第16話

「チッ」

 紫は崩れた壁から庭に入ると、そのまま突っ切った。途中、何事かと箒を持って顔を出した住人に、「危険だから家の中へ! 壁の修理費用は妖魔攻撃隊に言ってね!」と叫んだ。

(なんで? どうして? 相手は魔法は疎か、龍因子さえ使っていなかった。予め結界や魔方陣、護符の類を持っていたわけでもない)

 だが、実際に悪魔は逃げた。忽然と空間に溶け込むようにして逃げてしまった。疑問符が頭の中を乱舞するが、紫の体は反射的に動いていた。考えるのは後回し。今は逃げた悪魔を追いかける方が先決だ。手負いの悪魔は焦っている。もし、民家の中にでも入られてしまったら、それこそ一大事だ。

「クソッ、マズったわ~!」

 口では暢気にぼやきながらも、表情は真剣そのものだった。壁を一つ、二つ飛び越えた紫は、片側一車線の道路へと出た。此処を北に向かえば、雪路の住むアパートだ。悪魔は、先日消えた場所に戻ろうとしているのだろうか。

 道の中央に悪魔がいた。こちらを振り向きもせず、一心不乱に逃げている。

(今度こそ! 逃がすものですか!)

 カーディナルを巨大な鎌に変化させた紫は、龍因子で肉体を強化し一瞬にして悪魔との距離を縮めた。月光を受けて冷たく輝く大鎌の黒い刃が、悪魔の無防備な首筋に向けて振り下ろされた。

 チラリと、悪魔がこちらを振り返った。逆三角形の小さな頭部、そこに付いているのは、何の感情も宿さない赤い瞳ではなく、意志のある瞳だった。その輝きは、人の持つそれとよく似ていた。

 紫の脳裏に光のように何かが走り抜けた。しかし、紫がその原因を理解するよりも早く、カーディナルは悪魔の首を凪いでいた。いや、先ほどまで悪魔のいた空間を凪いでいた。

 再び、悪魔の姿は紫の前から忽然と消え去った。

 唖然とする紫。気配を探ってみるが、周囲に悪魔の気配は感じられない。昨日と同じように、悪魔は気配さえ残さず忽然と消えてしまった。

「…………」

 虹色メッシュの髪をクシャクシャにした紫は、暫くその場に留まっていた。龍因子を周囲に放ち気配を探ったところで、やはり悪魔の居場所を特定することは出来ない。恐らく、龍因子を消してどこかに身を潜めているか、ここから遠くに逃げてしまったのだろう。

 一つ溜息をついた紫は、フラフラと覚束ない足取りで歩道まで歩むと、街灯に背を預けた。

「もう、どうなってるのよ~……」

 この状況では、紫でなくとも文句を言いたくなるだろう。相手の戦闘力は紫よりも遙かに劣る。なのに、どうしても捕らえることが出来ない。捕らえたと思った瞬間には、相手は煙のように消えてしまう。握った手から、煙のようにすり抜けてしまう。

 龍因子の強弱が絶対的な戦闘力の差にはならない。セリスは常日頃口にしていた。最初は、龍因子さえ強ければ負けることはないと思っていた。だが、実戦を体験してみて、言葉の意味を思い知った。負けはしないが、勝つことも出来ないのだ。今回のように、相手が龍因子の余韻すら残さず消えてしまう場合は、力よりも頭を使わなければいけないのだ。

 空を見上げる紫。

 冷たい風が髪を揺らした。

 紫の頭には、最後に見た悪魔の目が浮かんでいた。汚れなく澄み、どこか寂しそうな瞳は、どこかで見た事のある瞳だった。だが、いくら考えても何処で見たのかが思い出せない。

 遠くでパトカーのサイレンの音が聞こえてきた。

 あれほどの騒ぎを起こしたのだ。近隣の住民が通報したのだろう。

 紫は街灯から背を離した。警察に状況を説明をする必要がある。もしかすると、妖魔攻撃隊も一緒に来ているかも知れない。

 大鎌を赤いニット帽に変えた紫は、現場に戻ろうと足を動かそうとしたが、その一歩を踏み出すことはなかった。微かな気配を感じた。遠くない、すぐ近くに人の気配を感じる。この気配は、一時間ほど前に逃がした気配と酷似していた。

 気配を消した紫は、そっと壁の影から覗いてみる。すると、雪路の住むアパートの前に、一人の人物が立っていた。気配を消し、物陰に隠れる人物。気配の消し方や身のこなしから、素人ではないことは一目瞭然だった。

 紫はそっと動くと、気配も足音もなく一陣の風のように背後に立った。

「死にたくなければ指先一つ動かさないで、何も話さないで」

 相手の首筋にそっと手を当てた。もし、僅かでも不審な動きをしたら、この手で首をへし折ることぐらいは容易い。紫の殺気に満ちた気配を敏感に感じ取ったのだろう。その人物は忠告通り、身動ぎ一つしない。

「両手を挙げて、ゆっくりとこちらを向きなさい」

 紫の言葉に、その人物はゆっくりと両手を挙げるとこちらを向いた。

 月明かりに照らされるその顔を見た時、紫は「あっ」と小さく言葉を発してしまった。

 そこには、見覚えのある顔がバツの悪い笑顔を浮かべていた。



 欠けていた月も、徐々にその姿を真円に近づけていた。数日前までは星明かりに負けていた月光も、今は星明かりを凌ぐ輝きを放っていた。


 満月まで後四日。


 喫茶店アルルーナは盛況だった。会社帰りの社会人や、塾や部活帰りの学生で賑わっていた。落ち着きを取り戻したのは、夜の九時を少し回った時分だった。

 カルトと大地は十時前にアルルーナを訪れると、いつものカウンター席に腰を下ろした。

「いらっしゃい、何にする?」

 人もまばらな店内のテーブルを拭いて回りながら、麟世は二人の注文を取る。

「ボクはコーヒーフロートにミートソーススパゲティ」

「俺はピザトーストにマンダリン。マーマレードは多めで、コアントローは少なくして」

「はい」

 麟世は注文を厨房にいる店主兼シェフに伝える。スパゲティとピザは店主に任せ、麟世はドリンク作りに取りかかる。

 大地の注文したコーヒーフロートの説明はあえて必要ないだろう。カルトの注文したマンダリンとは、アレンジした紅茶だ。スリランカのキャンディ地方で取れるくせの少ない茶葉を使用し、マーマレードジャムと、柑橘系の香りが特徴のコアントローと呼ばれるリキュールを入れた物だ。コアントローの香りと、マーマレードジャムの爽やかな甘みが特徴のアレンジティーだ。

 手早くそれらの品を作ると、二人の前に置いた。

 目の前に座るクラスメイト二人は、水曜日だというのに一様に疲れた表情を浮かべていた。特に、カルトの方は店内に入ってきてから三回は大きな欠伸をしていた。学校でも、朝からカルトはぐったりと机に突っ伏し、授業中の大半を夢の中に過ごしているようだった。

 学校では寝ているくせに、アルルーナに来ては小難しい本を読んでいる始末だ。この情熱を、もう少し勉強の方に活かせない物だろうかと、常々麟世は思っていた。大地は大地で、アルバイトの女の子の揺れるミニスカートの裾をずっと目で追っている。一度注意をしたが、「ボクがそんなイヤらしい事するわけ無いだろう? 麟世の考えすぎだよ」と、真っ向から否定していた。否定はしていたが、やはり大地の視線は女の子の下半身や胸元に注がれている。無意識でやっている分、こちらも質が悪い。

 咳払いをして大地の注意をこちらに向けた麟世は、欠伸を噛み殺して本を読んでいるカルトに尋ねた。

「昨日、遅かったの?」

「……うん。少し紫の様子を見てきたからね」

「紫ちゃん、どうだった?」

「また逃がしたみたい。まあ、相手はちょっとクセのある奴みたいだからね。ちょっと手間取るんじゃないかな」

「で、お前の方は分かったのか?」

 大地の問いにカルトは頷くと、読んでいた本から目を上げた。余程眠いのだろう、その目は赤くなっていた。

「俺の方はとりあえず解決したよ。後は、紫にお任せだな」

「へ~、グレモリーが役に立ったみたいだな。ボクも、何か契約してみるかな」

 「ニャハハ」と笑う大地。

 「ま、便利って言えば便利だけど」と前置きをして、カルトはマンダリンを一口啜る。

「その便利は命と天秤に掛けるほどの価値かあるかどうか、よく考えろよ」

「うっ……!それを言われると……。確か、異性の気を惹くソロモンの霊もいたじゃん? やっぱり、止めた方がイイかな?」

「そんな理由じゃ、契約の際に先生は付き合ってくれないだろう。一人でやると、間違いなく逝けるぞ。正直、俺も逝けそうだった」

「だよな。逝けるといっても、そっちの逝くは、まだいいや……」

 しみじみと呟いた大地。その時、ドアのベルを小さく鳴らして紫が入ってきた。紫は、カウンターにいる麟世を見るとパッと表情を明るくしたが、その向かい座るカルトと大地見ると、ガックリと肩を落とした。

「なんだ~、二人とも早めに帰ったと思ったら、ここに来てたの~……?」

 紫はそう呟きながら、カルトの横に腰を下ろした。

「麟世姉様、あま~~~いココアを頂戴~」

 いつもの元気がない紫は、まるで萎れてしまった花のように見ていて辛くなる。少しでも元気が出るようにと、麟世は飛びきり甘いココアをいれた。

 紫はココアのカップを両手で包むように持つと、フーフーと息を吐いて少し口に含んだ。少し落ち着いたのだろう。紫のお尻に付いているゼブラカラーの尻尾がピョコンと跳ね上がった。

「あら? 紫ちゃんその尻尾は?」

 麟世の指摘に、カルトと大地も紫の尻尾に気がついたようだ。

 ファーストラップにしては、出来が精巧すぎる。麟世もいくつか持っているが、このようにピョコピョコ動く物は持っていない。いや、そもそも動くような代物ではないのだ。

「なんだこれ?」

 そう言って、無造作にカルトが掴む。

「あンっ…!」

 ピクリと体を震わせた紫は、僅かに顔を上気させる。初めて聞く紫の艶っぽい声に、こちらの顔が赤くなってしまった。

「は? お前、なんて声出してんだよ、気持ちワリーな」

「ちょっと! 勝手に触っておいて失礼なこと言わないでよね! これはね、カーディナルなの! だから、あたしと直接繋がっているのよ! もう!」

 そう言って、紫はゼブラカラーの尻尾を、リスのようにクルクルと丸めた。前々から思っていたが、カーディナルとは何と汎用性の高いマジックアイテムなのだろう。

(いいな~、アレがあれば、色々なコーデが出来るじゃない)

 麟世の羨ましそうな視線には気づかず、紫は片肘を突くとカルトと大地を睨め上げた。

「ねえ、あんた達さ……」

 いつもと違う口調に、二人は「ん?」と紫を見る。

 丁度、店主が二人に注文の料理を持ってきた。いつもと違う雰囲気を察した店主は、愛想笑いを浮かべただけで料理を置いて足早に去っていった。アルルーナの店主も、三人とは浅からぬ仲なのだ。僅かな空気の違いで、どのような問題が起こっているのか分かったのかも知れない。ちなみに、麟世には皆目見当が付かない。

「あたしの仕事が結果こうなるって、いつから分かっていたわけ」

 強い非難の色を滲ませる端的すぎる言葉。しかし、彼女の兄弟子二人は顔色一つ変えない。

「ボクは、ついさっき。数分前」

「俺は、昨日グレモリーからヒントをもらった時に、大体予測は出来ていたよ」

「……そう」

 深々と溜息を吐き出した紫は項垂れた。サラサラと、虹色メッシュを差したバルーンボブの髪が揺れる。

「あたしが……何も分かっていなかったって訳ね」

 呟くように放たれた言葉。それは、カルト達を非難しているようにも取れるし、自分の未熟さに腹を立てているようにも思える。恐らく、その両方なのだろう。

 状況を飲み込めない麟世だったが、紫が抱えている問題がどれほど深刻なのか、目の前に座る三人の表情を見れば一目瞭然だ。麟世が口を出して良い状況ではないことは、バカでも分かる。

「で?」

 クルクルとパスタをフォークに絡めた大地は、美味しそうに口に運ぶ。

「どうする? 俺が代わろうか?」

 タバスコをピザトーストに掛けたカルトは、紫を見つめた。秋空のように澄み切った眼差しからは、何の感情も読み取れない。

 紫は項垂れたまま顔を上げない。カルトの言葉に、否定も肯定もしない。今までの紫なら考えられない事だ。昨日までは、あれほど自分で依頼を達成することに固執していたのに。

 暫くの逡巡の後、紫は首を横に振った。

「いい。自分でやるわ。だって、あたしはハンターですもの。そうでしょう?」

 顔を上げた紫。その顔には、無理していると一目で分かる作り笑いが浮かんでいた。

「そうだな。頑張れよ、紫」

「うん」

 カルトの言葉に素直に頷いた紫は、ヒョイッと手を伸ばすとカルトが手にしたピザトーストを取り上げた。まだ冷めないココアをグイッと一飲みし、トーストを口に押し込んだ。

「じゃ、あたし行くわ」

「今日も張り込みか?」

 大地の問いに紫は、「もう張り込みは止めたの」と携帯電話を振る。その仕草を見たカルトは、小さく笑った。

「日下部さん、褒めてたぞ。気配も足音も消さず、背後を獲ったってな」

「あ! 日下部のオジさん、やっぱりカルトに報告したんだ! もう、恥ずかしいから言わないでってあれほど言ったのに。あ~………もう、間違いとはいえ、妖魔攻撃隊の隊員を脅したなんて、ホント、恥ずかしいわ~。でもま、日下部さんのおかげで、あたしにも事件の全貌が見えたんだから、良しとするしかないわよね~」

 そうぼやいた紫は「じゃ、支払い宜しく」と、カルトと大地の背中を叩くと、こちらに手を振って出て行ってしまった。

 日下部と言う、聞いたことのない名前が出てきた。そして、事件の全貌が分かったとも。麟世の知らないところで、事件は急展開を迎えたようだ。事件が解決したら、カルトにでも話を聞いてみよう。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る