第3話 イン・ザ・陰鬱
悩んでいた。薄汚れた机の上には、3枚のパンフレットが置かれている。もちろん、そのパンフレットとは、僕が昨日大学で貰って来たサークルのものだ。
理想郷へ向かう道程の第一歩として、とりあえず、昨日パンフレットを貰ったサークルのどれかに入ってみることにした。しかし、どのサークルに入るかで、僕は悩んでいたのだ。
SF研究会は、パンフレットを渡してきた学生の雰囲気からしても、雑にペンだけで書かれた華やかさのかけらもないパンフレットからしても、僕のようなジメジメとしたナメクジのような人間にはさぞかし居心地のよさそうであろう雰囲気を存分に醸し出しているのだが、集まるであろう面子を考えてみると、理想郷とは正直言い難い気もする。
しかし、フットサルサークルなんてものに入ると、まともにドリブルさえ出来ないし、キーパーをやればボールを銃弾だとでも思っているかのように逃げ回り、ボールを蹴ろうとすれば足がボールをすり抜ける。そんな僕みたいな運動音痴は村八分か奴隷みたいな扱いを受けるに違いない。
かといって、僕がパンフレットを貰った軽音サークルは、女受けを狙ってなのか単なる流行りなのか、どれもこれも甘ったるい声のポップバンドばかりをコピーしていることで有名で、そうした音楽がどうも気に入らない僕としては、そこに入るのはあまり気乗りしないものだった。女性の心を掴みたいのならば、適当に辞書から引っ張り出したような、意味も分かってない難解な言葉を並べて甘い声で歌うことも必要なのかもしれないが。
そういえばCEO風の彼に貰ったパンフレットの存在を忘れてしまっていたが、彼の雰囲気的に、そこに理想郷は無いような気がする。
いろいろ考え抜いた結果、これ以上決断を後回しにしては僕の性格上うやむやになってしまうと、今日のうちにどれか1つに入部することを決断した。
優柔不断と先延ばし癖を兼ね備えた僕は、しばしば物事を選択できないまま自然消滅させてしまうことがあった。
僕にかかれば、どんな約束事だってブラックホールに吸い込まれたようにたちまち無に還る。もしかすると僕の人生そのものも、このブラックホールにいずれ飲み込まれて終末を憂う間もないまま跡形もなく消え去るのかもしれない。
これまでの空虚な青春時代だって、これまでは誰かのせいであって欲しいと逃避的に思っていたけど、やはり僕の性格によってそうなってしまったというのはうすうす自覚していた。
キャンパスの片隅に、ボロくて薄汚れた、場末の雑居ビルのような建物がある。もはやある程度外観が保たれている廃墟よりもよっぽど廃墟らしい。周りを鬱蒼とした森に囲まれているので、より、そう見える。
ここは決して廃墟などではなく、文化系のサークルが多数入っている建物であるが、人間で例えればいかんせん定年を迎えてもおかしくない築年数であるため、軽音サークルのギターやドラムの音、もしかするとボーカルの歌声がなんの隔たりもないかのように流れてくる。あと数年すれば、英会話サークルが英語で会話しているのが聞こえてくるようになるかもしれない。
だが、こんなくたびれた建物にいても、キラキラ輝く大学生たちは体液まみれの美しい青春を過ごすのだろう。
この中には僕がパンフレットを貰ったうち、SF研究会と軽音サークルの2つがある。言うまでもないがここでプレイするほどあのフットサルサークルはヤンチャではない。
ここへ来たのはもちろんそのいずれかに入るという決断を下したからであり、今日という日が僕の人生にとって大きな分水嶺になるかもしれないと思うと、足取りがだんだん重くなってくる。
おそるおそる建物に入ると、なんというか外観通りのジメジメしたカビ臭い空気が漂っていて、ずっとここに居ると、狭い部屋で副流煙を吸うなんかよりもよっぽど健康に良くないような気がした。
隅っこに埃と人毛が溜まった階段を登り、両端に段ボールの積まれた、蛍光灯が切れかけて点滅している薄暗い通路を進むと、そこにボロボロの木製の扉があった。
掛けられたホワイトボードには『SF研究会』と汚い手書きの字で書いてある。
昨日、僕はSF研究会に入ることを苦しみながら決心したのだ。
なぜSF研究会に入ろうとしたのか。
この無限に広がる宇宙に思いを馳せ、世界にある未だ知られていない事象を突き詰めていくため……などではなく、先日、数年前に流行ったSF研究会を舞台にしたハーレムもののアニメを見たのと、軽音とフットサルは、僕なんかにはあまりに荷が重いと気付いて、怖気づいてしまったからである。
そもそも、どうしてSF研究会に同類ばかりしかいないと決めつけてしまっているのか?また、どうしてそれが理想郷たりえないと断定してしまっていたのか?
気の合う仲間同士で楽しくゲームしたり語り合ったりするのもまた青春だ。あのペニスサークルに比べれば那由他倍は楽しいだろう。そもそも、僕の理想郷には絶対に異性が必要という訳ではない。あくまで追加オプションだ。
そう自分に言い聞かせ、ボロボロの扉を3回ノックした。壊れないように、優しく。ちなみに、2回ノックをすると、トイレの意味合いになるらしい。
返事が特にないのでそのままドアを開ける。このドアは見た目のとおり建付けもひどいらしく、なかなかスムーズに開かず、ギシギシと嫌な音が鳴り、引っかかるような違和感があったが、そのまま力でこじ開けた。
すると、何かが壊れてしまったのではないかと心配になるほどに、大きい、割れるような音が響き、奥のパイプ椅子に座っていた男がこちらに驚いた様子で振り向いた。
もしや鍵がかけられていたのを無理矢理開けて壊してしまったのではないかと不安になりドアノブを確かめてみるが、どうやらその心配はないらしい。
座っていた男はイヤホンをして、長机に置かれたスマートフォンに手を載せていた。音ゲーのアプリでもしていたのだろうが、突然の異音に驚いている。軽音サークルの練習が止んでいる時間だったので、イヤホンを貫くような音でこちらに気付いたようだ。
多分、ちょっと待って、という意味合いで手のひらをこちらに向け、そのまましばらく音ゲーの世界に戻っていった。こちらの世界は無音の中、必死の形相でスマホの画面を指でつつく様は何とも言えない光景だ。
そのまま見守っていると、苦虫を噛み潰したような顔をしてイヤホンを外した。良い結果が出なかったのだろう。
「キミ、入部希望?」
その男は、そのまま顔をこちらに向け、話しかけてきた。
「はい、3年なんですけど、いいすか」
僕より年下なのだろうけど、あまりタメ口を使う気にはならなかった。中途半端な敬語を投げかける。
「あぁ、途中入部の人っすか……」
やはり彼は僕より年下だったらしく、急にぎこちない敬語に変わった。なんとなく顔が引きつっているような気もする。年上に偉そうな口を利いてしまったとでも思っているだろうか。
「SF研究会の代表の笹野って言います、よろしくお願いします」
そんな必要最低限の自己紹介をした笹野は、グレーのパーカーに黒のチノパンと、安っぽくて地味な服装だった。一方の僕も黄色のチェックシャツにジーパンなので、人のことは言えない。
「取りあえず、飲み物でもどうぞ」
そう言うと床に置かれた小さな冷蔵庫を開けて2リットルサイズのペットボトルのお茶を取り出し、机の隅に置いてあった袋から取り出したプラスチックのコップに注いで僕に差し出した。部屋全体を見渡してみると、この部屋は部室というよりも、秘密基地といった印象が強い。
「あと少ししたら他のメンバーも揃うと思うんで」
笹野はお茶と一緒に取り出した缶のコーラをグビグビと喉に流し込んで、言った。まだ春先で、さほど暑くもないのに、彼の飲みっぷりを見ると手元のそれがやたら美味しそうに見える。
「はあ…」
昼休みが始まってすぐにここに来たのであまり人はいないだろうと思っていたが、それから数分が経っても僕と笹野の2人だけだった。僕はもちろん笹野もあまり饒舌なタイプではないようで、部屋の中にはどことなく気まずい雰囲気が漂ったままだった。
「パーフェクトアイドルって、知ってます?」
「知ってますよ」
「じゃあ、いいですね」
そう言うと、笹野はスマホからイヤホンのケーブルを引っこ抜いて、さっきプレイしていたのと同じものであろうゲームをプレイし始めた。
散らかった部屋の中、大音量で流れてくるアニメソングに合わせて必死の形相で画面を叩く笹野。一般人から見ればドン引き必至の行動だが、僕は同じような人間を他にも知っているので特に驚くこともない。
さっきの『パーフェクトアイドル』というのは、今人気のメディアミックス化された2次元のアイドルプロジェクトだ。流れてくる曲もそのアニメに出てくるもので、聞いた覚えがある。笹野がさっき知っているか尋ねてきたのは、知っているなら曲を流してしまって大丈夫だろう?という確認なのだろう。
きっと彼は、見た目だけで僕を同類の人間だと思ったのだろう。こういった趣味を愛好する人間というのはどこかレジスタンス的なきらいがあり、同類以外にはあまり大っぴらにしないものなのだ。
僕は特にやる事もないので錆びついたパイプ椅子に座ってまとめサイトを見ていた。この部屋のイスやテーブルなどの備品は全体的に錆びついていて、時間が長い間止まっているような気がする。
それからまた20分程が経ち、沈黙が気まずくなってきたのでそろそろ何か話題でも振ろうかどうしようかと迷い始めていると、突然ドアが開く音がした。
建付けが悪いのを分かっているからだろうが、あまりに乱暴に、力強く開けられたため、驚いたあまり立ち上がってしまった。横にいる笹野も、僕が開けた時よりかは控えめではあったがしっかり驚いていた。
「おい、力任せにドア開けるのやめろよ。毎度毎度ビックリするんだよ」
「立てつけ悪いんだからしょうがねえじゃんか。ところで横にいるのって誰?友達?」
ドアを乱暴に開けたその男が甲高い声で笹野に尋ねる。なんとも丸めのフォルムで、あの、さっきドアを開けた時の力強さにも納得できる。英語が印字された黒いシャツの上に薄い白のジャケットを羽織っているが、ここに来るまでにかなりの労力を費やしたのか、背中には大きな汗の染みが目立っている。
「いや、入部希望の人だ」
「3年生、なんですけど」
申し訳ないと思いながらもそう打ち明けると、
「ああ、そうなんですか」
と、明らかに一歩引いたような返事をした。
正直、薄々分かっていた。気の知れた仲間内でしか使っていなさそうな散らかった部室だったし、おそらくここは仲間内で細々とやっていたに過ぎないサークルなのだろう。
勧誘もそんなにやる気が無くて、似たような臭いを醸し出していた僕だからビラを配ったのだろう。まさか3年生とは思っていなかったようだが。僕は人付き合いは少ない方だが、気が置けない仲間の中に、気の許せない年上が入る気まずさを僕は知っていた。
結局のところ、僕はよそから来た部外者に過ぎないのだということをここで察した。彼らレジスタンスに対して、僕は憎きドイツ兵であったのだ。
「ああ、あの……」
「やっぱ、入るの辞めます。冷静に考えて、3年だとゼミとか忙しいんで」
笹野の言葉を遮って、僕はそう言った。
我ながら、あまりにも稚拙な嘘だったとは思うが、この場合はきっと理由などどうでもいい。今は、とにかく入部を辞退することが何よりも大事なのだ。事実、笹野はほっとした表情を隠しきれていない。後ろの丸い男も同様だった。
会話の中で、なんとなく、僕と彼らの間のフィーリングの絶妙な合わなさを感じてしまっていた。具体的にどうとは言えない。けれど、僕と笹野がセックスをしても決していいものにはならないという事だけは言える。やらないけど。
サークルに馴染むかどうかという悩みは杞憂に終わった。なぜなら、サークルに入る事すらできなかったのであるから。
恥ずかしさから、1秒でも早くSF研究会の部室を出ようとして、ドアをスピーディーに開けようとしたところ、先ほどよりも大きな音を上げてしまい、余計に恥ずかしくなって逃げるように廊下を早歩きで駆け抜けた。
今からでもこの屋内にある、パンフレットを貰ったあのポップでライトでセクシュアルな軽音サークルに行ってみようかとも思ったが、今のやりとりで僕の精神は擦り切れてしまった。
もし挫けずに軽音サークルの門を叩いたとして、また今と同じような結果になれば今度は屋上から飛び降りる羽目になるかもしれない。
たぶん僕が死んでも、大学生がみんな幸せな生活を送れるように社会が変わるというワケはないけど。この世界は、見てくれの良い人間が死なないことには変わらないのだ。
サークル棟を出ると、昼休みが終わって軽音サークル群が一斉に練習を再開したらしく、ごちゃごちゃした騒音が聞こえてきた。バラバラの曲、バラバラのパート。もはや何か別の一つの前衛的な芸術とも言える。
たとえ、SF研究会にあのまま入っていても、全く仲良くならないまま終わるという事はなかっただろう。しかし、僕に残された時間はそれほど多くない。微妙な関係で終わるくらいなら初めから無い方がいい。
という意見で、長引いていた、やめた方がいい派とやってみなきゃ分からない派の脳内討論は終幕となった。
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