第1章 雨宿り
◆ 第1章 雨宿り
[9月7日 水曜日]
◎
2016年。
私が高校生になって、三度目の夏休みが過ぎた。
9月に入ったものの、じめじめした暑い日が続いていた。
この日は、帰りのホームルームで模試の結果が返ってきた。夏休みに入る直前に受けた全国模試だった。
私の高校は県内ではトップの進学校だったから、大半の生徒は進学するし、私も大学に進むつもりでいた。
一応、私にも志望している大学というものはある。模試の結果によると、第一志望はぎりぎりのC判定。合格率40%程度。まあこんなもんか、と自分では思う。
この時期に決める進路は、人生の大きな選択の一つだと思う。
一方で、たった18年しか生きていないのに人生を左右しかねない選択を強いられるなんて早すぎる、とも思う。
9月になりました、ここからが勝負どころです、などと担任の先生が言う。
誰かが言った。「そろそろ本格的に受験勉強しないとやばいよね」。夏はあれほど部活一筋で打ち込んでいたくせに。
誰かが言った。「第一志望C判定だったーやべー」。そんなに焦らなくてもいいのに、いやそれとも私がおかしいのか。
誰かが言った。「あー勉強したくないよー」。そう言う人に限って、なんだかんだ勉強してるし、いい点をとったりする。
クラスメイトは、みんなどことなく浮き足立っているように感じた。私だけ、一人取り残されているように思えた。
浮き足立っている、といったけど、彼らはたぶん、受験や進路、ひいては自分の人生というものに真剣に向き合っているのだ。
対して私は、それらに対して真剣に向き合うことができない。だから危機感ももてない。
私は彼らのようにはなれない。やっぱり私は、ずれているのだ。まあ、いつものことだけど。
孤独、なのだろうか。
うまく言い表せない、精神的な日陰。端から見たら些細なことだろうし、自分でもこんな小さなことで、とは思うのだけど、どうしても感じてしまう。
そして私は、人の声が少し怖い。
周りの人にどう思われているだろう。陰で何か言われているかもしれない。そんな雑念が忍び寄ってくる。
なるべく気にしないように、誰かに話しかけられたりしないように、私は足早に学校を出た。
空は灰色の雲で覆われていた。
騒がしかったわけではないのだけど、耳をふさいだ。ふさぐといっても、手でふさぐのではない。
私が使うのはヘッドフォンだ。
──いつものように、あの人の歌声を聴く。
他の声が聞こえなくなるまで、音量を上げる。
学校から駅までは歩いて10分くらいなのだけど、駅には同級生たちがいる気がして、なんとなく近寄りたくなかった。
どこに行くでもなく、私は駅と反対方向に歩いていった。
どのくらい歩いただろうか。
ぽつり、と、雨粒が肌に当たるのを感じた。足元を見ると、点々と地面が濡れていた。雨が降ってきたようだった。
傘は持っていなかった。私はヘッドフォンを濡れないように鞄にしまった。
雨は強くなっていった。すぐに駅に行ければよかったのだけど、あいにくだいぶ離れたところまで来てしまっていた。
しかたない、どこかで雨をやり過ごそう。そう思った矢先、狭い路地の角に、古びた看板があるのが目に入った。
住宅が点在するだけの人気のない道。そこにぽつんと、一軒の店があった。
『喫茶 あまやどり』
ちょうどいい名前だな、なんて思いながら、私はその店のドアを開けた。
●
「いらっしゃいませ」
店に入ると、カウンターの内側から男の人の声がした。
色白で背が高いこと以外は特徴に乏しく、存在感が希薄な人だと思った。そのくせ声は低くてよく通るので、どこか現実離れしているような印象を受けた。
L字型のカウンター席が設置されているだけの、縦に長い店だった。
外観から受ける印象とは裏腹に、店内はそれなりに手入れが行き届いている感じがした。
カウンターと反対側の壁には窓があるようだったのだけど、カーテンがかけられていて外は見えない。陽の光が入らない店内を、2つの蛍光灯が照らしていた。
『あまやどり』自体が現実世界から隔離されているようにも思えた。
あまり長居するつもりもなく、私は入口からいちばん近い席に座った。
客は私一人だけで、店員も、あいさつをしてきた男の人一人だけのようだった。この人がこの店のマスターなのだろう。
目の前にあったメニュー表を眺めた。店に入った以上、何かしら頼まないとまずいか、とは思う。
まあいちばん安いコーヒーでいいや、と決めると、ほぼ同時にマスターが「ご注文はお決まりでしょうか」とカウンター越しに声をかけてきた。私はアイスコーヒーを頼んだ。
注文を済ませると手持ち無沙汰になり、なんとなく私は入ってきたドアのほうに目を向けた。
壁にはカレンダーがかかっていた。年、月、日、曜日が書かれているだけの、シンプルな日めくりカレンダーだった。
2016年9月7日、水曜日。今日の日付だ。
お待たせいたしました、というマスターの声が聞こえた。ご丁寧に、私の席のところまでコーヒーを持ってきていた。私は体の向きを戻して、軽く頭を下げた。
マスターが店の奥へ去っていくのを、ちらりと目で追う。ふと、視界の隅、テーブルの上に、四角い空色をとらえた。
それは一冊のノートだった。そばにはボールペンも置かれていた。
手を伸ばして、二席分ほど離れたところにあるそのノートを取ってみた。
誰かの忘れ物だろうか、などと考えていると、カウンター内からマスターの声がした。
「そちらは、〝交換日記〟です。よろしければお客様も、何か書かれてみてはいかがですか?」
交換日記。私は心の中で復唱する。
特に何も答えず、ノートに視線を移した。
授業中にこっそり手紙を回したりとか、秘密を一部の友達どうしで共有したりとか、小学校や中学校の頃によくやってたな。
もっとも、私にはあまり縁がなく、傍観しているだけのことがほとんどだったのだけど。
要するにこのノートは、適当に一言記入したり、人によっては絵などを描いたりする、よくあるメッセージノートの類なのだろう、と思った。注文の待ち時間に書いてください、というようなものだろうか。
空色の表紙。どこにでもありそうな普通の大学ノート。
私は表紙をめくった。最初のページの左上隅に、小さく文字が書かれていた。
9/7 (水)
あなたには、どんな空が見えていますか?
9月7日、水曜日。今日の日付だった。
今日、私が来る前に別の誰かが『あまやどり』に来て、書いていったらしい。筆跡を見るに、中学生くらいの女の子の字ではないかと推測できた。
わかるのはそれくらいだった。
試しにぱらぱらとノートのページをめくってみたけど、他のページには何も書かれていない。名前らしきものすらどこにも書かれていないので、誰がどんな意図で書いたのかはわからなかった。
だけど、私はなぜか直感した。
これはきっと、誰かに答えてほしくて書かれた言葉だ。
とはいえ、もし仮にこれが私に向けられた言葉だとして、じゃあ何と返せばいいのだろう。
今日の空模様を答えればいいのだろうか? 学校を出たときは曇っていて、この店に入るときには雨が降っていた。空が何色だったか、と訊かれれば、まあ灰色という答えが妥当かな、と思う。
でも、これを書いた人も今日ここに来ているわけだから、この街の今日の天気を訊いて何になるのだろう。
誰のものともわからない言葉の意味を、私は考えていた。
──空。
私が見ている空。
小さい頃から、空を眺めるのは好きだった。
空には、時の巡りが感じられる。季節の移ろいが感じられる。
太陽と月が交互に現れて、一日を回していく。太陽が遅くまで顔を出していれば夏だし、月が早くから姿を見せたがっていたら冬だな、と思う。
清少納言じゃないけど、春の明け方、秋の夕暮れは、なんともいえず美しいものだ。
私が住んでいるあたりからは、そういう空がよく感じられた。人工的な光の景色も綺麗だと思うけど、私はこの空の彩りを忘れることはないだろう。
自分は日陰者。私はそう思って生きてきた。まわりの人とのずれや引け目をいつも感じてきた。日の当たらない場所でひっそりと過ごすのが似合っている、と思う。
だけど空に対しては、心を許すことができた。私が笑っていると、空も不思議と明るく見えたし、私が泣いていると、空もどこか悲しい表情をしているように見えた。
だから私は、空が自分を受け入れてくれると思ったのかもしれない。
物語などでは、人物の心情がよく空にたとえられる、ということを思い出した。
私自身、そういうことは何度か身に覚えがあった。もちろんいつもではないし、錯覚かもしれないのだけど。
今もそうだ。私の心に影が落ちていたのと、曇り空が雨に変わったのが重なった。
空は心とつながっている。
私はボールペンを手に取った。
〝交換日記〟というのは半信半疑ではあったけど、ノートの一行空けた場所に、一言だけ添えた。
曇り空、かな。
ノートを閉じて、コーヒーを飲んだ。
苦みが強く、あまりおいしいとは思えなかった。
会計はその場で済ませるタイプの店のようだった。私は、座っていた席からカウンター越しに、マスターにお金を渡した。
鞄を持って店を出ようとすると、マスターに呼び止められた。
「外はまだ雨が降っています。傘、お持ちでないですよね」
そう言うと、マスターは店の奥に姿を消した。
一瞬の後、傘を持ってこちらにやって来た。ありがとうございます、と言いながら、私は差し出された傘を受け取った。
私が店のドアに手をかけようとすると、「ところで」とマスターが言い出した。
「〝交換日記〟を書いた相手の方ですが、お客様ご自身では会いに行くことはできません。その方にお会いしたいときは、私にお申しつけください。いつでも構いませんので」
どういうことだろう。私は「はあ……」とぼんやりした返事をすることしかできなかった。
またのご来店をお待ちしています、というマスターの声を背中に聞きながら、私は店のドアを開けた。
外はまだ雨が降っていたのだけど、『あまやどり』に入ったときよりは少し弱くなっていた。
傘を差した。
男性用なのか、私には少し大きく感じたのだけど、まあいいか。その分雨を防げるし、ヘッドフォンが濡れる心配もない。
ヘッドフォンをつけて、いつも聴いているあの人の歌声で耳をふさぎながら、私は駅へ歩いていった。
今になってみれば。
『あまやどり』を見つけ、そして〝交換日記〟を見つけたのが私だったことは、きっと必然だったのだと思う。
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