第20話
緩やかな斜面を暖かな風が登ってくる。空には綿飴のような薄雲が掛かっており、所々オレンジ色に染まった空を望めた。
夕日に染まる街を、紫は雪路の横に立って見つめていた。
「これが、俺が住んでいた街か」
「そうよ、雪路は、見るの初めて?」
「ああ、自分が住んでいる街なんて、こんな機会でもない限り改めて見ようとも思わないしな」
雪路の言葉に、紫は寂しそうに笑みを浮かべる。
「この街には、本当に沢山の命が息づいているんだな」
「ええ、そうよ。それを、あたし達が守っているの」
「まだまだ半人前だけどね」と、紫は付け足す。
「俺がいなくなっても、頑張ってくれよな」
「……うん」
昨夜、紫は雪路を助ける方法を考えた。しかし、いくら考えても良い解決方法は見つからなかった。たぶん、セリスに聞いても、カルトに聞いても、大地に聞いても答えは変わらないだろう。
雪路の体には、火野雪路の魂と、悪魔の魂が息づいている。仮に、雪路が悪魔に乗り移られているというのなら、解決方法はいくらでもある。それこそ、カルトのマクシミリオンで斬り払うとか、大地の呪符を用いるとか、紫でも方法は思いつく。しかし、今回は違う。雪路と悪魔の魂はイコールなのだ。
悪魔を殺せば、雪路は死ぬ。逆に、雪路を殺しても悪魔は死ぬのだ。
畢竟(ひつきよう)、紫は雪路を本当の意味で助けることを諦めたのだ。
「そんな顔をしないでくれよ。俺は、特に後悔はしていない。むしろ、最後の最後で、こうして生きている実感を得られただけで、十分なんだ」
手すりに身を預けながら、雪路は目を細める。
寂しさや悲しさなど微塵も感じられない雪路の横顔を見て、紫の胸は苦しくなった。
雪路は、今までどのような人生を歩んできたのだろうか。終わりを前にして、どうしてここまで達観した表情を浮かべていられるのだろう。この三日間が、彼が生きてきた今までの時間と、等しいかそれ以上の価値があるというのだろうか。
紫の心情を読み取ったかのように、ポツリと雪路は語り出した。自分に言い聞かせるかの如く静かな口調は、神を前にして懺悔をしているかのようだった。
「俺がさ、両親を殺したんだ。最初はさ、夢の中で良くその映像を見て、悪魔が両親を殺したって思っていた。だけど、本当は違ったんだ。あの時、本当の俺は殺されていた。火野雪路という男の子はあそこで死んで、悪魔が、俺があの子の中に入ったんだ」
「どうして、そんな事を?」
第三種生命体が人の中に入り込むというのは良くある話だ。しかし、死体の中に入り込み、人として生きる第三種生命体の話は聞いたことがない。成りすましはあるが、人になりきるなどあり得ない。まして、雪路の中にいる悪魔は、『火野雪路』という全く別の人格を生み出し、今まで人として生きてきたのだ。恐らく、今までは悪魔は外に出てこなかったのだろう。だから、雪路は自分が悪魔だとは気がつかず、悪魔が起こした行動を、夢だと思っていたのだ。
「あいつは、怪我を負っていた。この世界に萌え出てきたアイツは、女性を犯し、人を殺した。だけど、妖魔攻撃隊に追われたんだ。妖魔攻撃隊の執拗な追撃を受けて、瀕死だったんだ」
雪路は一端言葉を止めた。きつく結んだ口。握りしめた拳。紫は、雪路の拳に自分の手を添えた。温かい雪路の手だ。これが、人ではなく悪魔だとは、到底思えない。
「アイツは、火野雪路の両親を殺し、子供も殺した。自分が入るには、子供の意識、魂が邪魔だったんだろう。悪魔は自らの肉体を捨て、魂を子供の中に入れた。だけど、子供の体が悪魔の魂に耐えられるはずもない。だから、悪魔は自らの意識を断ち、もう一つの人格を作りだした。成長して悪魔の魂を受け入れ、肉体を変異させるまでの時間を稼ぐために」
雪路の言う魂とは、龍因子のことだ。限りなく流動的で指向性のある龍因子は、時としてその人物の記憶は疎か人格さえも宿すことが出来る。一見すると眉唾物だが、そこらで目撃される幽霊が良い例だろう。
古代龍人の王の力を引き継ぐとされるカルトは、体の中に『カルト・シン・クルト』の記憶と人格を宿しているとセリスから聞いたことがある。もっとも、カルトの場合は良い具合に共生が出来ているため、何も問題はないようだが。
「人として生きているつもりでも、俺は少し違ったのかも知れない。どんなに人に好かれようと思っても、みんな俺の回りからいなくなってしまう。俺は小さい頃から友達が少なくてさ。いつも一人だった。誰からも相手にされないんだ」
雪路は、左手の指で右手首に巻いてあるミサンガを弄んだ。
「でも、今になってその理由が分かった。みんな、俺が違うことを分かっていたんだ。外見を似せても、気配を似せても、やはり悪魔は悪魔なんだ。みんな敏感に俺の違いを嗅ぎ取って、離れていったんだろう」
「だから、俺はずっと一人だったんだ」唇を噛み締め、雪路は目を細めた。静かな高台には、風が下草を揺らす音だけが響いている。
「でも、今は違うでしょう?」
今の雪路は一人ではない。紫がここにいる。自分が横にいる。カルト達に言わせれば、要らない情けだと言われるだろう。それどころか、逃亡の恐れがあると言うかも知れない。だが、紫は自分の判断に自信を持っていた。間違っていたとは思っていない。
第三種生命体を倒すのがハンターの使命だ。しかし、人を救うこともハンターの使命だと紫は思っている。ならば、紫は雪路を助ける必要がある。馬鹿げているとか、無駄な事と言われようが、やらなければいけない。
「悲しいことは言わないで。一人だなんて、思わないで」
紫が真っ直ぐな眼差しを向けると、雪路は悲しそうに微笑みながら、小さく頷いてくれた。
「そうだね。今は紫がこうしている。本当に嬉しいよ。俺は一人じゃない。そう思えるだけで、十分なんだ」
雪路は左手首に巻き付けられたミサンガを指先で弄んだ。カラフルな紐で作られた、何の変哲もないミサンガだ。
紫の視線に気がついたのだろう。雪路は左手をポケットに突っ込むと「紫に兄弟はいるの?」と尋ねた。雪路は紫から、夕闇に溶け込み始めた街並みへ目を向けた。
「兄弟?」
「ううん。いないわ」と紫は答えてから、雪路と同じ方向を向く。こうして雪路と同じ物を感じ取ることが出来る。紫は幸せだった。雪路も同じように思ってくれているのなら、紫は嬉しい。
「でも、兄弟と呼べる人は二人いるわ。一人はちょっと無愛想だけど、格好良くて、でも奥手でね、自分の気持ちを上手く口にすることが出来ないの。まあ、それを端から見てるのが面白いんだけどね。もう一人は、本当に手がつけられない程バカでね。でも、気さくでいつもあたし達を笑わしてくれるの。普段はホントーに頼りにならないんだけどね、いざって時は、結構頼りになるのよね」
「へぇ、いいお兄さんなんだね」
「まあ、何だかんだ言って、あたしはあの二人が大好きなの。あっ、大好きって言っても、男女関係の好きとかじゃなくてね。本当に家族としてって意味。あ~、これは他言無用ね! こんな事アイツ等に聞かれたら、あたし一生バカにされちゃうから! そもそも、あの二人はあたしの事なんて何とも思ってないでしょうしね。ただの五月蠅い美少女程度にしか思ってないのよ、きっと!」
ツンッと唇を尖らせた紫。そんな姿を見て、雪路は笑った。雪路は声を出して笑った。
「なに? あたし、おかしなこと言ったかしら?」
「いいや、紫を見ていると、俺まで幸せになってくるよ。心が温まるよ」
「え? そ、そう……?」
紫は照れくさそうに頬を描くと、恥ずかしさを紛らわすように足元の小石を蹴り飛ばした。
「今晩、電話して良いかな?」
「うん、もちろん。いつでもOKよ~♪」
紫の答えに満足そうに微笑んだ雪路は、紫の手を取ると「じゃ、帰ろうか」と言ってゆっくりと歩き出した。手を引かれる紫は、静かに雪路の横に体を寄せた。その時の紫の表情は、いつも見せるハツラツとした少女の顔ではなく、恋を知った女性の顔だった。
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