第9話 ラヴ・コメディ
帰りの車の中で、啓介が切り出した。
「ところで思うんですけどー、総領代?」
「何じゃ?」
「年頃の男女が隣同士で暮らすって、なんかまちがいとか起こんないんですか?」
車内の空気が若干凍った。
「おい、啓介! 何言ってやがる!」
すぐヒノがヒートアップして空気を解かす。
「それもしきたりがあるんじゃ」
喜代輔が待ってましたとばかり、深くうなずく。
「三年は清い関係でいてもらうぞぃ、ヒノ、姫子さん」
「えっ」
ヒノも姫子も顔を赤くした。何を言っているか、わからない歳でもない。
「それはまた何で?」
啓介がさらに尋ねる。
「うむ、秘術に関係しておることでな……改めて、ヒノたちに教えておくわい」
喜代輔は大真面目だ。
すみれが訊く。
「もしかして、総領代と奥様も?」
「そうじゃよー」
喜代輔はヘラヘラ答える。
「だって、ヒノ」
すみれが容赦なくトスする。
「こ、こっちに振るなよ!」
「ウブねぇ。さすが彼女いなかった歴イコール年齢だけあるわ」
「うっせぇ!」
いつものようにすみれがヒノをからかう。
「ヒノさん……彼女さん、いなかったんですか?」
姫子が首をかしげた。また若干空気が冷えた。
「それは、その……」
ヒノは困ったように目をそらした。
「もーいなかった、いなかった! コイツ、理想が高くってさぁ~」
すみれがケラケラ笑って暴露する。
「で、姫子ちゃんはどうだったのー?」
すみれは絶好調。セクハラ全開だ。
「わたしも……男の人とおつきあいしたことは、ありません」
ヒノの心臓が、ドクンと打った。胸の高鳴りと同時に、安心している自分がいる。
「知らない方が、まちがいも起こんないかもねー」
「あーもうこの話やめ! 早暁さん、信号青ですよ!」
「ああ、はい」
道路から湖が見える。春の日を受けて、やさしく輝いていた。
新しい姫子の部屋に、家具が搬入された。
服や小道具をしまい終わると、外はもうすっかり暗くなっていた。
「はー……何か今日は疲れたな」
ヒノの不安といえば、周囲の反応だった。
よくいえば人情に篤い、悪くいえばおせっかい。知らないあいだに世話を焼かれ、おもしろそうなことがあれば首を突っこまれ、冷やかされる。
島の人間は皆そうだ。県民性ならぬ島民性といえるかもしれない。
そんな彼らはおそらく、典型的なラブコメ展開を期待してくるだろう。
例えば、お風呂ではち合わせて「きゃー!」なんてシチュエーション。相手の部屋に入ったら着替え中で、「ヒノさんのえっち!」なんてシチュエーション。
(そこまで思い通りになってたまるか!)
ベタベタな展開は全力で回避する。してやる。
「……うしっ」
ヒノは気合いを入れた。
三年だ。三年プラトニックな関係でいなければいけない。そうしてやろうじゃないか。冷やかされるネタを作るなんてまっぴらゴメンだ。
などと考えていると――。
コンコン。
ドアがノックされた。
「はい?」
「……姫子です。あの、入ってもいいですか?」
「あ、いいよ」
幸い着替え中でもない。
「…………」
沈黙が続く。
(やばい……会話がない)
すみれも啓介もいない。話題がない。
「……お茶、持ってくる」
「あ、じゃあ、わたしが」
「いや、オレも飲みたかったの。待ってて」
ヒノは二人分、茶と菓子を持って戻ってきた。
茶を飲むあいだは、間が持つ。
姫子は何の用だろう。
「食べていいよ?」
「あ……いただきます」
会話が続かない。
静かな部屋。
相手を意識してしまう。
「え、と」
姫子は何か言いたそうだ。
「あの……ヒノ、さん」
もじもじとスカートの布をいじる。
「何か困ったことでも?」
「ち、違います」
姫子の頬が赤くなる。
「お風呂……一緒に入りませんか?」
「ブ――――――――!!」
ヒノは茶を噴いた。
「だ、誰からそんなことを言えと!?」
「すみれさんが」
みなまで聞く必要はなかった。
ヒノは光の速さで携帯を手にした。姫子に背を向け、番号を呼びだす。
『はいはーい、あたし。どうしたのー?』
「テンメェェェ――!! 姫子に何吹きこみやがったァァァッ!?」
ヒノはありったけの声で怒鳴った。通話の相手はもちろん、すみれだ。
『うるさいわねぇ。ヒノが喜びそーなことを教えただけよ?』
「テメエ、オレを何だと思ってんだ!」
『あら、素直になれないアンタのためよ~』
「テメエ、よくもそんないけしゃあしゃあと……」
『じゃ、そゆことで。がんばってねぇ~ん』
「ちょ、切んな! おスミ! おい! クソッ、かけなおし……あああ! 電源切りやがったアイツ!」
ヒノはしばらく携帯とジタバタしていたが、やがてがっくり肩を落とした。頭を抱えつつ、姫子に向きなおる。
姫子はばつの悪そうな顔で座っている。
「姫子」
「は、はい!」
「そのー……イヤなことは、イヤって言っていいんだからな!」
「え?」
「イヤなことはしなくていい。たとえオレの家のことでも、しきたりでも。祖父様や祖母様、すみれや啓介に言われたことでも、君がイヤなことはしなくていいんだ」
ヒノはまだ、しきたりに屈したわけではない。納得できないことには抵抗する。そうあるべきだと思っている。
けれども姫子はそれができないようだった。
教えてあげないといけないと思った。自分の意思で、歩いてもいいんじゃないかと。
「……ません」
「え?」
「イヤ、じゃ……ありません」
姫子の答えは、ヒノの思いの上をいく。
ヒノは頬にカ~~ッと血が昇るのを感じた。胸がドキドキうるさい。
「その……ヒノさんは、イヤ、ですか?」
「………………イヤ、じゃない」
言葉にならない胸の鼓動が、思考をマヒさせた。
(おかしい。おかしい)
湯船につかりながら、ヒノは考えていた。
(何でオレ、こんな状況になってんだ?)
今日は生まれてはじめて「温泉の素」に感謝した。白濁とした湯が、体をうまく隠してくれている。
向かいあうように、二人は湯船につかっていた。ここにいたるまでの悶着は、ご想像におまかせしたい。
「はー……」
姫子はのんきにため息をついている。
(ホント気持ちよさそうに風呂に入るな)
ヒノはちらりと視線を上げた。
姫子のいつも緊張しているような顔がゆるんでいる。
ちゃぷん。
「あ」
わずかな水音で、二人は身を固くする。
うちとけたような、とけていないような。微妙な緊張感がある。
会話もなく、ただ一緒に入っているだけだ。
「ん……」
姫子がすこしだけうつむく。頬を赤くし、目をしぱしぱさせている。頭を包んだタオルからこぼれた髪が、湿気を吸って揺れた。
「さ、先上がってていいぞ」
姫子が視線を上げる。
「のぼせるぞ。オレは平気だから。もうすこしつかってく」
「じゃあ……お先に失礼します」
ヒノは目をそらす。ウッカリ「見て」しまわないように。
入るときもこうやって時間差と「目をそらす」のコンボで何とか「見ず」に済んでいた。
姫子はゆっくり湯船から立ち、上がろうとして――。
「あ……きゃあ!」
足をすべらせた。バランスを崩す。
「あ!」
ヒノはとっさに腕を伸ばし、支えた。
ぱさ、と姫子の頭のタオルが落ちる。
ヒノの腕に黒い髪がかかった。
「あ……」
熱い。タオルをへだてただけの体が。
ヒノは息をのむ。ごく、と乾きかけた喉が鳴った。
「ご、ごめんなさい!」
姫子はサッとヒノの腕から離れると、浴室から出ていった。
ヒノはポツンと湯船の中に残される。腕に、少女の柔らかい感触が残っていた。
「あああもう!」
ヒノは湯船から上がると、シャワーの温度を一番低くした。
冷水を頭からかぶる。
(なんでこんなに。オレ、おかしい)
ぼうっとしていた頭の中身が、急激に締まる。
(オレ、おかしい!)
ゴチャゴチャした考えを落とすように、ヒノは水をかぶり続けた。
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