第5話 毒物ドクトリン

 新学期に入り、およそ2週間が経った。この時期になると、1年生から早くも初々しさが消え失せてくるようになる。

 彼らも、「大学生」という巨大な塊の一部に取り込まれて、貴重な時間を安い給料で働くことに費やし、そうして得た貴重な金さえも薄っぺらな見栄のための「オゴリ」に使われ、時間と金はたちまち虚無へ吸い込まれていってしまう。そういう意味では、僕と他の大学生もさして変わらないのかもしれない。



 そんな、「大学生」だらけのキャンパスは、歩くだけでいささか不愉快になってくるものだが、僕の大義のためには、こんな気苦労はアリのように小さいものだ。

 大学の掲示板に貼られたサークルの勧誘のパンフレットを見てみると、実に多種多様なサークルがあった。スポーツからギャンブル、ボードゲーム、音楽、それから謎のものまである。

 それならば、僕の考えた(厳密に言うとインスパイアされた)、「大学生活が上手くいってない人間が寄りそうサークル」というのも許されない存在ではないだろうと思った。

 こうなれば実行は早い方がいいと、大学の学務にサークル創設の旨を伝えに行くことにした。正直、大学の職員に良い思い出はないのだが、別に自分に非があるわけではないので、思い切って行くことにした。斜面にそびえるキャンパス内を行き来するのは楽しいものではないが、その足取りは心持ちほど重くなかった。



 まだ4月の中旬だというのに、学務の部屋のドアを開けるとひんやりとした空気が流れてくる。もしや僕が開けたのは冷蔵庫のドアだったのではないかと勘違いするほどだ。

 なぜかと言えば、学生の間で「ボスゴリラ」と陰で呼ばれている、太ったベテラン職員がひどく暑がりで、冬以外は常に冷房を点けているからだ。もっとも、全身が頑強な筋肉で包まれているゴリラを、嫌われ者の肥満体の職員に対する喩えに用いるのは失礼であると思うが。

 さらに言えば、そんな屈強なゴリラの中で頂点に立つボスゴリラを、ただ傍若無人な振る舞いをする人間の喩えとして用いるのもたぶん適当ではない。

 

 ここは国立大学なので、ここにある電化製品は国民の血税によって動いているはずなのだが、彼はそういう建前的な考えよりも自分の身を優先する本能的な生き方をしているのだろう。体型だって、多分そういうことだ。

 このボスゴリラは学生に対してまるでボスのような振る舞いをするので、学生には嫌われている。嫌ってなければ大学生にもなってそんな小学生みたいなあだ名は付けたりしない。僕もボスゴリラは正直言って苦手なので、窓口にいなければいいのになあと思っていたが、ドアを開けた瞬間、そこに彼が圧倒的な存在感を漂わせながら座っているのが目に入って、小さいため息が漏れた。

 あーあ、と思いながらもボスゴリラへと続いていく学生の列へと並んだ。

 巨体の彼の元へどこかうつむきがちな学生の列が続いていく様は、閻魔大王の裁判を待つ地獄絵図のようであった。



「あの、履修の相談についてなんですが……」

 悪いことはしていないはずなのだが、非常に申し訳なさそうな雰囲気を醸し出す学生が謝るように要件を告げる。


「それは学部の方の学務に行って。書いてなかった?読めないの?」


「そうじゃなくて、間違えて履修したので取り消しの書類が欲しいんですけど……」


「チッ、はいこれね。サインちゃんと貰ってよ」

 ボスゴリラはおそらく重要であろう書類を学生の前に乱暴に叩きつける。この学生はまったくもって正当な理由でここへやってきているのだが、やり取りだけを見ると彼はとんでもない悪行をしでかしたかのようにさえ思える。


「大学生にもなってそんな下らないミスしないでくれる?」

 相変わらず余計な毒を学生たちにどんどん吐きかけていく。こうも学生に対する態度が悪いのは学生の頃にこの大学に落ちた腹いせだとか、実はクビになった元教授だからとか、いろんな都市伝説が学生の間で飛び交っているが、性格がとんでもなく悪いという事だけは確実だ。

 ボスゴリラに毒を吐かれているのは確かに僕の忌み嫌う「大学生」であるはずなのに、この時ばかりは同情せざるを得ない。



 ぺっぺ、と毒が辺りにさんざん吐き散らかされた後、僕の番が回ってきた。いったいどんな毒が浴びせられるのかと内心ビクビクしていた。


「新しいサークルを作りたいんですけど……」

 僕もまた、上司にミスを報告する部下のような、謝罪が入り混じったような口ぶりになってしまっていた。


「申請?公式のサークルは10人以上いないと作れないよ?それは分かってるよね?」

 既にボスゴリラの眼光は鋭く、こちらに負は無くとも心と体が縮んでいくのが分かる。


「え?あ、そうなんですか……じゃあ非公式のサークルは……」


「勝手に作っていいの。それくらい知らない?」


「そうなんですか、すいません」


「あ、なんか君胡散臭い感じだから言っとくけど、宗教関係だけはダメだからね?」

 結局僕も毒をぶっかけられてしまった。



 そそくさとボスゴリラの眼前から抜け出し、学務の部屋を出た。冷房の効いた湿度の低い、ひんやりとした部屋にいたからか、今日は小春日和であったはずなのに、外は何となく蒸し暑く感じたし、眼鏡のレンズにも白いもやがかかっていく。

 無駄な精神的ダメージを負ってしまったが、非公式のサークルならば特に許可が無くても作れるのだという事を初めて知った。

 それならば話は早い。とっととビラを作って掲示板にでも貼っておこう。既に4月中旬なので大体の新入生はあらかたどこかしらのサークルに入っているだろうが、その方が都合がよい。僕はこの時点でどこにも入れなかったり、合わなくて辞めてしまうような人間の集まりを作りたいのだから。



 団体名はユートピア探検隊とした。「理想郷」だと少し硬い印象を持たれてしまいそうだからだ。日本の様々な企業が名前にひらがなやカタカナを入れるのと同じ理論である。

 早速、大学の食堂でビラの作成に取り掛かり始めた。柔らかいイメージを持たせるためにイラストの1つでも描こうとしたが、残念ながら僕には絵心が全く無い。

 どれくらい無いかというと、中学の美術の授業で何もふざけていないにも関わらず教師に真面目に書けと怒られるくらいだ。真面目に書いたんです、という僕の反論もむなしく成績表には「2」の数字が刻まれていた。僕にしてみれば学校の教師自体にそれほど良いイメージは無いし、僕も決して良いイメージは持たれてなかったのだろうが、それにしてもなぜ芸術系の教師は他に比べより癖の強い人間ばかりなのだろうか。    

 自分が得意なことを子供に教えているのだから自分が優位であるのは当たり前であるのに、そこにおける「できない人」への配慮をほとんどしない。芸術家肌だからと言われればそれまでであるが。

 話は逸れたが、つまり僕はロクに絵が描けないので文字だけの硬いビラが出来上がった。イメージを柔らかくするためにユートピア探検隊としたのは何だったのだろうか。とりあえず、出来上がったそれを大学構内の各所に貼り付けることにした。

 またも僕は斜面にそびえるキャンパスの隅から隅まで歩き、縁もゆかりもないような他学部の建物に入り、画鋲を押していく。この行動にどれほどの意味があるかは分からないが、人間のやる事なんてほとんどは明確な意味を持たない。

 連絡先としてメールアドレスを書いておいたのだが、大学内にこのアドレスを書いたビラを貼りだすのが恥ずかしくなるくらいあまりにふざけたものだったのでわざわざ無難なアドレスに変更する羽目になった。

 1日にこんなにも画鋲を押したのは初めてだったので、帰るころには親指がヒリヒリとした痛みに襲われた。達成感を得るにはなんとも微妙な痛みであるが、空虚に比べるなら、嬉しいものだと思う。

 この宣伝活動で一体どうなるかは分からないが、とにかくメールを待つことにした。

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