第3章 雨雫


◆ 第3章 雨雫



[9月8日 木曜日]


   ○


 雨雲は、昨夜のうちに過ぎ去ってしまったようだった。

 学校が終わると、私は『あまやどり』に向かった。昨日借りた傘を返すためだ。

 晴れた日に、しかも明らかに自分のものではない傘を持ち歩くと、少し周囲の声や視線が気になってしまう。

 私はヘッドフォンというシェルターに閉じこもり、音量を上げて外に意識を向けないようにした。


 私の家の最寄り駅から高校の最寄り駅までは、電車で1時間半ほどかかる。だから私は、高校に入るまではこの街にはほとんど来たことがなかった。

 駅の周辺は開発が進んでいるのだけど、それでもやはりここは一地方都市にすぎない。

 駅から10分も歩けば、そこには色褪せた民家が並んでいたり、田んぼが広がっていたりする。現に私の高校も、緑に囲まれた小高い山の上にある。


 このあたりは高低差が激しいらしい。駅や学校、それから『あまやどり』のあるあたりは比較的標高が高いのだけど、『あまやどり』から東方向は下り坂となっている。

 坂を下りた先、街の東には、やや大きめの川が流れている。この川は、この市と隣の市を分ける境界線の役割を担っていた。


 そういえば、と私は思い出す。

 たしかあれは、2011年の冬。大雨が降り、この川で大きな洪水が発生した。

 もともとニュースに関心の薄い私は、犠牲者の名前や人数などには興味がわかなかったし、覚えていない。

 だけど、亡くなった人の中に当時私と同い年だった女の子がいたことは、なんとなく記憶している。


 そんなことを考えているうちに、『あまやどり』に着いた。

 店内は昨日と同じ景色だった。変わっているとしたら、壁にかかっているカレンダーの日付くらいだろう。

 マスターの「いらっしゃいませ」という声がした。ヘッドフォン越しでも鮮明に聞こえてくる声だった。


 マスターは、私が手に傘を持っているのを見つけたのか、カウンターからこちらに出てきた。

「傘、お返しします。昨日はありがとうございました」

「いえ。お役に立てて何よりです」

 マスターは傘を受け取ると、再び店の奥に消えていった。

 今日は傘を返すだけのつもりでいたので、もうこれで帰ろうと思ったのだけど、あの空色のノートが目に入った。

〝交換日記〟と言われていたノート。本当に返事など来るのだろうか、などと思いながらも、私はテーブルに歩み寄って、ノートを開いてみた。

 昨日と同じ筆跡の持ち主によって、続きが書き込まれていた。心なしか、文字は躍っているように見えた。


  9/8 (木)

  お返事、ありがとうございます!

  わたしは13歳の中学1年生です。

  中学生ですが、学校にはほとんど行っていません。

  どこにも居場所がないんです。

  世界にうまくとけ込むことができなくて、毎日一人で

  あてもなく歩いているうちに、『あまやどり』に来ました。

  あなたのことを教えてほしいです。あなたはどんな人ですか?

  どういう日々を生きて、今この〝交換日記〟を開いていますか?


 ここまで半信半疑だったけど、〝交換日記〟というのは信じてもよさそうだ。

 少なくとも、向こうはこちらの返事を待っている、そんな気がした。


 私はボールペンを手に取り、少し考えた。さて、どうやって答えようか。

「どんな人ですか?」という問いに対しては、簡単な自己紹介で答えればいいかな。向こうが学年と年齢を書いているから、こちらもそれに倣おう。

「わたし」と言っているし、相手はおそらく女の子だろう。ネットなんかでは、男が女子中学生になりすまし、とかいう話もよくあるけど、これは筆跡からして、少なくとも男であることはなさそうだ。


 ……そして私は、どういう日々を生きてきただろう。

 一言で言えば、日陰、だと思う。

 中学時代は学校を休みがちだったこともあった。これといったアドバイスは私にはできないけど、一言触れておきたい気持ちがあった。

 もし私が日向に生きていたら、『あまやどり』に来ることは決してなかったんじゃないか。そんな気がする。

「居場所がない」という記述は気になったのだけど、触れないでおくことにした。


  私は18歳の高校3年生です。

  学校、行っていないんですね。

  私も、特に中学の頃は、あまり学校に行きたくなかったです。

  私は日陰に生きてきました。


 この状況を、意外と楽しんでいる自分がいた。

 正直なところ、最初に「交換日記」と聞いたときには少し笑いそうになった。

 だけど今私がしていることは、一冊のノートに二人でメッセージを書いてのやりとり。形のうえでは、まさに交換日記だった。まさか高校3年生になってこんなことをするなんて。

 もっとも、相手については顔も名前もわからないのだけど。


 せっかくだから、私からも質問を投げかけてみようか。そう思って、私はヘッドフォンに手を触れた。

 ヘッドフォンの向こう側では、あの人がギターを掻き鳴らして歌っている。


  音楽は聴きますか?


 そして、次の行に、私はそのアーティストの名前を書いた。



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