第10話 理想再始動

 キュウリ教の本部は、驚くことにさっきの居酒屋の奥の地下にあった。最悪、どこかの知らない山中に出て、春先のまだうす寒い夜中に遭難でもしてしまうかもしれないなとも思っていたが、すんなり見知った光景が見られて安心した。

 徳田はしばらく経ってもうめき声を上げ続けていたが、知ったことではない。



 あの忌々しい畳の部屋を抜け出して階段を昇り続けているうちに、もしやこのキュウリ教というのは地下帝国でも築いているのではないかとハラハラしたが、2階分ほど階段を昇るとあっさりと先ほどの個室居酒屋にたどり着いた。

 股間に大きなシミを作り、その上異臭を発する僕を見たからなのか、最深部の総本山からカモが逃げ出してきたからか、店員たちはギョッとした表情をしていたが、「秘密を知られたからには生かしておけぬ!」と包丁を持ち出してくるような物騒な店員はおらず、あっさり夜の繁華街へと抜け出せた。



 既に日付を越えてしまった夜の街は、チラホラと消えたネオンも見当たる様子で、閑散とした雰囲気だった。交差点にキャッチがちらほら立っているものの、肝心のキャッチされる側の人間はもうほとんど帰路につくか千鳥足でふらついているかで、キャッチ達は義務感で声をかけるだけに留まっている。

 失禁をしているのを見られてはまずいと思い、キャッチさえいないような裏道を走り抜けた。まだ春先の深夜の空気はヒンヤリとしていて、尿素と水素と酸素をたっぷり含んだ僕のパンツとズボンはその冷たさをスポンジのように吸収してしまい、股間に氷を押し付けられているようだった。もう精神的にも肉体的にもヘロヘロだったので、他人の目から見れば早歩きよりよっぽど遅いスピードだったかもしれないが、僕としては懸命に、猛スピードで家まで逃げ帰っていったつもりだ。

 心に余裕が無かったのもあって、自転車で走るよりも早く自分のボロアパートの玄関にたどり着いた感覚だった。途中で人とすれ違うことはほとんどなかった。深夜の地方都市なんてこんなものだ。

 これからもしも徳田たちに出会ったらひどい報復に遭うのではないか等の不安はあったが、そんなことを考える間もなく疲れがドッと来て、パンツだけ替えて下着姿でそのままベッドに倒れこみ、気を失うように眠った。



 翌朝、目覚めたときには昨日の出来事は一瞬夢のように思えたが、部屋にほんのり漂うアンモニア臭で現実であったと認めざるを得なかった。

 気付くと同時に、これまでの人生にはなかった、絶望的な虚無感に襲われた。パンフレットを作ったり、ボスゴリラと対峙したり、知らない人間との飲み会に出た結果がただ単に宗教に騙されただけという結果に終わったことにショックを受けたのだ。今思うと、きっと僕がこれまでの大学における2年間を冷静に振り返る方が受けるショックは大きいのだろうが、僕の浅い思考がそこへ向かうことはなかった。


 ユートピア探検隊は僕1人を残し、全員消えてしまった。


 いや、そもそもずっと1人だったと言った方が正確だろうか。



 徳田に胸倉を掴まれて凄まれたあの夜をきっかけに、新学期を迎えてどこか浮かれていた僕の心は地面、はたまたさらに奥深くのマントルへと叩きつけられた。

 僕なんかが何かを成し遂げられる訳がない、あんな恐ろしい思いをして傷つくくらいならばこれまでと同じように空虚な時間を過ごす方がマシだという、ここ最近は理想郷到達のために封じ込めていたはずのネガティブな感情が溢れ出てきていた。

 大学を歩けばついこの前までガキンチョだったはずの後輩たちが、制服を着ていた学生時代とは違って、とても応援をしようとは思えない、爽やかさのかけらもないような恋愛をしているし、SNSでは地元の友達が都合よく編集されたキラキラ輝く人生をこれ見よがしにアップしている。

 切なかった。僕は別に孤独を愛しているわけではなく、ただ消極的に生きてきただけの、至って普通の感性を持つ人間でしかない。

 ネットで僕の名前を検索してみても悪い情報なんて出てこないし、酔って人に暴力を振るうような人間でもない。いや、この前徳田にやったのはあくまで正当防衛だ。もし彼が種無しになってしまっていたなら申し訳なく思うが、悪徳宗教の未来を潰したと考えれば問題ないように思えないこともない。そんな気もする。

 とにかく、僕は徳田のように人に迷惑をかける人間ではないし、健全な志を持っている善良な市民である。なぜそんな僕がこんな目に遭ってしまうのか。

 高校の頃、一緒に遊んでいた友達があんな雲の上のような生活を送っておいて僕に送れないはずがない。そう思うと、この現状に対して怒りがどこからかふつふつと湧いてきた。



 嫌なことを忘れるために飲んでいた酒が、フランベみたいに僕の怒りの火を大きく燃え上がらせた。やっぱり、このままへこたれていてもどうしようもない。何かアクションを起こさねば、変わるものも変わらない。

 僕はこれまで空虚な大学生活を送ってきた。だからこそ、大して失うものもない。

 また、強く決心をした。理想郷へたどり着いてみせると。

 都合よく編集された、ウェブ上にのみ存在する幻の理想郷などではなく、現実に、僕が生きるこの世に、作り出してみせると。

 焦燥感という、若手ロックバンドのような理由で動き出した僕だったが、今では怒りとちょっぴりの自信でまた進み始めようとしている。

 怒りも自信も深夜に酒を飲んでいるからこそ湧いて出たものという自覚があったので、この時だけの決心とならぬよう、壁にマジックで「理想郷を探す!」と大きく書いた。とんでもないことをしでかしているという自覚はあったが、むしろそれがたまらない気持ちにさせた。

 翌日起きた僕は、何てことをしでかしたんだと寝る前の自分を殴りたくなって、自分の頬を軽く叩いてみたが、目の前にでかでかと書かれた決意表明が消えることはなかった。ある意味縁起が良いのかもしれないと無理矢理自分を納得させることにした。

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