第13話 「ラジオ」さん
ぼくは、子供のころから「ラジオ」さんが大好きです。
ぼくが最初に出会った「ラジオ」さんは、ぼくの手によって、すでに大昔に、この世を去ってしまいました。
要するに、赤ちゃんだったぼくが、いじり壊してしまったわけですが、その証拠写真が残っています。
昭和30年台前半の白黒写真で、はっきりしたラジオの型番などは分かりませんが、おそらく当時の松下電器製の、かなり大きなホームラジオですが、なかなか、かっこいいラジオです。おそらく当時の最新型機だと思います。この「ラジオ」さんが残っていないのは、ちょっと残念です。
その後しばらくして、我が家にやってきたのは、ビクターの日本製ラジオです。「モデル8TAー7」というトランジスタラジオです。この「ラジオ」さんは、ぼくが中学生ごろまでは現役で活躍していました。これで、チャイコフスキーの第五交響曲やショスタコーヴィッチの同じく第五交響曲などをよく聞いていました。(当時は特に人気があったんでしょう、よく放送されていました。)
でも、やはり、いじり壊してしまったのは、ぼくであります。ただし、この現物は、いま目の前にあります。もったいないことですが、お詫びと言っては叱られますが、棚の上に展示してあります。
さて、一方で、ビクターのステレオ装置が小学校一年生の時に我が家にやってきました。
当時のステレオ装置は、セパレートでは無くて、一体型になっています。ラジオはAMとFMですが、FMはまだステレオチューナーになってはいませんでしたが、ステレオ放送開始に伴い、ステレオに改修することができるようにはなっていました。
これは、高校を卒業するころまで長くお世話になっておりました。
いまは、ぼくの後ろ側で、反対向きになって、他のラジオさんたちに埋もれてしまっています。
ぼくがクラシック音楽が大好きになったのは、この機械のおかげであります。
で、このステレオ装置は真空管式なのですが、それこそ通電すれば、まだラジオは鳴るはずです。明日あたり、周囲をかたずけてやってみようかなとか、思います。
ぼくが自分用に、最初に買ってもらったのは、やはりナショナルさんの「GXワールドボーイ」という「ラジオ」さんでした。
これはずいぶんよく使いました。
結果的に、短波・中波・FMの切り替えスイッチの具合が悪くなってしまって、事実上使えなくなりましたが、ラジオさん自体は、まだ残っています。最近おんなじ型の中古を入手しまして、楽しく聞いております。
クラウンの「TR-680」さんについても、申し訳のないことがあります。
これも中学生時代に買ってもらった「ラジオ」さんなのですが、結局いじくり壊してしまいまして、それを両親に叱られる事を恐れた僕は、おこずかいで新品を買い入れ、買ってもらった方は、家の前の川に「水葬」してしまったのです。
けれども、二代目の方も結局壊してしまいました。
まあ、ろくでもないやつです、ぼくは。
最近になって、同じ型の「ラジオ」さんを、やはり中古で入手し、今度は壊さないようにと、使うこともなく、しまい込んでおります。
しかし、使われないという事が、「ラジオ」さんにとって、よい事なのかどうかは、少し悩ましい事ですが。
壊してしまった、のではなくて、長い時間の間に自然に鳴らなくなった、というケースも、もちろんあります。
例えば、大学生時代に買った、アイワさんのラジオ「AR-777」もそうです。比較的最近まで、よく鳴っていたのですが、いまはイアフォンでしか聞けません。
また、非常に惜しかったのは、ホーマーさんの「EP-7」という、小さな小さなラジオさんです。イアフォン専用で、スピーカーはないのですが、この小ささは、スタンダードさんの、いわゆる「マイクロニックルビー」シリーズのラジオさんよりも、小さいものです。これも、まだ手元にありますが、いつの間にか自然に壊れてしまっていました。なんとか復活できないか、目下試行中であります。
変わったところでは、これもかなり小さなラジオさんですが、メーカー名は不明なのですが、「SOLAR BOY」と表に印刷された、太陽電池で稼働するラジオさんがあります。これは日本製です。これもずいぶん昔に買ったのですが、なんとこれは現役稼働します。お日様のもとでだけ、しっかり鳴ります。いやあ、うれしいものです。
就職して、最初のボーナスで買いこんだのが、ソニーの「ICF-2001」さんです。
これは当時画期的なPLLラジオさんでした。サイズはかなりでっかいのですが、これもよく聞きました。
通常の放送よりも、先般ついに放送終了となった『灯台放送』とか、『ボルメット』などを、よく聞いていましたね。
これは、今も現役稼働しております。
つい先日、この機種の後継機種だった「ICF-2001D」さんの中古を買いこみまして、ことらは、だいたい飾っております。
ところで、ぼくには子供時代からある種の「脅迫概念」がありまして、小さい頃は何かに手が障ると、そのあと三回か五回か手を「ふうふう」と吹かないと気が済まないという「くせ」がありました。周囲は「おかしな癖」と考えていたようですが、高校、大学、社会人と進んでゆくごとに、ある種の「自分だけの儀式行為」が進行してゆきました。例えば、そうですね、高校生時代には通学の国鉄電車(いまはJR)から私鉄に乗り換える間に歩く時に、一定の距離を一定の歩数で歩かなくてはならず、しくじったら、すべてやりなおし、とか。
大学生時代には、銭湯のお湯につかっているときに、必ずこなさなければならない、独自のお祈りとかがありまして(どこの宗教とも特別関係のない事なのですが)、これが結構長くかかるのですね。でも、途中で回数を間違うとか、考え間違えとかをすると、全て初めからやり直しです。おかげで湯船の中で、のぼせてしまって、脱衣場でダウン、なんてことにもなります。いやあ、格好良くないですよねえ。
これは社会人になっても続きまして、たとえば職場の階段を右足で降りきれなかったら、絶対やり直さなければならない、とかになります。もちろん理論的にはきわめて無意味ですが、そうしないと、次に命に係わる出来事が起こるという激しい恐怖に襲われてしまいます。なので、そこから解放されるためには、この儀式を遂行するしかないわけですね。ただ一回やり直してうまく行けば、それでOKなのですが、さすがに仕事中は周囲の目というものがありますから、内心に襲い掛かる恐怖と戦いながら、「仕事中はやり直しはしない」という選択肢以外には、あり得ません。それは周囲の方には関係なく、自分にとって大きなストレスになります。
こうした一定の形式を要求する心の中の強迫的欲求というものは、いつの間にか際限なく大きく広がるもので、お客様とお話しする際にも、お話の語尾をどれにするのか、とかいうようなことについても、仕事上の必要事項に、さらに上乗せをした形で心の要求を達成しなければならなくなるので、精神的には非常につらい状況になります。もし、しくじった場合は、お客様に確認したい、という欲求にかられ、それは、いくらなんでもできませんから、(でも他に用事ができた場合は、それにあわせて確認することもありましたけれど)その苦痛で、二~三日は、しっかり落ち込む場合もありました。
車の運転時などはもっと悲惨で、たとえば、うっかり石でもタイヤが踏むと、それが何だったのかを確認しないと、けっして前に進めません。二十分もあれば帰れるものが、二時間もかかったりしてしまいます。
職場で最後まで残業したような場合は、鍵をちゃんと閉めたかどうかが気になり、深夜に三回くらい職場と家とを往復したりなんてことも、稀ということでもありませんでした。
電車に乗る場合も、何か落としたのではないか、なんてことがひっかかりだすと、もう大変です。だから電車通勤なんて、それこそ地獄にはまる事、請け合いでしたのです。
また、お店でお金をちゃんと払ったかどうかが気になりだすと、(払ってなければ追いかけてきますよね、普通は。だからそれがないという事は、問題ないはずなんですが、そこが理屈どおりにはゆかないのが、まあ問題なんです。)これは警察官が追いかけてくるのでは、とか、訴えられるのでは、とか、まあろくでもないことが思い浮かぶようになりますから、そうなる前にお店に戻るか電話するかして、なんとか理屈をつけて確認しなければなりません。相手がよく知ってるなじみのお店なら、問題ないのですが、そうじゃない場合は、お店に戻って、さらに他の買い物をしてお金を払うのです。これで問題がなければ、すべてOKというわけですね。 出費がかさむので大変ですが、それで楽になれるのならば、自分としては、そのほうがよいのです。
まあ、例を出せば、さらに「悲惨」な事例はいくらでもありますが、お読みくださっている方には申し訳ない事ですので、このくらいにしますが、さてそれと「ラジオ」さんとが、どう関わるのかです。
こうした「強迫」概念には、時として一種のヒステリー症状がつきまとっていました。(最近、仕事を辞めてからは、このヒステリーっぽい症状は、ほとんど起こりません。ちなみに仕事中とか、公式の場では絶対に表には出さないのが最低限のマナーでしたが(これも本人は、かなり苦しかったのではあります)、上司や部下の方とは、おかしなことで、ぶつかったりしたことも、多少はありましたでしょうね。)そこで、このとばっちりを受けて、壊されてしまった『気の毒な』ラジオさんがあるのです。
ナショナルの「モデルR-137」さんです。
中学生時代の、ある日の午後、原因はもうわかりませんが、このラジオさんは、ぼくにベッドに叩きつけられてしまい、バーアンテナが折れて壊れてしまったのです。(これは父のラジオだったのですが・・・)
このラジオさんも、いま、目の前にいます。申し訳ないことをしたと思います。
実は、同様にして、ぼくは自分の大切な楽器を壊してしまったこともあります。
これも、その罪の証として、いまも手元にございます。
実のところ、こうした内心の苦痛を抱えておられる方には、仕事や周囲のこともあって、外向けには話も出来ず、一人でその苦痛を抱え込んでしまっている方もいらっしゃるでしょうし、なかなか、そこから抜け出せなくて、苦しんでいる方も、きっと、いらっしゃるでしょう。
ぼくは、自分がまさしくそうなので、偉そうなアドバイスなどは、まったくできません。
ただ、たとえば、ぼくの場合は、いい年して恐縮ですが、昔々に、亡き母が作ってくれた「くま」さんや、「パンダ」さんなどが、ぼくの意識の中で、よく太鼓をたたいたり、笛を吹いたり、ラッパを鳴らしたりして(わりとよくリズムがずれていますが)「がんばれー」と応援してくれます。(そこで、お礼に別項のお話を書いたりもしているのですが。)「ラジオ」さんも、そうしたぼくの応援団の仲間です。もちろん、「クラシック音楽」もそうですけれど。
まあ、これは明らかな「幼児性」であるし、「感情移入」過大症でもあるでしょう。職場で、上司から「いい年してなにやってるの!」と、よく批判されたのは、まず無理もない事です。
ただ、彼らがいつも、「まだ生きていてね、ぼくらのために。」と言ってくれるものですから、随分と助かってきている事だけは、事実なのです。
まいくろ詩編集 やましん(テンパー) @yamashin-2
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