生命価値

みらい

第1話生命価値

蟻を殺せる、蚊を殺せる、ゴキブリを殺せる。


猫は殺せる?犬は殺せる?人は殺せる?


この生き物たちの生命に何の違いがあるのか?

幼い頃は無意味に蟻を殺し、害がない程度に血を吸っていく蚊を殺し、気持ち悪いという理由だけでゴキブリを殺す。


そこに罪悪感は存在しない。だが、その瞬間に一つの命がこの世から消えている事実。


猫や犬が車に轢かれていたら私達は心を痛める。可哀想だと思い、そこに命の尊さを感じる。ニュースで殺人事件が報じられれば、少なからず心がざわつく。そこに失われた命を感じるから。


死んで何も思わない命と、死んで何かを思う命。どちらも違いは無いはずなのに、私達人間は知性を身に着けたことで、優劣を作った。


暑い夏の昼下がりだった。私の腕にはぷくりと赤く小さな腫れが出来ていた。些細だが痒みを感じる。


「あぁ〜血吸われた。マジうざい」

命に別状はないし、少し痒くなるだけなのに怒りだけは無闇に湧き上がる。どこにいるの?早く殺さなきゃ。


すると、頭上付近に奴の気配。おもいっきり手を合わせる。掌には何も残っていない。

どこにいる?次は耳元で気配を感じた。

ここだ!体中のインパルスを研ぎ澄まし、パチンと手を合わせる。手応えがあった。

掌には潰れた蚊と私から吸ったであろう血が狭い範囲で広がっていた。


手にこびり付いた蚊の死骸と血をティッシュで拭き取りゴミ箱に放り投げる。


「ふぅ〜、ザマー見ろ!」


蚊は嫌いだ。好きな人がいるのか疑問だし、何のために存在するのかも疑問である。この世から蚊がいなくなれば世界は1mmほど平和になるのではないだろうか?




その日の夕方、私は夕飯の材料調達のため買い物へ出掛けた。家を出る前に飼い猫のミーにいってきますを言う。今日も無愛想だが可愛い子である。

外はだいぶ過ごしやすい気温になった。夏なだけあり、18時を迎えても空は真っ青とまではいかないが、まだまだ明るい。


青空から夜空に変わる狭間の世界で、好きなロックバンドを聴きながら国道沿いを歩く。今日もせわしなく車はコンクリートの上を往来している。

この道路は50キロまで出しても良いが、速度を守っている人など誰もいない。何をそんなに急ぐのか?


そんな事を思っていると、目の前に一匹の真っ白な猫が。

何やらそわそわしている。猫の視線の先には車道を挟んで、向かい側の歩道。

心がざわついた。嫌な予感がする。だけど、私は何も起こるまいと鷹を括り歩を進める。


強い風が吹いた。一瞬目をつぶる。そして視線を戻した、その瞬間。

猫が道路に向かって勢い良く踏み出した。


「だめ」


そう口にした。たが、時すでに遅く。

道路でのた打ち回る猫。動くたびコンクリートが血に染まる。そんな光景に唖然としていると、駄目押しと言わんばかりにもう一台の車が、猫の上を無機質に通過する。


それでも猫は動く。生命を振り絞り、ピクピク体を震わせる。動く。

すると車の通りがなくなった。私は恐る恐る道路に足を踏み入れ、猫の側に近寄った。


そこにいたのは私の知る猫と違っていた。膨らんでいる部分と凹んでいる部分がある。凹んでいる箇所からは血が溢れ出し、傷口からは微かに骨が見えている。


それでも動き続ける猫を、私は避難させなければと思う。たけど、抱きかかえる事が出来ない。

手にした瞬間暴れだすのではないだろうか?

野良猫はバイ菌の塊だから、引っ掻かれたら自分の身が危険なのでは?


躊躇する。

目の前で命が失われようとしているのに、私は躊躇している。近くに動物病院がある。そこに連れて行ってあげられたら…



そのとき、人が通りかかった。濃いネイビーのビジネススーツに、甘い香水の香り、清潔感のある眼鏡の男性。仕事帰りのサラリーマンだろうか?


「すいません、猫が轢かれてしまって…すぐそこの動物病院からこの子を入れるケージをもらってくるので、車が避けるように誘導してもらえませんか?」


サラリーマンは快く頷く。眼鏡の奥の表情がいまいち読めない。お礼を言い、急いで数百メートル先の動物病院に走った。


事情を話すと、病院の先生はダンボールとバスタオルを渡してくれた。


私は急いで事故現場へ戻った。だが、そこにはさっきのサラリーマンの姿はなく、道路にはさっきより酷い惨状の猫の姿があった。

頭は半分削れており、胴体もおかしな方向に曲がり、その個体は赤く染まっていた。元の色が何色だったのか忘れてしまうぐらい、赤く染まっていた。

そして…もう動く気配は感じられなかった。


さっきまで自分の身を案じ、触れることが出来なかった猫を両手で持ち上げ、抱える。洋服に生暖かさが染み込む。そして赤に染まる。


重い、温かい、さっきまだ生きていたという気配がする。

ポタポタ血が滴る猫の顔を見ると、私は目を背けてしまった。この子はどんな顔をしていたのだろう?


私はとても太った猫を持ち上げたことがある。だが、今私に抱えられている猫は、太った猫の重たさとは違う重たさがあり、気を失った人間はとても重くなるという話を思い出させた。

これが、命を失った物の重み?

体の部位は削れ、血も大量に失っているのに、重くなるなんて不思議な話だ。


猫をバスタオルに包み、ダンボールに入れ動物病院に持ち込んだ。結論を言うと、死んだ動物に対し病院は何もしてくれない。

だが、先生は一つ教えてくれた。

「生ゴミとしてゴミ回収に出せばいいよ」


悪気の無いその言葉に、憤りの無い怒りを覚えた。

猫が生ゴミ?死んでいたとしてもそんな言い方はないんじゃないのか?

だが、病院で供養する事も出来ず、持ち帰るしか選択肢はなかった。


私は妙な重みのダンボールを抱え、国道沿いを歩いた。その時、自分がとても違和感のある物に思えた。往来する人々は私が猫の死体を抱えているなど想像することなく私とすれ違う。


すれ違う命ある者達と、命を失った物を持つ命ある私がその場には存在していた。

その事に対し、不思議な疎外感を感じていた。なぜ私だけこんな物を抱えているのか?そして、こんな物と思ったとき、私はこの猫に対し、生き物であった事を否定している事に気が付いた。


「生ゴミ」


脳裏にその言葉が過る。

そして、不意に昼間の蚊の事を思い出す。

私が潰した蚊も生きていた。生きる為に私の血を吸っていた。それを容赦なく私は潰し、命を奪った。そして何気なしにティッシュに包みゴミ箱へ放り投げた。


蚊に対し尊厳など一切感じず、ゴミ扱い出来たのに…猫に対してはゴミと言われた事へ怒りを覚えた。そんな自分に矛盾を感じる。


抱えるダンボールの中で猫が動き出すことを密かに祈る。そして、それが無意味な祈りである事も私は知っている。


気づくと夜が訪れており、夜空には星ではなく重苦しい雲が敷き詰められていた。そして、重苦しいダンボールを抱えながらそんな空を眺めると、無性に悲しくなった。




眠る前、私は生について考えた。何が正解なのか答えを探しても、ありきたりな綺麗事にしか辿り着けない自分に失望し、こんなタイミングに甘えてくる飼い猫のミーを抱き締め…私は泣きながら眠った。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

生命価値 みらい @debukinoko

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ