逃げる一人逃げる
「罪人! 罪人! 色白金髪の幼女! 罪人! 罪人!」
よく通る女の声が夕暮れから夕闇に変わる直前の村に響く。
その声を背後に聴きながら、ルルーは走り続けていた。
村にはまだ人影があった。あそこで鍋に並んでいたのが全員だと思っていたが、そうではないらしい。
だが、あそこにいなかったというだけで、彼らは彼らと同じだった。
女の叫び声を聞き、ルルーを見た彼らもまた同じような表情で、ルルーを捕らえようと動き出す。
その不気味なほどの連帯感、切り替わりは、悪夢としかルルーには形容できなかった。
これが悪夢なら、目覚めればお終い。だけど現実だから走るしかない。
ルルーは走りながら頭を振り、余計な考えを振り落とす。
先ず逃げる事、それだけを考えよう。
だが道などわからない。どこが安全かも、どこまで行けば逃げ切れたのかも判断できない。
ただ闇雲に、とにかく村の外へ出ようと走り続ける。
その足は、重い。それはルルーが一人だから、オセロがいないからだった。
未練、という初めての感情をルルーは振り払い、それでも走り続ける。
正面、向かう先から人の声、慌てて十字路を右へと曲がる。
と、男と目が合った。
白髪で、メガネをかけた男で、丁度自分の家らしい建物からドアを開けて出てくるところのようだった。
「早く!」
男が言う。
「こっち! 早く入りなさい!」
その言葉に、ルルーの足は止まった。
迷いは一瞬、だけどその通じる言葉に、ルルーは信じた。
男が奥へ引っ込み、半開きとなったドアへと向かった。向かうしかなかった。
▼
パスコンは数学者だ。
商家の三男として産まれた彼は、幼少から数学に没頭していた。
その非凡な才能と努力と情熱と、それらを育み育てる環境にも恵まれ、パスコンは人生の半分以上を数学に捧げることができた。
天才、と呼ばれた彼がその中で取り組み続けたのは『十二鉄球問題』というものだった。
これは一定数以上の鉄球を最も効率的に収納するには、どの球にも十二個接触するようにすればよい、という仮説を証明することだった。
その証明には他にも多くの数学者が挑み、三百年以上かかっても未だに解けない難問に、パスコンは日夜取り組み続けた。
何もかもが足りなかった。
時間も、頭脳も、閃きも、足りないなかで一番足りてなかったのは、指だった。
難問は難問らしく、扱う数字の桁数は計り知れない。とてもじゃないが両手と足の指を合わせた程度ではひっ算にも届かない。
だから彼はここで指を集めていた。
……他のことなどどうでもよくなっていた。
▼
疲労と慌ててたのともあって、ルルーはドアの目前でこけた。
こけて、つまずいて、それでも転ばぬよう踏みとどまって、伸ばした手はドアノブに届かなかった。
おかげで助かった。
宙を掻いたルルーの細く白い指の上を、黒く武骨で鳥の嘴のようなハサミが空を切った。
その位置は、ドアノブのすぐ前、もしも手が届いていたならば指が伸びていた位置だった。
危なく、指を切り落とされるところだった。その事実にルルーは足を崩してわざと転げた。
膝、脇、肘、その他体の前全部を地べたにぶつけ、痛みに涙ぐみながら見上げれば、そこにはわずかに開いた隙から飛び出てきたハサミを持つ腕、その持ち主は陰に隠れた、あの招き入れようとしていた男がいた。
その顔は静かで、無表情で、追いかけてきてる連中とおんなじだった。
「別にかまわんだろ?」
男が言う。
「磔になれば腐り落ちるか、鳥に食われるかのどちらかだろう? ならここで切り落とせば有効利用できる。そうだろう?」
ルルーは何も答えなかった。
答えるまでもなくこの男は危険で、敵で、逃げ出すべきだった。
なのでルルーは擦り傷のできた膝を立てて立ち上がると、迷わずそうした。
……それでも、追ってくるかと振り返り確認する勇気はなかった。
▼
逃げる。
ここには敵しかいない。
逃げる。
ここには味方はいない。
逃げる。
ここには、オセロもいなかった。
ルルーは走りながら、涙ぐんでいたい。
怖い、のもある。痛い、のもある。だけど一番は、情けない、だった。
ルルーはここを忘れていた、と後悔する。
それはオセロに守られてたのもあるし、ご主人様たちに守らせてたのもあった。
言葉と演技と情報と、それと背中、それがルルーの全ての力で、それでうまく立ち回れてこれた。
だけど、それは、本来はこの無法地帯で通じない力だった。
そんな当たり前のことを、ルルーは忘れていて、そして思い出していた。
思い出しながら走って、また転んで、息が切れて、嗚咽して……ルルーはもう走れないと悟った。
涙と一緒に袖でよだれを拭う。
見ればその袖もどこかに引っ掛けたのか破けていた。スカートも泥だらけで、膝の血に滲んでいて、ボロボロで、酷いことになっていた。
それどころじゃない、と思って立ち上がっても、もう走れない。
それでも何とか、壁に手を突きながら立ち上がる。
足が震えているのは疲労か、恐怖か、絶望か、判断する余裕すらなかった。
と、音がした。
ガバリと見れば、そこにいたのは、あの犬だった。
白い、毛の長い、モッフモフの、大きな犬が、道の向こうからのそりとやって来た。その足取りは怪我なのか、老いているからなのか、たどたどしくて、ルルーの手の届く距離まで来るのにじれったいぐらいだった。
……ルルーは犬から逃げなかった。
単純に、逃げられないのも確かにあったけど、それ以上に、この吠えも追いもしない犬が味方であって欲しいと願った。すがった。
だから逃げないで、そっと手を伸ばしたのだった。
「いたぞ!」
その手を引っ込めさせたのは背後からの声、振り返れば男が三人、鉈とワインボトルと車輪を持って迫っていた。
逃げなきゃ、と思っても足が動かない。
ドンドン来る男三人、その目に、恐怖に、ルルーはまたも涙が溢れた。
絶望、恐怖、心の奥底で願うのは、颯爽と現れるオセロの姿……だけど代わりに、男らとルルーとの間に立ちふさがったのは、あの白くて大きな犬だった。
追い詰められていたルルーは、単純にその行為を嬉しい、と感じた。だけど頭がついてくると、それは違うと思いなおした。
立ち向かうように進み出たその姿に、だけども男らは止まらない。
つまりこれは、犠牲が倍になっただけなのだ。
逃げて、と叫ぶべきだとルルーはわかっている。
自分のために他人が、それが犬であっても、犠牲になることは正しいことではない。少なくともルルーがオセロに話してきた物語では、そうだった。
だからこの犬だけでも逃がすべきだとわかっていて……なのにそれができなかった。
理由ならいくらでも思いつける。だけどそれは結局は自己保身のためで、ただ今の自分が楽するためで、何も建設的ではなくて、ただのわがままだとわかっていて、悪いことだと知っていた。
あぁそうだ、とルルーは思い出す。
自分はこういうずるい存在なのだ。
結局自分で何かをしようとは考えられずに、オセロや、目の前の犬に助けてもらおうと思っている。そういうずるいのが、自分だった。
内から沸き起こる嫌なこと全部は目の前に迫る嫌なこと全部と同じぐらいに、ルルーを苦しめていた。
「こんな幼いレイディ相手によってたかってとは、関心しないなぁ」
その声は男の声だった。
場所は、ルルーのすぐそば、目の前から、つまりは、犬からだった。
唐突な人の言葉にルルーは混乱する。
犬って、話せたっけ?
疑問に仮説を立てる前に、犬が動いた。
ただそれは歩いたのでもなく吠えるのでもなく、その四つ足が支える背中が、不自然に盛り上がったのだ。
そして裂けた。
同時に体が捻じ曲がり、首が大きく揺さぶられ、元々太かった前足と後ろ足が更に膨らんで、先ではなく付け根から裂けた。
そうして盛り上がり、震えて立ち上がると、それは人の姿となった。
「安心しなさいレイディ。私はあなたの、いや、正義の味方だ」
新手の変態の登場だった。
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