赤色に一人

 ここは、ルルーにとって夢のような場所だった。


 デフォルトランドで本は燃やすか、踏むか、お尻を拭くぐらいしか使われていない。


 そんな本がこんなにもたくさん、それも『読む』という真っ当な使い方のために並べられていた。


 その一冊を引っ張り出して、開いて見る。


 それは字の大きな、簡単な単語と言い回しで書かれている、子供向けに書かれた児童書だった。


 子供のための本、本のための空間、それはデフォルトランドの外では普通でも、内では奇跡に等しい存在だった。


 思わずルルーはオセロを見る。


 オセロは、大きく頷いて見せてくれた。


 そしたらもう、ルルーは自分を抑えられなくなった。


 夢中で本を選び、取り出す。


 この感じは、久しぶりだった。最後にこうなったのは、確かオセロと出会った日以来だ。この服を選んで、組み合わせて、着て見た時とおんなじか、それ以上に興奮していた。


 そして積み重ねた本を机に乗せる。


 これからどれだけ、ここにいられるのかはわからないけど、許されるギリギリまで読み続けるつもりだった。


 椅子に座り、姿勢を正し、読書に没頭する、その前にルルーはオセロを見た。


 オセロもまた、近くの椅子に座って、大きな本を広げているところだった。


 その表紙には動物図鑑と書かれている。


 図鑑なら、絵も多いし、動物ならオセロも知ってる。なら一人でも楽しめるだろう。


 なら、と、気兼ねをなくし、ルルーは読書を開始した。


 ▼


 ルルーが読書を止めたのは、今の本を読み終わったからではなくて、読み続けることができなくなったからだった。


 頭を上げたルルーが見たのは、真っ赤な部屋だった。


 外、太陽、唯一の光源が沈みかけ、赤い夕日になっている。


 その中で部屋には一人、ルルーだけだった。


 それは幻想的な感じがして、まるで夢の中の一瞬のようにも感じられ、現実味なんかなかったけれど、それでもそれは一瞬だけだった。


 オセロはどこ?


 動物図鑑が置かれている。


 開いたページを下にして、読んだところまでがわかるようにして、そう置くと背表紙が痛むからダメなのに、そうやって置かれていた。


 置いたのはオセロだろう。そしてまた戻ってくるつもりだったのだろう。すぐだか声もかけなかったんだろう。もう戻ってくるだろう。


 ……いくらルルーが自分に言い聞かせても、不安は抑えられなかった。


 そんな部屋の中に入ってくる人影が一つ、期待を持って見れば、そいつは期待を裏切った。


「あぁこんな所にいらっしゃったんですね」


 赤い中でもわかる笑顔でモメはルルーの正面、机の反対側までやってきた。


「夕食の準備が整いましたよ。さ、冷める前に行きましょう」


 でも、とルルーが口にする前にモメが続けた。


「オセロさんも先にお待ちですよ」


 ▼


 失敗した。ルルーは奥歯を噛み締めながら先行くモメの後に続いていた。


 これは明らかにルルーのミスだった。読書に夢中になりすぎて、オセロがいなくなって、それに気が付かなくて、そしてこうなっている。


 失敗した。せめて別れるならどこでどう合流するか、どこで待っていればいいのか……いやそれ以前に単独行動になったのが失敗だったのだ。できる限り側にいるべきだった。


 後悔と反省の中、ルルーはそれでも最善をとろうとしていた。


 現状、このモメは平和的に接してくれている。しかしそれでも朝の一撃をルルーは忘れていない。


 ならば、取るべきは逆らわないこと、従うことだった。


 こうしていることで安全を確保しつつ、オセロが来てくれるのを待つ、最善策だと思われる。


「……なんだって?」


「はい?」


 考えを中断されつつも咄嗟に出たルルーの返事に、モメは繰り返した。


「君は、毎晩オセロさんにお話を聞かせてあげてるんだって?」


 この一言にルルーの頭は一瞬凍りついた。


 お話、のことはそんな大事なことではないとは思う。少なくとも必至になって隠すような事柄ではない、とは分かっている。だからといって、そんな風聴して回るようなことでもない、とも考えている。


 ……いや、ルルーとしては、オセロにしているお話は、神聖なことであって、だから二人きりの秘密にしておきたかった。


 ましてや、今日出会ったばかりの人になんて、言わないで欲しかった。


「こちらです」


 そう案内されたのは、学び舎の裏にあるもう一つの建物だった。


 こっちもかなり大きくて、なのに窓も出入り口も少なくて、入ってみると中は壁のないだだっ広い空間が広がっていた。三階分ほどの高さなのに上の階は無いようで、天井がすごく高かった。


 床は板張りで、何のためだか白や赤の線が塗られていて、その上にはたくさんの机が並べてあった。机の上にはいくつものランプが灯っていて、普通に明るくなっていた。


 そして、その間をたくさんの人が静かに並んでいた。


 向かって右側、壁にそって、手には木の盆を持って、何人もの人々が、押すことも話すことも争うこともなくただ黙って、順番を待っている。


 中には見覚えのある人もいる。あの麦のお茶を運んできた男も並んでいる。


 彼らは一様に列の先、一番奥を見つめていた。


 そこにあるのは、ドワーフらしき男が中身をかき混ぜている、大きな鍋だった。


 流石に火にはかけられてないけれど、それでもモクモクと白い湯気が上がっていた。


 ドワーフは不器用なのか、ぎこちない手つきで混ぜていたオタマを引き上げ、木のカップに中身をよそう。オタマから溢れるのは、灰色のドロドロだった。


 それを次々と並ぶものたちの盆の上へと配ってゆく。


 配られたものたちは嬉々として受け取り、足早に並べられた机へと向かって座って、まだ湯気の上がっているボールの中身を見つめていた。


 その目は静かだけど、熱意がこもっていた。


「はいこれ」


 言われてルルーは自然とモメから盆を受け取った。


「大丈夫、心配しなくてもちゃんと麦がゆは君たちの分もあるから。だけど量がちゃんと計算してあるから、おかわりはできないし、こぼしても次はないから、気をつけてね」


 ルルーは背中に嫌な汗が噴き出るのを感じた。


 麦がゆ、銀麦、麻薬、やばい。


 状況を理解するのと同じ速さで視線を走らせる。


 そして見つけた。


「オセロ!」


 ルルーは叫ぶと同時に走り出していた。


 列を抜け、机の間を走り、オセロの元へ。


 叫び声に振り向いたオセロは、いつもの鉄棒の代わりに木の盆を両手に持って、列に並んでいた。


 いつもとは違う雰囲気のオセロ、だったのにルルーは気にも止めずにその腕に飛びついた。


「オセロ! 出ましょう! 早く!」


 必死なルルー、対してオセロは鈍かった。


「あ、あぁ」


 返事はする。けど、動かない。


 ただじっと、盆の上の湯気の上がっているカップを見下ろしていた。


「オセロ! これは麻薬で、やばいって言ってたじゃないですか!」


「あぁ、なんだけど、よ」


 その煮え切らない態度が、ルルーを苛立たせ、そして暴れさせた。


 飛びついたオセロの腕を、ルルーは体重をかけて揺さぶる。


 体重の軽いルルーが揺さぶったぐらいじゃオセロは揺るぎない。それでも盆は揺れて、上に乗ってるだけのカップは滑り、飛んで、まだ並んでいた男の右膝へと中身をぶちまけた。


「あ」


 ルルーはしまった、思った。


 人を、傷つけた。汚してしまった。怒られる。争いになる。


 一瞬で自分の失敗を顧みたルルーだったが、男は無反応だった。


 …………いや、正確にはルルーはその反応を読み取ることができなかった。


 膝から湯気の上がる男、怒るでもなく拭くでもなく、熱がり叫ぶでもなく、ただその自分の膝を見つめていた。


 どうするべきか、少なくとも今のオセロは頼れない、とルルーが判断した、次の瞬間、男は自身の体を折り曲げた。


 謝罪の時よりもなお深く腰を曲げ、足は立ったまま、その頭を限界まで下まで下げると、男は己の膝にしゃぶりついた。


 その異様な角度での異様な行動、見えてないのに、ルルーには男が限界まで口を開き、目一杯伸ばした下で膝を、そこに溢れたドロドロを舐めとってるのがわかった。


 その人でも獣でもない動きに、ルルーは一歩後ずさった。


 ……そこで初めて、周囲の変化にも気がついた。


 誰もが動きを止めて、異様な男ではなくて、ルルーを見ていた。


 その目は無表情なはずなのに、見返すルルーには恐ろしい何かを感じ取った。


「法を、破ったな」


 渋くて重い声は、鍋の向こうのドワーフからだった。


「ここにはいくつもの法がある。麦がゆを粗末にしたこと、他人に分け与えたこと、奪ったこと、そのどれもが法に抵触する。そしてここではいかなる罪状でも刑罰は一種類のみだ」


 ジリ、と誰かが足をふみ鳴らした。


「磔にしろ」


 静かな命令に、並んでたものたちと座っていたものたちが一斉に飛び出した。


「オセロ!」


 ルルーは叫ぶ。


 なのにオセロは動かない。


 ただじっと、何も載ってない自分の盆を見つめ続けてるだけだった。


「オセロ!」


 伸びてきた誰かの手を自分の盆で叩き防ぎながらもう一度叫ぶ。


 だけど、オセロは動かなかった。


 殺到するものたちの先、ルルーは絶望を目にしていた。


 オセロは助けてくれない。


 …………崩れてしまいそうな精神の中で、それでもルルーは奥歯を噛み締め、走り出した。


 捕まえようとする腕を避け、机の下をもぐってくぐって、盆を投げつけがむしゃらに、なんとか振り切り建物から飛び出した。


 赤い夕暮れの中で一人、走り続ける。


 ルルーは、生き残るために、オセロを置き去りにして逃げ出した。

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