第24話



 どのくらいベンチに腰を下ろしていただろう。

 閉園のコールが流れた。夢の国は目の前で瓦解した。代わりに目の前に現れたのは、だだっ広い遊園地だ。人の姿は皆無で、遠くに見える人影も足早に出入り口に向かっていた。

 少し肌寒い春の夜風が湖面を優しく撫でる。写り込んだ満月が崩れるが、すぐに元に戻る。ハラハラと舞い落ちる桜の花ビラが、風に舞って湖に滑り込んでいく。

「そろそろ、か」

 そう呟く雪路に、紫はコクリと頷いた。

 どちらとも無く立ち上がる。

 俯いていた紫は、視線を感じて目を上げた。雪路と目があった紫は、口元に笑みを浮かべた。笑わなければ、きっと紫は泣いてしまう。雪路の前で、涙を見せるわけにはいけない。

 紫は雪路の手を握った。雪路の手から伝わる温もり。この温もりは一生忘れない。紫は目を閉じ、雪路の温もりを記憶に焼き付けた。

 紫が向かったのは、園内にある雑木林だ。普段は立ち入り禁止なのだが、今夜は特別に許可を貰っている。園外では、妖魔攻撃隊の隊員が待機しているはずだ。これで、この遊園地の中には紫と雪路の二人しかない。

「…………」

 紫は振り返った。人の気配は疎か、物音一つしない。人工の林に生命は極端に少なく、深い闇に包まれた林が続いているだけだ。

「偽りの命である俺が死ぬには、偽りの楽園、偽りの自然の中で死ぬのが一番だ」

 冗談か本気か見分けの付かぬ口調で雪路はそんな事を言っていた。紫は雪路の本心を計りかねながらも、言われた通りにした。

「死ぬ事に、恐怖は感じないの?」

 紫は足を止めた。右手で雪路の左手を強く握り、左手はすぐ脇にある木に当てる。

「…………怖くないと言えば、嘘になる」

 木々に遮られ、月光は此処まで届かない。薄闇の中で、雪路の表情を見る事は出来なかった。雪路はどんな表情をしているのであろうか。悲しみだろうか、それとも恐怖だろうか。もしかすると、何の表情も浮かべていないのかも知れない。

「だけど、受け入れるしかない。どのみち、今日を過ぎれば俺は悪魔に体を乗っ取られる。そうなれば、死ぬのと同じだ。だったら、俺が他の人を殺す前に、紫に殺して貰いたい」

「……ズルイよ」

 木に当てていた左手で顔を覆った。

「ズルイよ! 雪路は、自分の意見を一方的に言うだけ! あたしの意見はどうなるの? あたしだって、雪路に言いたいことは沢山ある!」

 我慢が出来なかった。紫は大粒の涙を流しながら、雪路に詰め寄る。雪路は紫の剣幕に押されるようにして数歩後退した。雪路が月光の下に躍り出た。

 月光に照らされる雪路の顔は青ざめていた。やはり、死ぬのは怖いのだ。

「あたしは、雪路とずっと一緒に居たい! 一緒に居たいよ!」

「何を言ってるんだ。君は、俺を殺して、普通の生活に戻るんだ! 俺は、君が居たから、自分が死ぬ事を受け入れられたんだ」

「あたしはイヤよ! 貴方が好きなの! 雪路が好きなの! 助けたい! どうしても雪路を助けたいの!」

 紫は地団駄を踏んだ。短い髪を振り乱し、その場に崩れ落ちる。

「あたしは、殺したくない! 雪路を殺したくない!」

 小さな拳を固め、地面に叩きつける。何度も何度も地面に打ち付ける。龍因子で強化された拳は、小さな拳を痛めずに地面を小さく凹ませる。

「誰か教えてよ! 雪路を殺さなくて済む方法を! 先生! カルト! 大地! お願いだから教えてよ! 誰か…何か……方法を……教えてよ……!」

 泣かないと決めたのに。雪路を笑顔で送ってあげると誓ったのに。紫は泣き崩れた。常日頃、セリスから如何なる時も冷静であれと言われているにも関わらず、紫は取り乱していた。それは、自分でも驚くほどの事だった。溢れ出た感情は涙と叫びになって迸る。一度放たれた激情は、もう制御できなかった。

 月光の差し込む雑木林に、紫の悲鳴とも嗚咽とも付かない泣き声が流れた。どこかで、バサバサと野鳥が羽ばたいた。

「紫……」

 紫の傍らに跪いた雪路は、丸くなる紫を抱きしめた。背中から全身に広がる雪路の温もり。それは、紛れもなく人の持つ温もりだった。

「俺の事を思ってくれているのは、本当に嬉しい。だけど、もう仕方のないことなんだ。俺の事を本当に思ってくれているなら、せめて、苦しまないように楽にしてくれ」

 投げかけられる優しい言葉。しかし、その言葉は更に紫の心を掻き毟るだけだった。

「雪路……、あたしは、あたしは……」

 分かってはいるのだ。方法は一つしかない。今回は、最初から一つしか方法が無いのだ。過程はいくつもあるだろうが、どの道を選んだとしても、辿り着く答えはたったの一つなのだ。

 雪路を殺して事件が終わる。それ以上でも、それ以下でもない。この世界から、第三種生命体が一体消え、それと同時に高校生が一人忽然と姿を消すだけなのだ。学校には雪路は転校したと伝えられるだけ。あらゆるデータベースから火野雪路の名前が消える。それで、終了なのだ。

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