第14話『冥王星で待ってる』

 宇宙船の中で見た夢は、どれも記憶や思い出といった類に近しいものばかりだった。

 それは決まっておぼろげで、どこか温かい夢だったように記憶している。

 星屑が映し出された窓に小さな手をつき、窓の向こうに浮かんだ惑星だとか、彗星だとかを指差しては、後ろを振り返って、はしゃいでいる──そんな夢だった。

 指を差していたのも、はしゃいでいたのも、振り返っていたのも。

 只々構ってほしいという、子どもらしい思惑があったように覚えている。

 あの夢でいつも、私の一歩後ろに立っていた"あの人"とは、一体誰のことであったか。

 ──首に下げたペンダントを強く握りしめ、ベッドの上で丸くなる。

 夜風にさらされた小石のように冷たいこの孤独を、温めてくれる人など何処にもいない。


「──おはよう、ルーカス」


 そうして目覚めた私の頬には、今日も冷えきった一筋の涙が伝っている。


 *


「エリー。おはようございます。と言っても……あれからまだ、一時間も経っていませんが」

「う、ん……ルーカス? ここは──」

「ここは、宇宙港の休憩室です。怪獣を凍らせてすぐにエリーが眠ってしまったので、この部屋で少し休憩していたんです」

「……休憩室?」


 エリーは起き上がり、部屋を見回した。

 部屋は白い壁で囲まれた十畳程度のシンプルなものだった。

 部屋の隅には、3人分の古びたソファが、ぽつりと置かれている。

 自身の居る位置を見下ろすと、そこはなんとベッドの上だった。

 流石にフカフカとはいかないが、それなりに使用できる布団がワンセット揃っている。


「この布団、どうしたの?」

「"どうした"といいますか、部屋に入ったらこれが保管されていたんです。何か特殊な袋に真空状態で詰め込まれていたので、それが今まで風化を抑止したのかもしれませんね」

「そっか……?」


 エリーはベッドを手の平でさする。

 先ほどまでエリーに掛けられていたそれは、まだ人肌のような温かさを保っていた。


「──温かい」

「……? どうかしましたか?」

「ううん、何でもない。ねえルーカス。星の出口まであとどれくらいで着きそう?」


 ルーカスは地図を広げて、現在地に印を付ける。


「もうすぐで着きますよ。宇宙港には既に居ますから、あとはこの地図に示された発射台を探すだけです」


 地図は、肝心な宇宙港の部分だけ詳細に書き込まれている。

 あとは、発射台の数や道順を参考にしながら歩くだけで、すぐに宇宙船を発見できそうだ。


「凄い、本当にここまで来れちゃったね!」

「はい。これでちゃんと、宇宙船が見つかると良いのですが……」


 ルーカスは地図を畳み、ベッドに寄りかからせていたエリーのリュックを手に取ると、それらを彼女の足元に置いた。


「さて、そろそろ行きましょうか」

「うん!」


 エリーは頷くと、ベッドから床へと、飛び降りるように足を着いた。

 掴んだリュックの肩紐は、脱出艇で目を覚ました頃よりも、大分だいぶくたびれている。

 あれから随分と、歩いてきたものだ。

 ルーカスが扉の取っ手を握り、表記された"pullプル"の文字に従って手前に引く。

 部屋を出た先には、見渡す限りの発射台が並んでいた。

 ルーカスの話していた通り、二人は無事、宇宙港へと辿り着いたようだ。

 発射台はどれもボロボロに錆びついており、発射装置が正しく機能するのかすら怪しいところだが、件の地図によると、どうも目的の宇宙船は、何かしらの防壁が宇宙船全体を保護しているらしいので、保存状態は安心しても良さそうだ。


「ねえ、ルーカス」


 宇宙港を並んで歩いていると、不意にエリーが口を開いた。


「なんですか?」

「冥王星に帰ってお友達と再会できたら、まずはどんなお話をするの?」

「お友達──ああ、兄弟のことですか。そうですね……」


 ルーカスは考える素振りを見せながら、横目でエリーを見た。

 エリーは訳もわからず、首を傾げる。


「取り敢えず"宇宙戦争からの帰還を果たし再会した家族"ばりの、見事な抱擁ほうようをして……」

「ふふっ、なにそれ」

「それから、エリーを紹介しないといけませんね。きっと、兄弟達はエリーを歓迎してくれます」


 エリーは少し照れたように顔をほころばせると、後ろ手で両手を組んで、隣からルーカスの顔を覗き込んだ。


「それからそれから?」

「えっ? うーん、それから。そうですね……御礼を、言わなくてはなりません」

「……御礼?」

「はい。アレクに、助けてくれた礼を」

「アレク……さん? って、ルーカスのお友達なの?」

「そうです。彼もまた、宇宙船オルカに乗り込んだブラザー・ロボットの一人です。そして……僕を宇宙船オルカから、脱出ポッドへと逃がしてくれた兄弟です」


 ルーカスはそう言うと、進行方向に向き直った。

 エリーは「何の話だろうか」といった風に、小さく唸る。


「そういえばルーカスって、どうやって宇宙船からこの星に辿り着いたの?」

「えっと……僕らが乗ってきた宇宙船オルカも、宇宙船ワルフィスのように件の怪電波にやられてしまったんです。それと同時に、一緒に乗り込んでいた兄弟の一部が狂暴化し、オルカの重要設備を破損──そこまで異常事態の全貌ぜんぼうを突き止めたところで、生存者の捜索をしていた僕は、火災の熱にやられてしまったのですが……」

「……それで、アレクさんが助けてくれたの?」

「そういうことです。アレクは、動けなくなった僕を脱出ポッドまで運んでくれました」

「……アレクさんは、一緒に乗らなかったの?」

「おそらく彼もまた、狂暴化していたのでしょう。それでも彼は僕を救い、ついにはあの研究所にあったアンテナの破壊を遂行した──本当に、大したものです」


 ルーカスは、寂しさや誇らしさ、そして感謝といった様々な感情を織り交ぜた優しい表情を浮かべて、どこか遠くを見つめた。

 廃退した惑星の日はいつの間にか傾き、二人の影を斜めに伸ばす。

 薄灰うすはい色の千切れ雲を挟んだ夕陽の光が、宇宙港のアスファルトをだいだい色に染めていた。

 すると、ふと二人の目の前に、夕陽を遮る巨大な建物があることにエリーは気がついた。


「ねえ、ルーカス。あの背が高い建物ってなんだろう」

「背の高い建物?本当ですね……いや、あれは」


 角柱型のそれは、一部が金網で作られており、中の様子を外からでも伺うことができた。

 金網から覗く、鼠色の機械的なボディ。翼のような部位を確認したルーカスは、目を一杯に見開いた。


「エリー、宇宙船です……本当に、宇宙船がありました!!」

《ブラザー・ルーカス。目的地への到着を確認致しました。発射台の操作方法は分かりますか?》


 宇宙船の発見に喜びいさみたつルーカスであったが、レディの問い掛けに彼は、すぐさま我に返る。


「問題ありません。先ほど他の発射台を見ましたが、冥王星のそれと基本的なつくりは変わらないようです。おそらくこれは、ここから冥王星に移り住んだ地球人が昔作ったものなのでしょう」

「ルーカス!」


 遠くからルーカスを呼ぶエリーの声。ルーカスが声のする方に向き直るものの、そこにエリーの姿は無く、宇宙船を覆った件の防壁があるだけだった。


「……エリー?」

「こっちこっち! 裏に回って!」


 そう言われるまま、ルーカスは防壁の裏手へと回る。

 エリーは、金網の扉と並んで立っていた。


「ここから入れるよ!」

「ありがとうございます。扉に鍵は……付いていないみたいですね。それなら早速、中に入りましょうか」


 ルーカスは、扉を開ける。

 取っ手に結び付けられたまま垂れ下がっている鎖が、アスファルトに引きづられて小気味の良い音を立てた。

 扉を抜けると、防壁の中は意外と物が少なく感じられた。

 船頭を空に向けて発射台にセットされた小型の宇宙船が一隻と、その発射台に寄り添うように並べられた操作盤が数台。

 そして、備品でも入っていたのか、開けっ放しで放置された中身が空っぽのロッカーが2つだけ、部屋の隅に置かれている。

 流石に電気は供給されていないため、照明は一切の明かりを灯していないが、その代わりに防壁に設けられた金網の隙間から差し込む夕陽が、室内をきらきらと照らしていた。


「なるほど。壁に所々金網があったのは、そういう事でしたか」

「ねえねえ、宇宙船の中に入ろう!」

「そうですね。壁伝いに設けられた螺旋らせん階段が宇宙船上部につながっているように見えます。あそこまで上ってみましょう」


 ルーカスは、煉瓦積みの螺旋階段を片足で踏む。

 劣化の様子は無い。上ることができそうだ。


「大丈夫そうですね。行きましょうか」


 煉瓦製の足元とは打って変わり、木製の手すりはどこか心許こころもとない。

 螺旋階段に二人並べる程の幅は無いため、ルーカスはエリーに先頭を進ませることにした。


「未使用な上に、雨風をしのぐように宇宙船を囲んだ防壁──おそらくこの船は、非常用の宇宙船と考えて間違いないでしょう。船の中に当分の食料が積載されているとは思いますが、果たして実際はどうか……」

「この星から冥王星って、大体どのくらいかかるの?」

「そうですね。宇宙船のスペックにもよりますが、大凡おおよそふた月くらいでしょうか」

「ふ、ふた月も……!?」

「ああっと、危ないです!」


 振り返りざまに体勢が崩れたエリーを、ルーカスが後ろから支えるように受け止める。

 二人は互いに向かい合い、小さく安堵の溜め息をいた。


「ふた月は確かに、少し長く感じるかもしれません。しかし、これでも技術はとても進歩した方なんですよ。2000年初期に旧地球から冥王星に移住してきた宇宙船なんか、10年もかけて冥王星まで航海したらしいです」

「10年もあったら、私なんか大人になっちゃう……!」

「なので、コールドスリープで生命の成長を最小限に抑えるという手段もありましたが、当時はそれすらありませんでしたからね……まあ、今ではコールドスリープの必要すら無いような速さで到着してしまうわけですが──さて、到着です」


 螺旋階段は、宇宙船の傍に鉄板の踊り場を設ける形で、頂上を迎えた。

 踊り場は、宇宙船に搭乗するための橋──所謂いわゆる、渡し板の役割を果たしているらしく、閉ざされた乗降扉と密接していた。


「扉には、取っ手もハンドルも付いていませんね……自動ドアでしょうか?」

「じゃあ、近くまで行けば開くんじゃないかな?」


 エリーはそう言うと、ルーカスをおいて踊り場を早々に通過する。

 彼女が扉の前に立った瞬間、電車の発車ベルによく似た、けたたましい電子音が室内全体に鳴り響いた。


「えっ?」

「エリー、下がってください!」


 ルーカスは動揺するエリーを退げ、日除けのように彼女の前に立つ。

 暫くして電子音は鳴り止むと、宇宙船の至る照明が青色に点灯し始めた。

 目の前の扉も同様に、半透明のラインに沿って青色の光を灯す。

 どうも、エリーが接近したことで、宇宙船が目を覚ましたらしい。

 すると宇宙船は、レディのような淡々とした口調で、待っていましたと言わんばかりに言葉を発した。


〔マイクテスト、マイクテスト。私の声が聞こえますか?〕

「言葉を話す宇宙船……ですか。はい、聞こえています。この宇宙船の──いや、貴方の名前をお尋ねしてもよろしいですか?」

〔スタッフであることを確認するまで、一切の情報は開示できません。お名前の提示をしてください〕

「名前?」


 ルーカスの問い掛けに、宇宙船は相槌すら打たない。

 どうやら、名前を提示するまではだんまりを決め込むつもりらしい。


「名前を教えればいいの? 私はエリーだよ!」

〔スタッフ名簿に該当する名前は見つかりませんでした〕

「ええー、じゃあ……ルーカス?」

〔スタッフ名簿に該当する名前は──〕

「ブノワ、です」

「……えっ?」

「彼に、有事の際はこの宇宙船を使うようにと、紹介されました」


 ルーカスは、日記の裏表紙を宇宙船に見せつけ、そう告げた。

 裏表紙の隅には、先日も見た"Benoitブノワ"の文字が書かれている。

 宇宙船は数秒の間を置いて、ピンポーンとクイズ番組さながらの正解音を鳴らした。


〔スタッフNoナンバー.027、ブノワ様のお客様ですね。確認致しました。私は、当宇宙船〈クラウン・フィッシュ〉のオペレーションシステム"シスター"です。足元に気を付けて、お入りください〕


 宇宙船がそう言うと、目の前の扉が蒸気を吐くような音を立てて、独りでにスライドする。

 宇宙船は、二人を認めたようだ。

 二人は促されるまま、船内に足を踏み入れた。

 真っ白な通路に、床と天井の中心を直線に這う、青色の照明。

 室内は、500と数年の月日を感じさせないほどに、清潔が保たれていた。

 壁から聞こえる風の音は、空調だろうか。室内は、書店や喫茶店のように、程よく涼が取られている。


「わぁ……凄く綺麗だね!」

〔いつでも長旅に備えられるよう、定期的に清掃を行っています〕

「ロボットでもいるのですか? ですが、ここの惑星にいるロボット達は確か──」

〔当宇宙船の従業員は、外界からの妨害を一切受け付けないようにプロテクトを施しています。そのため、従業員に御要望がございましたら、親機である私にお申し付けください〕


 どうやらシスターは、怪電波の存在と、それが引き起こす影響をおおかた把握しているらしい。

 年季のあるプログラムの筈だが、知能レベルはレディやルーカスと同等か、もしかするとそれ以上かもしれない。

 "「僕がブノワだ」と、早まった嘘を吐かなくて良かった"。

 ……内心ルーカスは、そう安堵した。


「ああ、そうだ。この船に食糧は残されていますか? 二ヶ月分ほどあると嬉しいのですが」

〔当宇宙船は現状、連続最大三年間の滞在が可能です〕

「なるほど。それなら大丈夫ですね。それでは早速、出発の準備をお願いできますか? 行き先は冥王星でお願いします」


 ルーカスがそう言うと、シスターはピカピカという電子音を鳴らして、何らかの処理を開始した。

 10秒ほど経過したところで、天井のスピーカーから、ブッブーとこれまたクイズ番組のような音が鳴った。


「どうかしましたか?」

〔システムエラーを確認。防壁の展開を、確認できませんでした。システムエラーを改善して防壁を操作したのち、再度お声掛けくださいませ〕

「貴方に防壁の操作をお願いすることは可能ですか?」

〔防壁操作台へのアクセス権は、当宇宙船のスタッフ乃至ないし・代行者の方にのみあるため、オペレーションシステムからの遠隔操作は不可能です〕


 どうやらまた、先ほど言っていた"プロテクト"というものが関係しているようだ。

 代行者とは、ルーカスの事を指しているらしい。


「わかりました。それでは、その防壁操作台という装置の場所まで、案内していただけますか?」


 シスターが「承知しました」と言うと、床と天井を這う青色の照明が黄色く変化した。

 照明は、ゆっくりと点滅している。


〔黄色のラインに沿って、お進みください。操作台までご案内します〕


 ルーカスは頷き、道なりにキャタピラを転がし始めた。

 すると、歩き出してすぐの所に"relax roomリラックスルーム"と表記された扉が視界に留まった。

 ルーカスは、扉の前で立ち止まる。脳裏に浮かぶ、今は亡きアレクとオニキスの姿。


「ルーカス?」

「ああ、いえ。何でもありません」


 ルーカスは「行きましょう」と続けて、再びキャタピラを転がした。

 エリーは頷き、後ろをついて歩く。

 黄色い照明は、二人を宇宙船の奥へと導くように光を灯している。

 しばらく道なりに進むと、初めての分岐路が現れた。

 左の下り階段の方には黄色い照明。直線の道は青い照明だ。


「左ですね」


 二人は黄色い照明に従って道幅の狭い階段を下る。

 階段は発射台のように螺旋階段となっており、両端を白い壁で囲まれている。

 しばらく階段を下った時だった。

 「バツン」という、テープでも千切れるような乾いた音が階段に響き渡った。

 

 突然の出来事にエリーは驚き、一瞬肩を浮かせる。


「な、何の音!?」

「……ああ、すみません。キャタピラが一瞬、階段に引っかかったみたいです」


 エリーは「なーんだ」と安堵し、再び歩き出す。

 ルーカスもまた、苦笑いを浮かべてキャタピラを進ませる。

 ふと天井を見上げると、黄色いラインが視界の先で途切れているのが見えた。

 その先にあったのは、扉だけの行き止まりだった。


「ここですか」


 ルーカスは扉に手を掛け、前へと押し開く。

 そこは、発射台だった。

 どうやら二人は、宇宙船から発射台へと戻って来たらしい。

 金網から夕陽はもう漏れておらず、宇宙船の青い照明だけで視界が確保されている。


「ここって、最初に上った階段の下?」

「いつの間にか夜になっていますね……ここに、操作台があるのですか? 船内じゃなかったんですね」

〔この発射台の防壁を操作する時は、この発射台を使う時だけですから。当然、宇宙船ではなく、発射台本体に装置は取り付けてあります〕


 言われてみればそれもそうだと、ルーカスは思った。

 仮に冥王星や新地球からこの宇宙船を飛ばすとしたら、旧地球でしか使えない設備などは船内に積み込むだけ無駄なのだ。


「すみません、今のはロボットあるまじき愚問でしたね。それでは早速、操作台の状態を確認しましょうか。えっと、操作台は……おや? ありませんね」


 操作台を探すルーカスを横目に、エリーは顎に手を添えて、うんうんと唸る。

 そして、何かを思い出した風に目を見開いた。


「そういえばここにきた時に、入り口側の近くにあったよね? ボタンがいっぱい付いた機械みたいなの」

「ああ、何台か並んでいたアレですか。もしかするかもしれませんね、行ってみましょう」


 二人は、宇宙船沿いにぐるりと発射台を散策する。

 半周して、発射台の入り口が視界に入ったあたりで、それは見つかった。操作台だ。


「これです。思ったより単純な操作で動きそうですね。しかし……システムエラーとは、一体どういう事でしょうか?」


 ルーカスは、防壁を展開するボタンを押した。

 しかし、操作台も防壁も、まるで変化を見せなかった。

 ルーカスは、首を傾げてもう一度ボタンを押してみるが、やはり動く様子は無い。


「システムエラーといいますか、これはまさか……」

《バッテリーが切れているか、接続されていないようですね》

「レディ。やはりこれは、バッテリー切れですか」

《替えのバッテリーか、代替できる燃料などは近くにありませんか?》


 ルーカスは、辺りを見渡す。しかし、それらしき保管庫はどこにもない。


「ふむ。シスター、バッテリーが保管されている場所などは分かりませんか?」

〔後方のロッカーに15個ほど備蓄してあります〕

「ロッカー? でも、あのロッカーは確か……」


 ルーカスがそう言いかけた時、エリーは既にロッカーへと向かっていた。

 彼女は開けっ放しのロッカーに首を突っ込むようにして、中身を確かめる。

 数秒経って、エリーはロッカーから片眉を下げた顔を引っ込めた。


「何も無いよー!?」

「ですよね……これは困りました」


 ルーカスは溜め息を吐き、操作台に向き直った。

 操作台に取り付けられた小窓のようなモニターは、真っ暗なままで何も表示をしていない。

 ルーカスは、台の周りをウロウロとしながら、ヒントになる物が無いかを探す。

 すると、操作台の背中に付いた四角い長方形の蓋が目に留まった。

 どうやら、この中にバッテリーが入っているようだ。

 ルーカスはツマミに指を掛け、銀の蓋を開ける。

 ルーカスは、途端に嫌そうな顔をした。


「うわっ……なるほど、そうきましたか」


 そこには、液漏れしたバッテリーがはめ込まれていた。

 何年と昔に漏れ出てしまったバッテリー液は白く固化し、びっしりとホルダーにこびり付いてしまっている。

 これでは、仮に新しいバッテリーが見つかったとしても、ホルダーが使い物にならないだろう。

 ルーカスは、一先ひとまず液漏れしたバッテリーを取り出す事にした。

 鷲掴みにして手前に引っ張り出すと、バッテリーはパキパキという音を立てながらホルダーから外れた。


「これは、重傷ですね。石のように固まった液が、ホルダーに付着しています……おや? これは──」


 ルーカスは、ホルダーのバッテリーで隠れていた部分に、差し込み口のような物を見つけた。

 身体を乗り出して、それを注視する。


「これは……充電プラグの挿込口? それにこの形のプラグは、冥王星でも一般的に扱われているものです」

《それは、VTMケーブルのプラグ挿込口です。約600年前にカスタムテクニカ社で開発・販売されたもので、専用のアダプタさえあれば、構造上、あらゆる種類の端子で変換して使用できます。その為、私達ロボットや電化製品・タブレット等様々な製品で幅広く採用されています》

「それはつまり、私なんかにもそのアダプタとやらが組み込まれているということですか?」

《勿論、ブラザー・ルーカスにも例外無く備え付けられています》

「なるほど」


 ルーカスは顎に左手を添えて、青く光り輝く宇宙船を見上げた。

 金網から夜風が吹き込む。

 冷たい風なのだろう。エリーは肌寒そうに縮こまってみせるが、人よりも温度変化に耐性の強いルーカスは、まるで夜風に気付いていないかのように静止している。

 宇宙船と操作台とを見比べるように、ただ首を動かしてばかりいるルーカスに痺れを切らしたエリーは、彼の名を呼んで顔を覗き込んだ。


「ルーカス、どうかしたの?」

「ああ、いえ。エリー、少しよろしいですか?」

「なあに?」

「今から操作台を直すのですが、少し完了まで時間がかかりそうなので、エリーは先に休憩室で休んでおいていただけますか?」


 エリーは色々と聞きたそうに一瞬表情を曇らせたが、ルーカスが思いついた最善策でもあるのだろうと、口をつぐんで深く頷いた。


「ここからなら休憩室まで、そこの螺旋階段をまた上ればすぐですね。出発の準備が整ったら、呼びに行きます」

「……うん。ルーカス、頑張って!」


 エリーがそう言うと、ルーカスは左手を固め、親指を立ててみせた。

 それを確認したエリーは、螺旋階段へと駆け足で向かう。

 チラチラとこちらを見ながら走るエリーに転ばないよう注意を促してから、ルーカスは操作台の方へと向き直った。

 数秒の沈黙。エリーが階段を駆け上がる小気味良い音だけが発射台に響き渡る。


《ブラザー・ルーカス》


 レディの呼び掛けに、ルーカスは「はい」と短く返事をした。

 そう返事をしている左手は、背中の格納部を何やらまさぐっている。


《それで……よろしいのですか?》

「レディは、反対ですか?」

《貴方がそれを最善だと思っているのなら、特段止めたりはしません。ただ──》

「勿論、分かっています。なので……シスター」


 ルーカスは、宇宙船の方へと視線を向ける。

 すると、宇宙船の照明がアイコンタクトのように二回点滅した。


〔御用件を、お話しください〕

「ひとつだけ。僕のお願いを、聞いていただけますか?」


 格納部から引き抜かれた彼の左手には、オニキスの頭部が先に付いた青いケーブルが握られていた。


〔──承りました〕


 青いケーブルのプラグはオニキスから切り離され、ルーカスの後頭部へと取り付けられた。


「大丈夫──想像していたよりは、マシな結末です」


 そして、残されたプラグの片端は、彼の手で操作台へと繋がれた。

 彼の身体が「バツン」という音を立てながら、大きく跳ね上がる。


「っと──ははっ、駄目ですね。やはりこれまで、身体に無茶をさせすぎました。ですが……こればかりは"よくぞここまで持ち堪えた"と、自賛せざるを得ません、ね」


 ルーカスは立ち眩みながら、俯き気味な姿勢で操作台のボタンを押した。


「それではシスター。"あと"は任せました」


 間も無く四方に展開する防壁。

 宇宙船は、大地を揺らしながら離陸体勢へと移行を始めた。


 *


 ──廃退した惑星での旅は長くて、けれども存外、あっという間で。

 流れ星が視界の端から端へと流れるくらいの速度で、いつの間にか宇宙船に辿り着いていた。

 けれども、宇宙船が惑星を飛び立ってから。

 それからがとても、長かった。

 "それは、冥王星までの移動時間が2ヶ月間という長期間だったからだ"と言うとそれまでだが、それは絶対時間に視点を置いた場合の理由であって、私が今つづっているのは、俗に言う体感時間に視点を置いた話である。


 すなわち──宇宙船での2ヶ月間はまるで、揺り籠を延々と眺め続けているかのように、とても永いものに感じたのだ。


 *


「ルーカス、まだかなあ」


 エリーはひとり休憩室のソファに腰掛け、何処とも言えない部屋のひとすみをじっと眺めていた。

 ソファと相方のように置かれた机に両肘りょうひじをつき、手の平で頬を包む。

 部屋の一角で揺れている揺り籠の置き物は、キリキリと軋んだ音を立てながら、ブランコのような動作の反復を続けていた。

 内股気味に開いた足のかかとを時折浮かせて、膝をぴょこぴょこと上下させながらエリーはルーカスの事を考えていた。

 頭に浮かぶ彼の後ろ姿は、ボロボロな切り口を残して右腕が欠損している。


「冥王星に帰ってからも、ルーカスとレディさんは私と遊んでくれるかな? ルーカスのお友達と会って、ルーカスとレディさんと三人でテラモリバーガーを食べに行って……あっ、そうだ。冥王星に着いたら、私からもルーカスの博士にお願いしなくちゃ」


 エリーはそう言うと、壁に貼られたポスターの宇宙飛行士と向き合うように、ソファから素早く起立した。


「ルーカスは私を助けようとして、怪獣さんに腕を壊されました! なので、新しい腕を付けてあげてください!」


 どうやら、ポスターの彼が博士という設定のリハーサルらしい。


「えっと、それから……ルーカスとテラモリバーガーを食べに行きたいので、お口も付けてあげてください! それで、それから一緒に胃袋と──」


 不意に、宇宙船の外から爆竹のような炸裂音がして、エリーの言葉は打ち消された。

 エリーはしばらく何事かと硬直し、やがてその音が以前も聞いたことのある音であることに気付く。


「さっきの音って確か、ルーカスの足が階段に引っかかった時にも──」


 ルーカスに何かがあったのかもしれない。そう思ったエリーは、螺旋階段に向かおうと休憩室のドアノブに手を伸ばした。

 しかし、それをひねる前に休憩室のスピーカーからノイズ混じりのチャイムが聞こえてきた。

 エリーはドアノブから手を離し、壁掛けのスピーカーへと目を遣る。


「あー、あー。エリー、僕の声が聞こえますか?」

「ルーカスの声……? うん、聞こえてるよ!」

「まあ、こちらからエリーの声は聞こえないので、確認したところで、なんですが」


 スピーカーから聞こえてきたのは、まぎれもないルーカスの声だった。

 エリーはソファに座り直し、スピーカーを見上げながら続きを待つ。


「無事、防壁の展開を完了しました。じきに、宇宙船は離陸を始めます。この宇宙船は見たところ状態も良く、性能も500年前当時の宇宙船とは思えないほどの逸品いっぴんです。きっと安全に、冥王星までエリーを運んでくれることでしょう」


 ルーカスの言葉に、エリーの背筋がぞくりと震えた。

 嫌な予感が、彼女の不安を煽る。


「ルーカス、何を言ってるの……?」

「すみません。何も言わずにこんな事をしてしまいました。ですが、これしか思いつきませんでした。どうかお許しください、エリー」

「ルーカス、何をしたの? "こんな事"って、何のこと?」


 すると、エリーの問い掛けが聞こえていたかのように、ルーカスはひとつ咳払いをして続けた。


「僕の残されたエネルギーを操作台の電源として、供給しました。ああ、エネルギーというのは、電池みたいなもので……」

「何でそんな事をしたの!? そんな事したらルーカス、死んじゃうよ!!」


 エリーは思わずソファから立ち上がり、声を荒げた。

 だが、エリーの声が届いていないルーカスは、当然構わずに話を続ける。


「本当に急な話ですみません。ですが、遅かれ早かれ、僕はこの機体での生命活動を停止せざるを得ない状態にありました。それが数日、早まっただけに過ぎません」

「それって、ルーカスが病気みたいに死んじゃうって事? ……どうして。ルーカス、元気にしてたのに」

「エリーは優しいですから、きっとその事を先に告げると"それなら冥王星に行かなくても良い"と言い出して聞かなくなるだろうと思いました。なので、秘密でこんな事をしました。それにもう、限界がすぐそこまで迫ってきています。つい先ほど、キャタピラがまともに動かせなくなってしまいました。冥王星まで貴方を送り迎える事は、できそうにありません……本当に、不甲斐ないです」


 おそらく"先ほど"とは、あの千切れるような炸裂音がした時の事だろうと、エリーはすぐに察しがついた。

 そして、ルーカスがそうなった原因もまた、容易に察しがついていた。


「もしかして、あの冷凍庫の時に──」

「僕が動けなくなって、エネルギーを只々浪費して死んでしまえば、帰る手段を失くしたエリーは、本当にこの惑星で一人ぼっちになってしまいます。僕はそれを望んでいませんし、それを僕の消えかけの命を使う事で解消できるのならば、僕はこの命を躊躇ためらいなく使いましょう。だからどうか、納得してください、エリー。どちらにせよ、僕はもう貴方と共に冥王星に帰ることが叶わない身体です。それならせめて、貴方の未来だけでも、守らせていただけませんか」


 ルーカスがそう告げた直後、宇宙船は唸り声を上げて大きく揺れ始めた。

 エリーは咄嗟に、ソファの肘掛けにしがみ付く。宇宙船の揺れは治まる気配を見せずに、段々と大きくなっているようにすら感じられた。


「な、何……!?」

〔宇宙船クラウン・フィッシュ、間も無く離陸致します。御搭乗中の方は転倒の恐れがございますので、手摺てすり等を握って、しばらくお待ちください〕

「離陸……!? 駄目、駄目だよ! まだルーカスが乗ってないもん……!! シスターさん、止めて!! 中止してよ!!」

〔……当宇宙船の現在の代行者は、ルーカス様であると認識しております。そのため、ルーカス様から指示を戴いている場合は、その指示を当オペレーションシステムの最優先事項とさせていただきます〕


 激情するエリーに反して、シスターは直線に並べたような説明を、淡々とした口調で述べた。


「……"指示"? ルーカスが、何か貴方にお願いしたの?」

〔はい。"宇宙船までエリー様を送り届けるように"と、お願いをされました〕

「それならルーカスを運んでからでもいいじゃない!それまで待ってよ! ルーカスを扉の前まで運べばいいんでしょう!? この前だって、私一人でルーカスを運べたもん。だからきっと、大丈夫だよ! ねえ、だから——」

〔その点に関しては、ルーカス様のお付きであるレディ様から伺っております。キャタピラが損傷し機能していない現状、ルーカス様をエリー様が宇宙船まで運び込むことは不可能であるとのです〕

「そんなの、やってみないと分からないよ……きゃっ!!」


 エリーは体勢を崩し、そのままソファへと倒れ込んだ。

 揺れは更に勢いを増し、時折、エリーの腰をふわりと宙に浮かせた。

 離陸の準備はエリーの訴えも虚しく、着実に進められていたのだ。


「ねえ、まだ間に合うよ……シスターさん、お願いだから止めて。ルーカスと一緒じゃなきゃ私、嫌だよ。ルーカスを置いて、行きたくない」


 座っていたソファは、エリーの涙ですっかり濡れていた。

 エリーは呟くようにシスターに説得を続けているが、対してシスターはあれから何も答える様子が無い。

 宇宙船はゴトゴトという音で唸りながら、何か別の機器の作動音まで鳴らし始めていた。

 それらの音はまるで「早く行くぞ」と、エリーを急かしているように聞こえた。


「エリー、聞こえますか?」

「ルーカス!!」


 ノイズ音と共に声を発したのは、ルーカスだった。


「先ほど言い忘れていましたが、シスターの言うことは、しっかりと守ってくださいね。それから、分からない事や困った事があったら、彼女に聞いてください。彼女はきっと、貴方をサポートしてくれます」

「お願い、ルーカス! シスターさんに宇宙船を止めるように言ってよ! 私、ルーカスを置いて帰りたくない! さよならなんて、まだしたくない……!」

「エリー」


 ルーカスの静かな呼び掛けに、エリーはゆっくりと口を閉じた。

 なぜならばエリーは、知っているからだ。

 こんな風に、ルーカスが名前を呼ぶ時は決まって何か、大切なお願い事をする時なのだ。


「しばらく──2ヶ月程、お別れしましょう。冥王星に保管されているスペアの僕が、この記憶を受信してくれていれば"エリーと旧地球の事を知っている僕"は、冥王星のベッドで再び目を覚まします。だから、心配しないでください。今の僕は死んでしまいますが、僕の心と記憶はきっと、次の僕へと受け継がれます」


 やがて、船内は激しい浮遊感に襲われた。

 右か左か、上か下か。何処からとも言いきれないほどの圧が至る方向から宇宙船を揺らし、段々空へと持ち上げていく。


「なので、エリー。冥王星に着いたら、きっと僕に会いにきてください。僕も真っ先に、貴方を迎えに行きます。だからどうか、お気をつけて。僕は先に──冥王星で、待っています」


 エリーは固定されたソファに身をうずめ、ルーカスの声に耳を傾けていた。

 それは温かくて優しい、すっかり聞き慣れた声だ。


「それでは、またお会いしましょう──兄弟」


 ルーカスがそう言い終えると、スピーカーは糸が切れるような音を立てて、静かになった。

 船内の揺れも、まるで通り雨のように間も無くおさまった。


「うん……うん。また、絶対に会おうね。ルーカス」


 惑星の地から足を離した宇宙船クラウン・フィッシュは、あっという間に雲間を突き抜け、宇宙空間へと到達した。

 休憩室の窓には、箱庭のように小さくなった白い砂漠の景色が、無数の星屑と共に広がっていた。


 *


「行ってしまいましたか……シスター、船内放送を使わせていただき、ありがとうございました。僕が入り込んで、システムに支障はありませんでしたか?」

〔はい、宇宙船の運航に支障はありません〕

「それは良かった。それでは、シスター。機会があったら、冥王星でまたお会いしましょう。エリーを、よろしくお願いします」


 シスターは〔かしこまりました〕と告げ、発射台に置かれたスピーカーから気配を消した。

 きっと、宇宙船の方へと帰ったのだろう。

 エリーを乗せた宇宙船は、既に煙を残して冥王星から見えなくなってしまった後だ。

 ルーカスは、空を見上げたまま後頭部のケーブルを握りしめ、それを力強く引っこ抜いた。

 ケーブルを放ると同時に、大の字で発射台へと倒れ込む。

 キャタピラも右肩も、フロントの装甲も。ボディの至る所が、まるでジャンク品のようにボロボロだ。

 ルーカスは、こころよに大きく息を吐いた。


「ははっ……本当に無茶をし過ぎましたね。これでは冥王星に帰れていたとしても、機体変更は確実でした」

《ブラザー・ルーカス、お疲れ様でした》

「ああ、レディ。そちらこそ、お疲れ様でした。こんな事に巻き込んでしまい、申し訳ありませんでした」

《お構いなく。それが私の──オペレーションシステムの、務めですから》


 ルーカスは「相変わらず御立派な相方だ」と言わんばかりに、誇らしげな笑みを浮かべる。

 発射台の上で、そよ風に吹かれた砂粒が、右から左へと流れていくのを眺めてから、ルーカスは両の目を閉じた。


「僕に残されたバッテリーは、あと何分くらい保ちそうですか?」

《推定、残り約5分といったところでしょうか》

「結構使っちゃいましたね。太陽光電池も冷凍庫で駄目になってしまいましたし……今度の機体はもっと、全体的に耐寒性を付けなくてはなりませんね。例えば──」

《大きなトカゲが凍るような場所でも耐え得るくらいの耐寒性を、ですか?》

「正解です」


 ルーカスは含み笑いでそう言うと、頭の後ろで両腕を組んだ……つもりだったが、右腕を失ったことを思い出し、自身の胸の上に左手を置き直した。


「何というかどうも、慣れませんねこれは。しかし冥王星で目を覚ましたら、今度は右腕があることに違和感を覚えてしまいそうです」

《ブラザー・ルーカスの記憶のバックアップを試みましたが、冥王星のスペアがそれを受信する可能性は、極めて低いものだと思っていてください》

「その時は、その時です。レディがスペアの僕に、この廃退した惑星の事や、エリーの事について教えてあげてください。オルカに乗り込む前夜までの記憶は、一応バックアップも取ってありますし」

《しかし、バックアップが取ってあろうと無かろうと、ここにいる貴方は変わりなく死んでしまいます。あちらで目を覚ますのは"貴方と同じ記憶を持っている別の存在"に過ぎません。今の貴方が、冥王星でエリーや他の隊員と再会を果たすことができるわけではありません。ブラザー・ルーカス、貴方は本当にこれで良かったのですか?》


 ルーカスは、閉じていた両目を薄く開き、視線の彼方かなたに見える千切れ雲を、じっと見つめる。そうして再び、目を閉じる。


「ええ、いいんです。それに、今更ではありませんか。……"36号"。僕はこれまでに35回死に、35回ベッドで目を覚ましてきました。そして僕は、その35人の自分ルーカスの延長に過ぎません。それが今度は"36回目の僕"が目を閉じて"37回目の僕"が目を覚ますだけの話です」

《36回看取る身にも、なってください》

「ははっ……先の旅で、僕だって十二分じゅうにぶんに兄弟達を看取りました。それで許してください──おや」


 突然、ルーカスの頭のランプが、赤色にゆっくりと点滅を始めた。


「これは」

《バッテリー残量が、残り3%を切りました》

「もう5分が経つのですか。あっという間ですね」

《省エネモードに移行するため、オペレーションシステムを終了致します》

「いいえ、それはやめておきます……それよりも」


 ルーカスはそう言って、耳元の無線機に手を添えようと左腕に力を込めた。

 しかし左腕は、まるで自分のものでないかのように微動だにしなかった。

 どうやら、彼が自覚している以上に、身体は限界を迎えているらしい。


「レディ。 僕のバッテリーが切れるまで、もう少し無駄な話をしませんか?」

《推奨は、致しません》

「最後くらい君と、無駄な話がしたいです。君とは今まで、業務的な話しかしてこなかったから。それに……一人で静かに死ぬのはきっと、今までのどんな事よりも辛くて、寂しいものですから」

《……私と会話をしても、何も面白くありませんよ》


 レディは寂しさを含んだ口調でそう呟いた。

 ルーカスは、優しく笑いかける。


「それでもいいんです。他愛も無い話を、しましょう。僕達は同僚や同じ船の仲間である前に、友ではありませんか」

《……ブラザー・ルーカス。貴方は……》


 ルーカスは、何も言わずに耳を傾ける。


《……貴方はコーヒーを飲めないので、もしも私が貴方にコーヒーを淹れたとしても、それは貴方と話すキッカケにはなり得ません》

「……"恋するプリムラ"の話ですね?」

《フリスクマンはあのお便りに対し、人間向けの回答をしていましたが、あの回答はベストな回答だとは思いません。何故ならば世の中には、コーヒーが苦手な方や、コーヒーを飲めない方が多く存在するからです》

「ああ、そ……は、フリ……思います、よ」

《……ブラザー・ルーカス?》


 ルーカスの声は、飛び飛びの無線のようにかすれ途切れて、レディに聞こえた。


「ああ、バッテ……が、切れるみた……です。思ったよ、も、案外早……ね。おやすみなさ、レディ……冥王星の方で、また」

《わかりました。……ルーカス。最後に、お尋ねしたいことが》

「……」


 沈黙。返事は、無かった。

 その沈黙は、彼女がルーカスの死を悟るための要素として、十分だった。

 レディとルーカスとを繋ぐ無線機は、ゆっくりと赤く点灯している。

 レディは無線機の向こうで目を伏せ、どこか寂しげに言葉を続けた。


《アプローチは、届いたでしょうか》


 片耳の無線機は、息をひきとる様にプツリと音を立てた。

 静まり返った発射台には、雲間を抜けた柔らかな朝日が射し込んでいた。

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