第26話



「さあ、紫、俺を殺せ…………」

 目の前で雪路は手を広げていた。こちらを見つめてくる瞳は力強く、カーディナルを握ったまま微動だにしない紫を非難しているかのようだった。実際、雪路は紫を非難しているのかも知れない。雪路はとっくに覚悟を決めていたのだ、だから、こうして真っ直ぐな瞳で見つめられるのだ。

「…………ッ!」

 しかし、紫は雪路の瞳を正面から見返すことが出来ない。雪路の瞳に晒されているだけで、心が、気持ちが壊れてしまいそうだ。

「私は……!」

 カーディナルの切っ先が震える。

 スペルが口から出てこない。

 雪路が動いた。一歩、足を前に踏み出してくる。カーディナルが雪路の胸に触れた瞬間、紫は見えない力に押されたように一歩下がった。

 ほんの少し、力を入れて手を突き出せば、雪路の体を貫ける。それで、全てが終わるのだ。一人の命が、簡単に墜ちる。指先から砂がこぼれ落ちるように、人の命もこの世からこぼれ墜ちるのだ。

 紫は俯いた。

 人の命は、そんなに軽い物ではない。軽い物ではあっていけない。

 悪魔だとしても、目の前にいる雪路は、紛れもなく人の心を持っている。人として生き、最後の最後まで人として死のうとしている雪路が居るのだ。

「やっぱり、この姿じゃダメか……」

 雪路は呟いた。

 ハッと紫は顔を上げた。

 雪路の右手が、左手首に添えられる。

「ありがとう、紫。君と出会えた三日間、とても楽しかった。最後に人として生きることができて、本当に嬉しかった」

 雪路の目から銀色の雫がこぼれ落ちた。

「あっ……」

 右手がミサンガを握り締め、引き千切った。

 雪路の体から渦を巻いて龍因子が膨れあがる。衣服はあっという間に消失し、代わりに煌びやかな祭服が浮かび上がってくる。

 細い手足が伸び、全身が黒い毛に覆われていく。黒目が失われ、代わりに濁った赤い瞳が浮かび上がる。口からは牙が伸び、耳は鋭く尖った。火野雪路の最後は、余りにも呆気なく、静かだった。一切の余韻も残さず、火野雪路という存在はこの世から消滅した。

「ああ……! 雪路……! 雪路……!」

 よろよろと、紫は後退した。桜の幹に背中を預け、両目を押さえる。涙が溢れて止まらない。

 雪路の体を、魂を食い破って出現した悪魔は、純白の司祭の衣服を身につけた魔術師、レギナルド・スコットが言及した悪なるデーモンの一人、バラトロンだった。

 バラトロンは右手を掲げた。召喚の五芒が龍因子によって描かれ、そこから一本の錫杖が出現した。シャランと音を立てる錫杖を、バラトロンは一度振った。

 雪路は、最後まで紫のことを思っていた。紫が殺しやすいようにと、人の姿を、人の心を捨てた。人として死にたいという最後の希望を自らの手で捨てたのだ。

「ゴメン、雪路。御免なさい……」

 紫は雪路に詫びた。この声が雪路に通じているかどうか分からない。しかし、紫は謝ることしかできなかった。


 ザッ!


 下草を薙ぎ払う音と共に、気配が迫ってくる。涙に濡れる顔を上げた紫の頬に激しい衝撃が走り抜けた。目の前が一瞬白くなり、激しい痛みが全身を駆け巡る。

 バラトロンの持つ錫杖に殴られたと理解できた時には、紫は桜の木に顔を打ち付けていた。

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