第7話 きらいじゃない

 ヒノは植えこみに手を伸ばし、枝の先端にある葉をちぎった。一枚ちぎろうと思ったのに、二枚取れた。

(オレ……ひとりじゃないんだなぁ……)

 孤独でない、という意味ではない。捨てられないしがらみだらけ、という意味だ。決して勝手きままには生きられない。

「はあ……」

 ヒノは起き上がって、また庭をブラブラ歩きだした。ちょうど家屋の廊下に面したあたりまで来る。廊下の窓は開け放たれている。

「あ……」

 廊下に姫子がいた。

 庭に立つヒノを見つけて、黒い瞳をパチパチまたたかせる。

「どうした?」

「あっあのっ、お手洗いに……行ってきたところで……」

 姫子はしおしおと小さくなる。ここにいるのが悪いことのような反応だ。

「そんな、申し訳なさそうにするなよ」

「ご、ごめんなさい」

「だからいいんだって」

 どうしてこんなにオドオドしているのだろう。

(オレが……イヤがってるからか?)

 彼女の居場所を奪っているのは――自分か。

 ヒノはぎゅうと胸が締めつけられた。

「…………」

「…………」

 会話がない。

(オレが結婚しなかったら……)

 ほかの男が婿に来る。

 ヒノのいた場所をすべてそっくり取りあげて。

「姫子……さん」

「姫子、とお呼びください」

 呼び捨てでいい、と姫子は言った。

「じゃあ……ひ、姫子」

「はい」

「ひとつ、聞きたいことがある」

「はい」

 ヒノは、姫子の泊まる客間に向かった。

 卓を挟んで、姫子の前に座る。

 見れば見るほど、綺麗な少女だった。漆黒のストレートヘア、大きな瞳、整った白い顔。華奢な体に、すみれが貸した生成色のワンピースをまとう。

 清楚な姿は、白い花に似ている。

 ヒノの好みだった。――それはもう、イヤになるくらいに。

「……イヤじゃ、ないのか?」

「え?」

 姫子が首をかしげる。

「オレは十六で、アンタは十五。一度も会ったことなかったのに、結婚なんて……イヤじゃないのか?」

「イヤじゃ、ありません」

 姫子は静かな表情だった。

「わたしにはもう、朱雀門のお家しかありません」

「いつの時代の話だよ。いつだって実家に帰っても――」

「もう帰れません。そういうお約束ですから」

「誰との?」

「しきたりでしょう?」

 しきたり。

 イヤな言葉だった。


『しきたりでしょう?』

『朱雀門家の分家から、しかるべき者を姫子の婿に迎える』

『さんざんイヤがってたことに屈することになる。それがイヤなのよ、ヒノは』


 姫子の言葉、喜代輔の言葉、すみれの言葉。

 ぐるぐる回って煮つまって、頭を鈍らせる。

 イライラする。

「しきたりなら従うのか?」

「それが……四方神よもがみ一族の心構えと聞いています」

「イヤなことを、押しつけられても?」

「イヤではありません。決まりですから……」

「じゃあ! しきたりだったら、どんな男にでも嫁ぐっていうのか!」

 激情のままに叫ぶ。

「そ……れは……」

 姫子がうなだれた。叩かれた子供のようだった。

 ヒノはハッと口をつぐんだ。

「……わたしは」

 姫子は、悲しそうだった。

「わたしは、そのためにずっと生きてきました。そのためにしか生きられません」

 姫子は両手をそっと胸の前で組んだ。伏せた視線。わずかに開いては閉じる唇。言葉を選んでいる。

「でも……」

 姫子の手が震えていた。白い頬がみるみる赤くなった。

「ヒノさんは……わたしの命を助けてくださいました」

 あのまま助けが来なかったら、今頃は船ごと湖に沈んでいただろう。

「だからご恩返しをしたいんです」

 赤くなった頬を隠そうともせず、姫子はまっすぐヒノを見つめた。

 黒く大きな瞳だった。

「ダメなところは直します。だから……」

 姫子は、つ、と畳に手をついた。不安そうな目でヒノを見上げる。

「だから、おそばに置いてください……!」

 姫子が頭を下げる。つややかな黒髪が、畳の上に落ちた。

 雷に打たれたように、ヒノは動けなくなった。

 ヒノは気づいた。

(オレだから、姫子はイヤがって……ない?)

 ヒノはずっと否定してきた。頭の中で考えないようにしていた。

 むこうもイヤがっているはずだと、思っていた。

「わたしのことが、どうしてもお嫌いとおっしゃるなら、覚悟はいたします」

 姫子はイヤがっていない。むしろ望んでいる。

「でも……お嫌いじゃ、なければ、その……」

 ヒノと一緒にいることを、望んでいる。

 ヒノの中に、何かが芽生えた。

「……きらいじゃない」

 こぼれた。

 思わず落としてしまった本音に、目をそらす。

「きらいじゃない。きらいじゃ、ないんだ……」

 プイ、と横を向いた。

 直視できなかった。自分の理想の少女を――。

「……よかった」

 姫子の口から安堵がこぼれる。

「よかった……」

 ヒノはおずおず視線を戻した。

(笑ってる……)

 姫子がほほえんでいる。

(かわいい……)

 笑った顔をかわいいと思う。

 なぜ、そんな風に感じるのか。

 たぶん、最初に逢ったときに、もう――。

(…………)

 ヒノはその先をあえて考えなかった。

「姫子……オレと一緒に、祖父様の部屋へ来てくれないか?」


 ヒノはゆっくり祖父の部屋に向かった。

 そのうしろから三歩ほど下がって、姫子がついてくる。

「入ります」

 ヒノが入ると、喜代輔は啓介とすみれを相手に、トランプに興じていた。

「ん、何じゃ。二人で参ったということは……もう頭は冷えたか?」

 パサとカードを伏せて、喜代輔が顔を上げる。

「あ、じゃあ、あたしらはいったん……」

 ゲームを中止して、すみれたちはカードを片づける。

「いや、いてくれ」

 ヒノは二人を引きとめた。

「…………」

 沈黙が続いた。

「えっと……」

 ヒノは息をのむように、何度か唇を開いたり閉じたりした。

「オレ……仮祝言、挙げてもいい」

 言ってから、ヒノはうつむいた。

「…………」

「…………」

 返事がない。

 まだ何か言わなければいけないか。ヒノは顔を上げた。

 すみれと啓介がポカンと口を開けている。

「な、何だよ」

「本気?」

「ヒノ、マジでいいの?」

「何だよ! 悪いってのかよ!」

 ヒノが叫ぶと、全員の顔がみるみる笑顔になった。

「うむ、よく決断した!」

「おめでとう!」

「おめでとう、ヒノ!」

 万歳三唱が始まりそうだった。

「うう、爺はうれしいぞい。やっと聞き分けのよい跡取りになってくれて……!」

 喜代輔が感極まったように目頭を押さえる。

「どういう心境の変化? あれほどイヤがってたのに!」

 すみれがキラキラ目を輝かせる。

「だってしょうがないだろ! 姫子は今更帰れないとか言って泣くし! どのみちこの家にいるって言うし! しょうがなくやるんだからな!」

「ツンデレ?」

「ツンデレ言うな!」

「まったくぅー、素直じゃないんだから」

 すみれが茶化すと、ヒノはぷいっと顔をそらした。

「姫子ちゃん、気にしちゃダメよ~。こう見えて、あなたにベタ惚れなんだから」

「え、あ、はい」

「こら、おスミ! 適当言うんじゃない!」

「でも、ヒノにしてはよく決断したと思うよ~」

「いえてるー」

 すみれと啓介がキャッキャッとはしゃぐ。

「……ありがとうございます、ヒノさん」

 姫子が小さく礼を言う。

 ヒノは照れくさくてしかたがなかった。

 こうしてヒノと姫子は、同じ屋根の下で暮らすこととなった。

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