第25話
紫は立ち上がった。袖で涙を拭い、無言で頷く。雪路は紫の手を握ると、再びゆっくりと歩き出した。
だが、雪路との思い出は紫の中に残る。紫が死ぬまで、この世界で生き続ける。それが、この世界に残された人間の独りよがりだと言う事はよく分かる。人は死ねばそこで終わりだ。怒りも、憎しみも、悲しみも、愛おしさも、故人の感情が現世に残るのではない。それら全ての感情は、残された人の中に残るのだ。逝った人を思い、残された人は自分の気持ちに折り合いを付けるため、様々な理由と感情を付け足すのだ。如何なる理由でも良い。自分を納得させて次に進むこと。それが、これから紫が生きていかなければいけない世界なのだ。
木々の隙間から月光が差し込んでくる。静謐という言葉がピッタリの人造林。その中程に、小さな空き地程度の広場があった。
月光に照らされた桜の木が咲き乱れている。満開になった桜は、後は散るだけ。優しい風に撫でられるだけで、小さな花弁を雪のように舞い散らせる。息を飲むほどの美しい景色だが、その景色は色が極端に少なく、冷たい硬質な雰囲気を纏っていた。
「雪路、ここよ」
泣きはらして赤くした目元を緩めた紫は、名残惜しそうに雪路の手を離した。
「カーディナル」
紫の手に細身の長剣が握られた。黒かった髪の毛に虹色のメッシュが差す。
「終わりにしましょう、雪路……」
紫の掲げたカーディナルの切っ先が、雪路の喉元に向けられた。
幻想的な空間に佇む一組の男女。
木にもたれ掛かりながら、その様を少し離れた所から見ていたカルトは、背後から感じた気配に首だけで振り返った。
「なんだ、カルト。お前も来てたのかよ」
「うん。やっぱり、気になるからな」
「だな。あんなのでも、ボク達の弟弟子だからな」
ジーンズにパーカーというラフな出で立ちで、草薙大地がこちらに歩いてくるところだった。
「紫に呪符を渡したんだな。アイツ、しっかり園内に結界を張ってる。紫がワザと逃がさない限り、火野雪路は逃げる事は出来ない」
カルトは空を見上げた。木々の隙間から大きな満月と瞬く星々が伺える。一見すると、何の変哲もない夜空だが、目を凝らして星の一つ一つを見てみれば、光が僅かに歪んでいることに気がつくだろう。薄い透明な膜にテーマパークが覆われているのだ。
「どうしても仕留めるからってさ、昨日頼まれた。張るだけの簡単な物だけど、これだけの枚数を張れば一級品の結界になる」
大地の言葉を肯定するように、カルトが寄りかかる木にも一枚の呪符が張られていた。この木は、先ほど紫が手を突いた木だ。心は大きく揺れながらも、しっかりと結界を張っている。他にも、ジェットコースターの支柱やベンチの裏、看板、テーブルの裏側など、様々な場所に呪符が張ってあった。紫と雪路は、今日一日で園内の隅々を歩いたのだろう、園内全域にこうした呪符が張られていた。
ゆっくりと、しかし確実に火野雪路の終わりが近づいていた。
カルトは、カーディナルを雪路に向けたまま微動だにしない紫から、対峙する雪路に注意を向ける。こちらからは雪路の背中しか見えないが、彼がどんな表情をしているのか、興味があった。
「どうするんだ? あのまま紫がフリーズしてたら、お前が出るのか? それとも、ボクが行ってこようか?」
ニコニコと場違いな笑みを浮かべる大地に、カルトは鋭い一瞥をくれるが、大地は全く意に介さない様子で二人の様子を見つめている。
「手出しは無用。これは、紫の仕事だよ……。俺たちは、ただ見てるだけだよ」
「ふ~ん。ボク達はギャラリーって訳ね」
「ギャラリーはお前だけ。俺には見届ける義務があるの。仕事の一環なの、これがね」
カルトの言葉に、「やってることは見てるだけなんだし、同じじゃん?」と言われたが、反論しなかった。カルトの前で雪路が動いたのだ。彼は、カルトが付けたミサンガを、自らの手で取り払った。
邪悪な龍因子が波紋のように広がった。園内にいた鳥たちが一斉に飛び立った。
カルトは目を細め、急速に変貌を遂げる雪路の背中を見つめた。彼が何を考え、何を思いミサンガを外したのかは分からない。しかし、この瞬間、この世界から火野雪路という人間の存在は消え、代わりに悪魔が現出した。純白の司祭の衣服を身につけた魔術師、レギナルド・スコットが言及した悪なるデーモンの一人、バラトロン。
バラトロンの背中越しに見える紫は、悲しそうに目を伏せていた。その目尻から、一筋の涙が一滴こぼれ落ちた。
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