体も疲れて、瞼が重かった。
この状況で眠るのはまずい、と考えてもすぐさま、眠れるうちに眠っておくべきだ、と思い浮かんで、それとこれとがせめぎ合う内に、睡魔が勝る。
トロン、と意識が混濁したルルー、だけどもそれでも、ガサリという音に飛び起きた。
立ち上がる姿勢だけで止まり、目を開け視線を音の方へ、森の奥の方へと向ける。
そして思い出す。このデフォルトランドには、獰猛な猛獣が跋扈しているのだ。それも、蛮族どもが行う狩りという虐殺から生き延び、むしろ逆に餌とするような、選りすぐりが、日夜餌を求めている。
人の血を覚えた獣は逆に炎で寄って来るんだ、とオセロは言っていた。
それで、その通りに寄ってきた獣を狩り、その日の食事に変えるのが、いつものオセロだった。
そして今は、そのオセロもいない。逃げる体力も、隠れる場所もない。良い知恵も出てきやしない。
それでも必死に考えて、きっとあの銀麦のせいでちゃんとした獣は寄り付かないでしょ、なんて楽観的な考えが出て、だけどちゃんとしてない獣が現れる可能性が思いついて、どうしようもなくなって、ルルーは息をひそめてじっとしているしかできることがなかった。
……音は、森の奥からこちらへとゆっくりと、確実に近づいてきていた。
枝の折れる音、それも大きく、聞いただけで太い枝が折れたとわかる。
それだけ大きく、力強く、何よりも音を立てても困らない存在……ルルーの想像力は途方もなく巨大な熊を描き出した。
しかし、実際に現れたのは、それを超える怪物だった。
赤い剛毛の生えた太い腕に太い足、オセロでさえも比べれても頭二つ分以上はあろう背丈、体には茶色い何かの毛皮を巻き付け、右手には片手斧、左手には灯りの灯ったランタン、そしてその頭は二本の角の生えた牛のものが二つだった。
……つまりは、現れたのは双頭の大ミノタウロスだった。
その、左右合わせて四つの瞳が、ルルーを見下ろしていた。
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