第8話 憎い救い

 会場の居酒屋の部屋がキッチンのあるところから大分遠い位置にあるから、注文した酒やつまみを持ってくる店員がそれとなく不機嫌そうな顔をしていたことや、カクテル類のアルコールが薄かったこと、焼き鳥の肉がまるで干し肉みたいにカチカチだったこととかは覚えている。



 しかし、不意に泣いてしまってその照れ隠しに酒を浴びるように飲んでから、今の自分の状況に至るまでを覚えていない。

 僕はあの飲み会の後、泥酔して寝てしまったか気を失ったかをしてしまったようだが、目覚めた場所の風景に全く見覚えが無かったのだ。

 先程の居酒屋の部屋ではなく、だだっ広い、30畳ほどはあろうかという一面が畳の部屋で、正面には天使を象ったような高さ2mほどの謎の像が鎮座している。

 アルコールで脳がやられてしまったかとも思ったが、感触も視覚も、すべてが現実のものだった。子供の頃に行った祖父の家ぶりの畳の感触が懐かしい。

 強い酒を次々に飲んだからだろうが、鼻腔に強烈なアルコール臭が残存している。それは、僕が飲んでいたウイスキーとか焼酎から、樽とか原料の香りだとかが完全に吹き飛んだ、単純なアルコールの臭いに思える。

 しかし、そんな嫌な臭いの中に、微かに線香の安らぐような良い香りが混ざってくる。もしやここは死後の世界で、僕は先ほど強い酒を飲み過ぎて急性アルコール中毒にかかり、あの世へ行ってしまったのではないかとも思った。

 もちろん、そうではなかった。気だるさと気持ち悪さで、目覚めたまま何もできないでいると、静かに襖が開く音が聞こえた。恐る恐る音のした方へ視線を向けると、そこには1人の男が立っていた。それは獄卒でも天使でもなく、徳田だった。


「ここは?あの後どうなったんだ?」

 薄くぼやけて揺れる視界の中で、5メートルほどの距離に立つ徳田の姿を捉え、助けを求めるように酒で焼けた声を絞り出し、尋ねる。


「ここですか?真実のユートピアを探求せし者の集まる場所、求理教の総本部です」

返ってきた声はやけに明朗であった。


「きゅ、キュウリ教?」


「はい、求理教です」


「キュウリ教」

 今の状況からどのように至ったのかさっぱり分からない、素っ頓狂なワードが出され、僕はオウム返しにするほかなかった。

 とろけた脳みそがその言葉を把握するまでに少々時間はかかったが、そのキュウリ教という名前を何度も反芻していると、うっすらと聞き覚えがあったことに気が付いた。学内で勧誘を積極的に行っていた宗教団体だ。

 新歓期だろうが試験期間だろうがいつでもどこでも現れ、しつこく勧誘を行ってくることで学生の間では悪名高い。以前僕も食堂で夕食を食べていたら、隣の男が文庫本ほどのサイズのキュウリ教の教本を取り出してきて、いっしょに読みませんかとしつこく誘ってきた覚えがある。

 僕がビラを貼っていた大学の掲示板の各団体のビラが一斉に撤去されてしまったのも、そのキュウリ教とやらのしわざだろう。つまり、彼らは間接的に僕の勧誘活動を邪魔したことになる。ユートピア探検隊に入隊してくれるという、あのメールから、こんな状況になるとは誰が思うだろうか。

 仲間との出会いから一転、突如宗教団体の名前を出された僕の頭の中は、マドラーでぐちゃぐちゃにかき回されたように混乱していた。


 大広間と言っていいかも分からないようなとてつもなく広い畳の部屋。


「なぜ僕をここに?」


 至極当然、浮かび上がる質問をぶつける。


「もちろん、求理教へ入信していただくためです」


 やり取りの中で薄々感づいてはいたが、はっきりと言葉にされることによって、ぼやけていた、僕が今いるこのシチュエーションがくっきりと露になる。


 なんとなく合点がいった。

 妙に生気のない、からくり人形のようであった徳田以外のメンバー達。僕が部屋の引き戸を開けたときに全員が黙々と本を読んでいたが、今考えるとあれはキュウリ教の教本だ。

 僕以外に対し権力者のような立ち振る舞いをする徳田。こういった団体では体育会系よりもモロに上下関係が現れるという。彼らは意識の高いサークルを抜けて僕のもとへ来てくれた聖人の集まりなどではなく、悪名高き得体の知れない宗教団体であった。

 徳田は、僕の理想郷探検に協力するつもりなど元からさらさらなく、ただ自らの宗教へ勧誘するためだけに僕に接触したのだった。


「僕はそんなところ、入るつもりはないぞ」


「【ユートピア探検隊】とは、私どもに絡めたネーミングだったのでしょう?」


「違う、それはただの偶然だ。そのネーミングに宗教的意義なんて無いんだ」


 塵から巨大な虚像を作り上げるような、まるでタチの悪いマスコミみたいな思想が僕に対して向けられていたとは、なんとも恐ろしい話だ。今の僕は果たして動揺を隠せているかは分からないが、明るい顔で淡々と語りかける徳田の目を、僕はじっと見つめていた。

 恐ろしくなって、僕は徳田を人間として見ることをやめた。僕は今、宗教団体の呪術によって操られている、精巧に作られたマネキンと相対しているのだと思うようにした。僕が見つめているのは決して人間の生きた瞳などではなく、ただ中心が黒く塗られただけの白いビー玉だ。

 そう思えば、いくらか冷静さを取り戻せたような気がした。僕と徳田のやり取りは続く。


「でも、あのパンフレットとあなたのお話を聞く限り、あなたは現状に不満を持ち、幸せを探していた。違いますか?」


 幸せを探しているのでしょう?

 似たようなことを、アパートに尋ねてきた、別の宗教の勧誘に来たおばさんに言われたことがある。ある夏の日、チャイムが鳴り、実家から仕送りでも来たのかと思って重い体を起こして玄関のドアを開けたところ、彼女がいた。

 日差しが強く、湿度も高くて蒸し暑い日だったというのに、大きな帽子を被って涼しげにしていたのが印象的だった。あの時はロクに話を聞かないまま、クーラーのきいた部屋と外気温の寒暖差にやられて無慈悲にドアを閉めてしまったのだが、いざこんな風に目の前でまともに向き合って言われてみると、非常に重たい言葉に思える。

 しかし、これは僕個人に向けられた優しい言葉ではない。あくまで不特定多数の「未だ同士でない人間」を同じ宗教という沼へ引きずり込むための甘言だ。聞き入れてはならない。

 そう言い聞かせて、彼の思い通りにならないように振る舞える、そんな言葉を探し出す。


「たしかに僕は今苦しんでいる。

でも宗教じゃなきゃ解決できないような高尚な悩みじゃない。

金とセックスで簡単に解決してしまうような、安っぽい、チンケな悩みだ」


 焦りと騙された怒りで、アルコールはほとんど飛びきっていた。このままでは、理想郷へ向かうどころかヘンテコな宗教団体に入信してしまうことになる。どうにか抜け出さなければならない。そう思うと、普段回らない口がペラペラと回った。普段の僕は人との会話でセックスなんて単語を出すような低俗な人間ではないのに、今の僕は口が達者な、Fワードを軸にして話すハリウッド映画の陽気なギャングのようだ。


「とにかく、入信するつもりはさらさら無い。そういうワケだ、帰してもらえないか」


「いいえ。ここまで来られた以上、私が求理教の魅力を説きましょう」


 僕の拒否を受け入れるつもりはない様子だ。僕も彼の勧誘を全く受け入れるつもりがないのでお互い様だ。このまま決して折れない屋久杉のような意志を持って、入るか入らないかのやり取りを続けることはあまりに無意義である。


「別に、魅力なんて聞きたくないんだけど」


「本部の最深部まで来られたのです。せっかくだからお聞きになってください。お帰りになるのは少々お待ちになってください」


 僕が最初に徳田を見てから、この男は賢いには賢いが、まさか恐ろしいような人間だとは思っていなかった。蚊を殺すのさえためらうようなひよっこのインテリだと思っていた。しかし、僕を見つめる徳田の眼は、暴力性を孕んでいるような、実に鋭いものだった。

 決して怒りの表情を浮かべているわけではない。しかし、それでもタダの人間を恐れさせるには十分に鋭い眼光だった。

 無理に振り切って帰ってしまおうかとも考えたが、ここがどこかは全く知らないし、こういった宗教施設は様々な理由から山の中にポツンとあるという先入観が僕の中にあった。無理に逃げ出して迷うよりも、話を聞くだけ聞いて帰してもらう方が賢明だろう。

 それに、下手に逆らえば何をされるか分からない。ここは僕にとっては閉鎖空間であるし、何より徳田の鋭い眼光は時間が経つにつれだんだん研ぎ澄まされていっていたのだ。

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