第27話

「クッ……!」

 紫が顔を上げると、再び錫杖が振り下ろされた。後頭部に激しい痛みと鼻の奥に鉄の匂いが充満した。ドロリとした生暖かい液体が後頭部から首筋に滴り落ちてくる。

 バラトロンは、執拗に紫を殴り続けた。何かを叫ぶわけでもなく、ただ機械的に力一杯錫杖を振り下ろす。

 桜の木にもたれながら、紫はその攻撃を甘んじて受けていた。頭部、顔面、首筋、肩、腹部。目に映るあらゆる部位を、バラトロンは容赦なく殴り続ける。

 龍因子を纏った錫杖の攻撃は、同じく龍因子で強化された紫の肉体にダメージを蓄積した。紫は虚ろな瞳で、自らを殴り続けるバラトロンを見上げていた。満月を背にするバラトロンは、目を煌々と輝かせ、もはや人と呼べる部分は欠片も残っていなかった。


 人間よ……! 去ね!


 龍因子を纏った錫杖が振り下ろされる。しかし、その錫杖は途中でピタリと動きを止めた。バラトロンは猿のように後方に飛び退くと、錫杖を構えた。

 これまでにない静寂が林を包み込んでいた。強大な龍因子が場を圧し、息が詰まるほどの緊張感を生み出していた。

「…………」

 桜の木に手を突きながら、紫は立ち上がった。

 第三種生命体であるバラトロンを圧倒する龍因子を放出しているのは、他でもない、この小さな少女だった。

「もう、良いわよね、雪路…………」

 口元を流れる血を袖で拭った紫は、カーディナルを一閃した。周囲に立ち籠めていた龍因子が一瞬にして払われ、バラトロンは脱力したように肩を落とした。


 火野雪路は消え去った………


 元より奴は虚ろな存在………


 自らの意志……感情はない…


 役目は十分に果たした………


「人の言葉を理解するし、話すのね。なるほど、なかなかの上級悪魔ってワケね~」

 カーディナルを一枚のハンカチにした紫は、目元を拭った。一度、二度と大きく深呼吸した紫は、最後に長く息を吐き出し、僅かに腰を若干下げた。


 お前と話していたのは………


 雪路ではなく、私だ…………


「アンタ、一つ言っておくわ。それ以上、雪路のことを言わないで。これは忠告じゃないわよ、警告よ、ケ・イ・コ・ク!」

 右手を振るうと、ハンカチだったカーディナルが槍へと変化した。右半身を後方に引き、グッと重心を落とす。龍因子で肉体を極限まで強化し、神速の一撃を放つために力を溜めた。


 お前が描いていたのは幻想………


 お前は幻と恋をしていた…………


 散った桜の花弁が、宙を舞った。

 紫が桜の花弁を撒き散らしながらバラトロンへ突貫した。

 しかし、バラトロンは錫杖を一回転させると、結界を展開した。

 紫の放つ突きは、結界に飲み込まれた。そして、頭上に出現した結界からはカーディナルの穂先が紫目掛けて振り下ろされた。紫は眉一つ動かさず、突き出したカーディナルを手元に戻した。すると、頭上の結界から迫るカーディナルも引っ込んだ。

 バラトロンは大きく跳躍すると、月を背に浮かび上がった。法衣を突き破り、巨大なコウモリの翼が生えていた。


 消えろ………稲城紫………!


 シャンッと錫杖を鳴らしたバラトロンの周囲に、稲妻が瞬いた。そして、錫杖の動きに合わせて稲妻が降り注いだ。ドラゴンの咆吼を思わせる爆音をと轟かせ、稲妻は紫に殺到する。

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