第22話

 閉店間際のアルルーナに訪れた紫は、「麟世姉様、コーヒーを頂戴ぃ~」と珍しくコーヒーを注文した。

 麟世はアメリカンを入れると、紫の前に置いた。ピンク色のパーカーに黒いミニスカートという出で立ちの紫は、コーヒーに砂糖とミルクをたっぷりと入れると、ちびりと口にして「うっ、苦い」と独りごちた。よく眠れていないのだろうか、紫は眠そうに目を擦りながら、黙って麟世の仕事を見つめていた。

 閉店の時間になった麟世は、出入り口の鍵を閉めてカウンターの照明を残して全て落とした。

 麟世は自分のコーヒーを煎れると、うつらうつらしている紫の横に腰を下ろした。もちろん、カラになった紫のカップにもなみなみとコーヒーを注いでやる。厨房では店主が翌日の仕込みを行っているため、後一時間はこうしてゆっくりとした時間がもてる。

「いつもの元気はどうしたの?」

「ん? あたしはいつも元気よ~」

 そう言ってニコリと微笑む紫は、両手でカップを包むように持つと、立ち上る湯気をフッと吹いた。

「でも、ちょっと凹んでるのも事実なの」

「…………そう」

 麟世はカップに口を付ける。浅煎りのキリマンジャロ独特の強い酸味が鼻に抜ける。麟世はこちらから話を振らず、ジッと紫の言葉を待った。普段はマシンガンのように息つく間もなく話す彼女が、こうして黙っているのだ。恐らく、彼女の中では気安く口に出来ない深刻な問題なのだろう。

「姉様は、あたしの事を何処まで聞いた?」

 カルトという固有名詞は抜けていたが、それだけで紫が何を言いたいのか理解できた。「大雑把な内容は大体」

 紫はジッと手の中で揺れる黒い水面を見つめている。

「あたしね……」

「あたしは……」と、紫は二度続けた。しかし、開き掛けた口からそれ以降の言葉は出てこなかった。何かを言おうと口を開けるが、酸欠状態の魚のように、数度パクパクしただけで再び閉じてしまう。何度かそれを繰り返した紫は、ゆっくりと溜息を吐くと「姉様は何でカルトなの?」と、尋ねた。

「えっ?それは」

 一瞬、麟世は口籠もった。はぐらかしてやろうかとも思ったが、こちらを見つめる紫の瞳は真剣そのものだ。麟世は「ん~、そうね」と前置きをしてから。

「たぶん、私と同じ気持ちを共有できるから、かしら」

「同じ気持ち?」

「ええ。紫ちゃんも知ってるでしょう?私のお祖父ちゃんとお婆ちゃん、それにお父さんと兄さんは、第三種生命体に殺されたって」

「うん。詳しくはカルトも大地も話してくれないけど。それは知ってるわ」

「白河家の呪いでね、本当は私も去年の秋口に死ぬはずだったの。でも、それをカルト君と大地が救ってくれたの。途中でね、私は一方的に依頼を破棄したわ。玉砕覚悟で、私は第三種生命体と差し違えるつもりだったの。でも、もうこれで終わりって所で、二人が駆けつけてくれたわ」

「それで、姉様はカルトに惚れたわけ?」

「ううん。それは本当に小さな切欠に過ぎないの。私は、初めカルト君にあった時、クラスメイトだと気がつかなかったわ。でも、私は初めて見た時から、あの目に引かれたの。青空のように澄んでいて、子犬のように寂しそうな眼差し。あの目を見た時、私は思ったの。ああ、この人なら私のことを理解してくれる。この人も、私と同じような気持ちを味わってきたんだって」

 「でもね」と言って、麟世は頬を緩めた。細められた目は、紫ではなく違うものをみていた。

「でも違った。私とカルト君が見ていた物は違ったの。私は過去を見ていて、カルト君は未来を見ていたの。あの人がいたから、私は本当の意味で生きていられることが出来るの。過去ではなく、未来を見て生きていくことを教えてくれたの」

「それはきっと、カルトも同じよ。アイツ、麟世姉様と知り合ってから、随分変わったもの」

「ふふ、そうかもね。でもね、私はカルト君と出会って変わることが出来たし、これからも変わっていこうと思う。カルト君と見ている先も、目指しているものも違うけど、私は、ずっとカルト君の側にいたいと思う。たまに、顔を寄せてカルト君と同じ方向を見てみたいと思うけどね」

「そっか…………。人を好きになるって言うのは、ずっと一所に居たいとか、同じ事をしていたいとか、そうした物ばかりじゃないのね」

「月並みな言い方だけど、離れていても気持ちはいつも繋がってるって言うのかな。まだまだそんな関係じゃないけどね」

 カルトとそんな関係になるのは、一体いつの話だろう。今告白しても断られることは分かりきっている。だから、今の距離で満足しているが、もう少し時間が経てば、もっと距離を縮める事が出来るはずだ。

 麟世はコクリとコーヒーで喉を湿らせると、横目で紫の様子を伺った。紫はコーヒーに口を付けて「これ、ニガ酸っぱい」と眉根を寄せた。

「麟世姉様、あたし、雪路を殺す事が出来るかしら?」

 紫は消え入りそうな小さな声を発した。昨日、電話の向こうであれほどはしゃいでいた人物とは思えないほど、紫はシュンッと項垂れていた。ギュッと小さな唇を噛み締め、自分の行動が正しかったのか、胸中で反芻しているのだろう。しかし、結局答えは出ない。

(違うわよね。紫ちゃんは、答えを出している。ただ、それを実行出来るかどうかが分からないのよ)

 麟世は答えることが出来ない。これには、火野雪路という人の命が関わっているのだ。カルトは雪路のことを第三種生命体だと言っていた。そして、カルトは火野雪路を人ではなく、第三種生命体として認識している。口にはしないが、カルトが雪路を信頼していないことは一目瞭然だった。紫が雪路を殺せないとしたら、間違いなくカルトが動くだろう。そして、一切の感情を挟まずにマクシミリオンを振り下ろすはずだ。

 それではいけない。麟世にも、それだけは断言できる。これは、紫がやらなければいけない事なのだ。紫のためにも、火野雪路の為にも。

「本当は、部外者の私がこんな事を言うべきじゃないんだろうけど」

 麟世はそう前置きをした。紫の視線が注がれる。

「今回の事件。紫ちゃんは命を救うんじゃなくて、心を救うんだと思う。人として最後を迎えたいと思う火野先輩の心を救う戦いだと思うの。次の満月で、火野雪路という人格はなくなり、悪魔になる。そうカルト君は言っていたわ。だから、紫ちゃんは、火野雪路が火野雪路である時に、殺して上げる事が重要だと思うの。ううん、火野先輩が望む形で最後を迎えるのが、一番良いのかも知れない」

「雪路が、雪路であるある時に……。雪路の望む形で……」

 紫は目を伏せた。長い睫が不安そうに揺れている。

 紫には分かっているのだろう。自分のやるべき事が。ただ、誰かに背中を押してもらいたかったのだ。カルトでも、大地でも、セリスでもない。少し離れた所にいる麟世に、それで良いのだと言って貰いたかったのだろう。

「……そうよね。あたしがやらないで、誰がやるのよ……。雪路はあたしの彼氏なんだもの。彼女が最期を看取ってやらずに、どうしろっていうのよ」

「紫ちゃん、私はこうして応援することしかできないけど、頑張ってね」

 麟世はカウンターの上で握られていた紫の手を握り締めた。麟世の掌にも収まってしまうほど小さな手。この手で、紫はこれから数多の第三種生命体と命のやり取りをしていくのだ。多くの命を救い、また奪っていくのだろう。

「大丈夫よ、麟世姉様。あたしは大丈夫。……だいじょう……ぶ……」

 熱い雫が手の甲に落ちた。紫は小さな体を震わせて、大粒の涙を零していた。口をきつく結び、口から嗚咽が出ることを必死に押さえている。

「あたしが……絶対に……雪路を…………殺すんだから…………。雪路を、救ってやるんだから…………」

 悲壮な叫びが聞こえてきそうだった。

 麟世には紫の気持ちがよく分かった。紫は心の底から雪路を愛しているのだ。演技で人を愛するほど、紫は女性として成熟していない。何の迷いもなく、理由もなく人を愛することが出来る。それは幸せなことであると同時に、不幸なことでもあった。

 麟世は声を殺して無く紫を、ただ黙って見つめていることしかできなかった。


 時間は過ぎ、三日後の満月の日を、紫は迎える事となった。

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