第2章 雨合羽


◆ 第2章 雨合羽



   ※


 とりあえず、ポンチョを買ってみよう。

 そう考えたのは、その年のちょうど梅雨入りの時期だったと思う。

 理由は単純。雨に打たれてみたいと思ったからだ。

 けれど、生身で濡れるわけにもいかないし、傘だと片手がふさがってしまう。


 絆とか愛とか、実体のないものがわたしは信用できないらしい。

 晴れた日の太陽の光でさえ、わたしは嬉しいとは思わなかった。光を触ることができたらいいのにな、と思う。

 その点、雨は信用できた。

 雨は目に見える。音が聞こえる。雨粒が当たるのを肌で感じることができる。わたしはここにいると実感させてくれる。わたしに居場所を与えてくれる。そんな気がしていた。


 ──わたしは、世界と交わることが苦手だったのだろう。

 親しくなろうとしてかけた言葉で相手を傷つけ、力になろうとして起こした行動でかえって迷惑扱いされる。

 まわりから煙たがられ、嫌味を言われ、邪魔者と呼ばれる。いつしかそれはいじめへと発展していった。

 大人たちからは、「おまえにも原因はある」「今は苦しくてもいつかは楽しくなる」というようなことを言われるだけだった。

 どこか突き放されたような気分になる。

 間違っているのはわたしのほうらしい。

 卑屈な性格をしてる自覚はある。だから変わりたい。けれど変われない。そうして、また一段と自分が嫌いになっていく。


 わたしはこの春から中学に上がったけれど、すぐに不登校になった。

 柊 朔乃 ひいらぎさくのというわたしの名前が入った名札のついた制服は、しわ一つないままハンガーにかかっている。学校の鞄も、新品同様の状態で部屋の隅に放置され、埃をかぶっていた。


 家にもわたしの味方はいない。

 もともと一人っ子で兄弟はいないし、お父さんとお母さんも、仕事の都合で家にいることはほとんどなかった。両親は、ある程度のものと相応のおこづかいは一応与えてくれるけれど、それだけだった。

 家族でどこかに出かけた記憶はないし、一緒に食卓を囲んだことも、数えるほどしかない。入学式や授業参観、運動会などといった行事にも、顔を出したことはなかった。


 どこにいても、わたしは一人ぼっちだった。

 友達なんていなくていいやって思っていたけれど。

 親に構ってほしいとも思わなくなったけれど。

 それでもわたしは、どこかに居場所を求めていたのかもしれない。



[9月7日 水曜日]


   ●


「交換日記、ですか?」

 わたしはノートから顔を上げて、その人のほうを見た。

「はい。『あまやどり』に来たほかのお客様と、こちらのノートで言葉を伝え合うのです」

 わたしはもう一度、手に持ったノートに視線を移した。

 何の変哲もないノート。空色の表紙。中を軽く見てみたけれど、使われた様子はなかった。


 中学入学早々不登校となったわたしは、毎日お昼頃に家を出て、どこを目指すでもなく散歩をすることにしていた。

 中学生のわたしの足ではあまり遠出はできなかったけれど、公園のベンチで本を読んだり、なんとなく見えた風景を写真に収めたり、駅で行き交う人をただひたすら観察したりしていた。

 晴れている日よりも、雨が降っている日のほうが足取りは軽かった。

 太陽はわたしには眩しすぎた。すれ違う人たちの晴れやかな表情を見るのが苦痛だった。

 ポンチョを着て、雨に打たれながらひっそりと散歩するほうが、わたしには合っていた。

 家族は家にいないし、わざわざ心配してくるような友達もいない。だから中学生であるわたしが平日の昼間に引きこもってようが外を歩いてようが、何も言われることはない。

 それはまあ、好都合かな、とも思う。


 いつものように目的もなく歩いていた。

 この日は朝からしとしとと雨が降っていた。わたしにとっては、おでかけ日和だった。

 思いつきで買い始めたポンチョも、気がつけば数が増えていた。今日選んだのは、水玉模様の入った紺色のポンチョだった。


 わたしの家からは、西方向に20分くらい歩くと駅にたどり着く。

 駅にはいろんな人がいるからわたしも人間観察をしによく行くのだけれど、今日はそちらには向かわず北方向に足を進めていた。こちらのほうには閑静な住宅街がある。


 そこでわたしは、一軒のお店らしき建物を見つけた。

 お店の前に『喫茶 あまやどり』という看板が出ていたから、喫茶店なんだろうな、と判断した。

 初めて見るお店だった。いや、前からあったのかもしれないけれど、わたしが意識して見たのは初めてだった。

 こういうひっそりとしたお店って、どんな人がいるんだろう。どんなお客さんが来るんだろう。そう思って、入口のドアを開けた。


 店内は、カウンター席が設えられているだけの手狭な空間だった。小さいけれど小奇麗な感じのお店だ。

 木材とコーヒーと雨の匂いがする。

「いらっしゃいませ」という声が聞こえた。カウンターの内側に男の人が立っている。この人が店主さんかな。


 入口から見ていちばん奥の席に、わたしは腰かけた。お客さんはわたし以外にはいなかった。

 メニュー表を取ろうとして、手を止めた。

 わたしが座った位置から少し離れたところに、一冊のノートが置かれていたのだ。テーブルの焦げ茶色とは少しばかり不釣り合いな空色。

 なんだろう、と思ってノートを手に取ってみると、店主さんが説明してくれた。いわく、それは〝交換日記〟らしい。


 ノートを見ながら、わたしは考えた。

 なんとなくイメージはできる。要するに、このお店に来た人同士のちょっとした交流手段だろう。

 それにしても、ノートを使って交換日記だなんて、アナログだなぁ、と思う。

 いまどき中学生でもスマートフォンを持っていて、当たり前のようにメールやSNSで会話をしてる。交換日記をするためのアプリだってある。


 けれど、わたしは思う。

 今の時代は、偽物の言葉、無機質な文字列、匿名の戯言があふれている。情報が多すぎて、わたしの声は埋もれてしまう。

 たまにはこういうアナログな伝達手段も、悪くないんじゃないだろうか。

 わたしはきっと、自分の声を、誰かに聞いてほしかったのだ。


  あなたには、どんな空が見えていますか?


 ノートの最初のページに一言、問いを投げかけた。

 雨が好きで、今日もポンチョを着て、雨の中を歩いてきた自分。晴れていると少しだけ憂鬱になり、雨が降ると少しだけ嬉しくなる。

 その感覚を受け入れてくれる人、あるいはこんなわたしに似た人を、探してみたかったのかもしれない。


 横を見ると、壁に日めくりカレンダーがかけられていた。

 わたしは日付を確認して、今書いた一文の上に書き足した。

 わたしが今日、ここに来たという記録を刻もうと思ったのだ。



[9月8日 木曜日]


   ○


 次の日は晴れた。

 まだ雲は残っていたけれど、雲が8割以上ないと曇りとは言わない、と理科の授業で習った気がするので、まあ今日の天気は晴れなのだろう。


 今日もわたしは、『あまやどり』に向かっていた。

 黒と茶色を基調とした静かな店内。古風なんだけれどどこか少し先の未来とつながっていそうな空間。悪くない居心地だった。

 理由はそれだけじゃない。誰かノートに書き込んだ人がいないか、ひそかに期待していたのだ。


 今日も客はわたし一人だけで、わたしを迎えたのはあの店主さんだった。

 店主さんは、ともすれば小学生にも見えるわたしに対しても、恭しく接してきた。平日の昼間に二日連続で来る中学生を訝しがる様子も見せなかった。わたしがここに来ることをわかっていたのではないか、とさえ思う。

 冷淡な雰囲気はないけれど、声には感情がこもっておらず、表情もあまり変わらなかった。気がつくとそこにいる、というか、意識を向けないとそこにいると感じられない、そんな感じの人だった。


 テーブルの上に空色のノートを見つけると、わたしはノートの前にある椅子に座った。

 ノートがあるのは昨日と同じ場所だった。誰も触らなかったのか、店主さんが元の位置に戻したのか。とにかくわたしは、ノートを開いてみた。


  曇り空、かな。


 わたしが昨日書いた一文の下に、別の人の字が書かれていた。

 わたしの問いかけに対する答えだと思った。

 わたしの言葉をどう解釈したかをはっきりと読み取ることはできなかったけれど、わたしは自分の言葉に反応してくれた人がいたことに、ちょっとした喜びを感じた。誰からも相手にされないようなわたしにとって、これは頬が緩む出来事だった。

 もしかしたら、また答えが返ってくるかもしれない。そう思って、わたしは今日の日付と、返事と次の質問を書いた。


  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る