第9話 断片的詭弁
「ユートピアとは、何か」
徳田が僕に問いかける。哲学者にかかれば、何時間でも何日でも、長ければ一生をかけて考え続けられるテーマであるかもしれない。しかし、一般の駄学生の僕にはせいぜい簡潔に返すしか出来ることはない。
「理想郷……じゃないの?」
カタカナ語の意味を聞かれると、ただ和訳した言葉しか出てこないのは僕が頭が悪いからなのだろうか。
「和訳すればそうなるでしょう。しかし、我々の言うユートピアとは概念なのです」
「概念って言ったって、そりゃ僕だって理想郷そのものにたどり着こうなんて思っていないよ。理想的なところ、だから理想郷。それじゃ、ダメなのかい」
「ええ。我々は高尚なる意識の集まりし場所、それをユートピアと考えています。ユートピアとは、流動的かつ固定的に存在するのです」
徳田の言った言葉は全く意味が分からないが、僕の頭はそこまで悪いわけではないはずだ。
こんなちぐはぐな文章を理解できたところでどこかに隠された財宝のありかのヒントになるわけでもないし、むしろ頭がおかしい同類の人間と思われてしまうだろう。
こういった無駄に読み取りづらい文章を用いて人を捻じ伏せて、ワケの分からぬうちに魅了しようとするというのはよくある悪徳ビジネスのパターンだ。最後に暴力等を用いてマインドコントロールをしてしまえば、いかに専門の学者や無垢な一般人が文句をつけるような持論を展開したところで、魅了された人間が疑う余地は消えうせてしまう。
確かに、徳田は見かけにこそ知性を感じるが、案外、中身に眠っているのはそれほど頭の良くない凶暴な男であるようで、その後の彼の説教にも全くもって信憑性や説得力のあるものはなかった。
「君は、ユートピアの語源というのを知っているのか」
「ええ、もちろん。我らが祖先、アダムが生み出したと言われる世界の事です。我々人類は、ユートピアを探し出すために繁栄を続けているのだと、求理教の教書、『真・ユートピアを求めて』にも記されています」
徳田はユートピアという語を用いるくせに、その語源さえ正確に分かっていなかった。そもそもユートピアとは、トマス・モアの生み出した造語であり、宗教的意義は全くない。ただ教養が無いだけなのか、頭までどっぷり洗脳されているのかは知らないが、キュウリ教と徳田がロクでもないという事は分かった。
「とにかく、我々はアダムのお導きにより、ユートピアを求める永遠の旅の最中なのです。私たちの前にあるのがアダムの像でして、毎日ここで2回の礼拝をするのが決まりです」
どうやらこの2mほどの像がそのアダムらしい。旧約聖書のアダムとイブをモチーフにしているのかは知らないが、旧約聖書の中の最初の人間の名を借りておいて、なぜ天使の姿をしているのだろうか。
「なぜアダムは愛すべき子孫である我々にユートピアを隠しているのか。それは、時が進むにつれ、悪がこの世に芽生えてしまったからです。アダムは、いわゆる善人、徳を積んだものにしかユートピアへ立ち入らせません。つまり、ユートピアを探すこととは、現世で徳を積み、自らを聖なる存在へと高めるということなのです」
なるほどなあ。このまま僕を帰した方が訳の分からない説法を聞かせ続けるよりはよっぽど徳を積むことになると思うんだけど、きっと彼らの中での徳とか聖とかっていうのは自分らの良いように解釈されるんだろう。
「さあ。これで私たちの活動がお分かりになられたでしょうか」
「ああ、まあ、分かったよ。一応ね。でも僕の思想とは相いれないようだ。というかそのユートピア云々の話って、その辺の、特に宗教的思想を持たない一般人が地獄へ堕ちまいとして善行を心がける普遍的なものと大して変わらないじゃないか」
「ええ。本質的には」
「君、頭そんなに良くないだろう。リーダーには向かないな」
「はは……確かに教養はまだまだ十分には無いかもしれません」
「いや、そういうことじゃないんだ。キュウリ教の教えを説いている時も何だかまるっきり暗記しただけの、定型文をコピーしてペーストしたような話し方だし、僕が何か聞いてもまるで定型文のような事ばかり言うからさ。本当は、キュウリ教のことよく分かっていないんじゃないか?」
「確かに、私は未熟者ですね」
変わらず、感情をなるべく出すまいと努めてはいるようだが、徳田の顔つきが、だんだん怒りを帯びたものになってきているのは目に見えていた。
キュウリ教の教えをつらつらと説いていた徳田は、表面上は穏やかに取り繕っていたつもりだろうが、その目つきは野生動物の威嚇のような、お前を殺して食ってやろうかという至って野性的な憎悪をこれでもかというほど放っていたのは明らかだった。
「とにかく、関係ない話は終わりにしましょう。求理教に入信するのかしないのか。それを答えていただきたいんです」
「ノーだよ、ノー。拒否。いやです」
挑発するように目を開いて顔を近づかせて言った。僕をそうさせたのは、多分子供のころから残っているわずかな悪戯心だろう。多分僕は、恐れながらも楽しんでいたのだ。ただ時間が過ぎていくだけの虚無ともいえる生活からかけ離れたこの状況を。
「それは困りますね」
「なんで?」
「この世の全ての人々に我々の教えを理解していただきたいのに……」
「いやだったらいやだ。帰るよ」
キュウリ教が果たして世界中に広まるべき素晴らしい教えであるのかどうかは別として、僕はとりあえずこの場を離れたかった。それと同時にやはり、目の前のあと少しで爆発しそうな徳田という爆弾をもう少し弄んでいたいという悪戯心もあった。
外へ出るために踵を返そうとしたところで、突然徳田の腕が僕の胸元に伸び、僕の胸倉を掴み上げた。僕の性格が裏目に出たというか、当然の結果を導いてしまった。元々、首元がユルユルだった僕のTシャツがさらに伸びてしまいそうだ。
「穏やかじゃないね。聖人を目指す人のやる事じゃないよ」
「そんなのはもういい。さっきからゴチャゴチャ突っかかってきやがってよ、あ?」
口調もガラリと変わってしまった。僕の悪癖が彼をこう変貌させてしまったのなら心から謝りたいが、この場合は単に本性があらわになっただけだろう。
「飲み会にいた部下たちもこうやって暴力で調教してたんだろう?」
あの飲み会にいた、生気のすり減ったようなキュウリ教の教徒たちが思い浮かぶ。
「だったら何だ」
「操られるだけの人生って悲しいよね。たぶん、君もまた操られているうちの1人に過ぎないのかもしれないけどさ」
「あぁ!?」
徳田は怒りを露わにし、睨み付け、語気を荒げ、自分の強さを見せつけようとしている。その様はやはり縄張り争いをする野生の動物のようで、見た目だけは真面目そうな徳田がそんな態度をとっているのは何とも滑稽に思えてくる。
徳田は僕の胸倉を掴んだその手で僕の上半身を何度も揺らし、全力で怖がらせようとしている。彼はこんな単純な威圧で、このキュウリ教の人々を服従させてきたのだろうか。
僕は至って冷静に状況を分析しているように思われるかもしれないが、その実、怖くて仕方がなかった。まさかそんな簡単に手を出してくるとは思わなかったし、黒い服を着ていて錯覚で細く見えていたようだが、こうやって近距離で対面すると徳田は僕より身長こそ小さいものの、体の厚みは圧倒的に勝っているのが分かり、ますます弱気になってしまう。
「警察沙汰になったら困るんじゃないか?」
震える声で説得を試みるが、
「お前を消してしまえば終わりだろうが」
とても物騒な答えが返って来る。
相手が一般常識を持ち合わせる人間であるならば、そんな言葉は単なる脅しに過ぎないと認識できるのだが、いざ、いきなり手を出してくるような人間からそんな言葉が発せられると、急にリアリティを帯びてきて、脅しなのか本気なのか分からなくなる。
徳田も僕がチーターに首を噛まれた草食動物のようにだんだん弱っていくのを察したか、さらに強気に迫ってくる。日常会話さえ満足にこなせない人間が、強気な相手に凄まれるとどうなるのかを身をもって知ることが出来た。新たな社会勉強だ。
先程酔い潰れていたからか、死体のように体が冷たくなっていたが、体がだんだん熱くなってきた。体の中心辺りに熱いものを感じる。これはもしや、ピンチに陥ったことで僕の中の熱い心が燃え上がって、かつてない謎のパワーを得たのかと思ったが、ただ失禁していただけだった。僕の精一杯のオシャレの紺色のズボンと、足元の畳が色濃くなっている。
それに気付いた徳田は、まるでゴキブリでも避けるように、胸倉をつかんでいた手を放し、さっと後ろに身を引いた。
すると、僕の悪戯心までもが爆発したのか、徳田の股間に思いっきりつま先を叩き込んでしまった。靴下を通して、嫌に柔らかい感触が伝わってくる。予想だにしなかった攻撃に、徳田はうめき声をあげて倒れこんだ。徳田の暴力性も自尊心も金玉も何もかも叩き潰した僕は、一目散にその場を逃げだした。
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