第13話


 ここは何処だ?

 こいつは夢か?

 雪路は困惑した。

 初めて見る景色。

 初めて嗅ぐ匂い。

 全てが違っていた。

 命の息吹があった。

 命の調和があった。

 命の連鎖があった。

 全てが揃っていた。

 完璧な世界だった。

 後は破壊するだけだ。

 殺し、喰らい、犯す。

 漸く辿り着いた世界。

 ここは、楽園だった。


 空には美しい満月が輝いていた。大きな、とても大きな満月。太陽の光を全身に受けて反射する姿は、自ら光り輝く太陽よりも優しい光を投げかけてくれる。

 楽園は、一瞬の気の緩みで地獄へと変化した。

 俯瞰した視線で、雪路は第三種生命体、悪魔を見下ろしていた。雪路の胸には言い知れぬ焦燥感が生じている。見ているだけではなく、雪路の深層心理が悪魔とシンクロしているのか。

 悪魔には翼が映えていた。体毛は少ない。爬虫類のようにゴツゴツとした皮膚は鈍色に輝いており、見るからに頑強そうだ。背丈は民家のブロック塀よりも頭一つ高い。

 悪魔が辿った道には、黒い血痕が点々と続いていた。

 複数の気配が迫っているのを雪路は感じ取った。先日感じた気配とは違う、小さな気配だ。しかし、その小さな気配にこの悪魔が傷を付けられたことを雪路は知っていた。

 一対一では負けはしないが、複数で取り囲まれてしまっては流石に分が悪かった。致命傷を負った悪魔は、這々の体で追っ手を巻いた。だが、それも束の間。悪魔が流す血痕と、すでに気配を消すことさえ困難な体が、相手に自らの位置を教えていた。

 コイツはもう終わりだ。本当は、この悪魔はここで消えるはずだった。なのに、コイツは消えなかった。

 一軒の民家に悪魔は入っていった。寝静まった住宅街。数ある民家の中で、悪魔は偶々その一軒を選んだ。何故そこが選ばれたのか、明確な理由などありはしない。ただ、悪魔の体力が付き欠けた時、そこにあった。ただ、それだけだった。

 裕福でもなければ、貧乏でもない。どこにでもある一般家庭。こじんまりとした一軒家だ。最後の力を振り絞り、玄関をすり抜けた悪魔。雪路はその後を追おうとした。しかし、雪路は悪魔の後を追うことが出来なかった。雪路は、玄関の脇に掛けられた表札を見つめていた。

「止めろ………!」

 気がつくと、雪路は叫んでいた。

「止めろ!」

 ドアをすり抜けた雪路は悪魔の後を追った。雪路は血痕を追って二階へと向かった。床や壁には悪魔の流した黒い血液で汚れていた。採光窓から差し込む月光が、白い壁に付着した血痕をグロテスクな絵画のように引き立てていた。

 雪路が向かった先は寝室だった。そこに寝ているのは、三十前の夫婦と、生後数ヶ月の赤ん坊のはずだった。

「ああ………!」

 雪路は愕然とした。すでに遅かった。

 寝室は血に染まっていた。壁、床、天井、窓にもベットリと血が飛び散っていた。

 悪魔の進入に気がつかなかった夫婦は、悪魔に惨殺された。喰らうわけでもなく、ただ、そこにいたから殺された。そして、夫婦の横に眠る子供。彼は、生暖かな血を浴びて噎び泣いていた。

 大きな声で泣き叫ぶ赤ん坊。もう、いくら泣いても彼の両親はあやしてはくれない。この世界に一人残された子供。彼のこれから歩む道を、雪路は誰よりも良く知っていた。

「これは、俺だ……、この赤ん坊は、俺だ……」

 気がつくと、雪路は泣いていた。

 彼の足元には、力尽きた悪魔が横たわっていた。



 いつの間に寝ていたのだろう。部屋は暗く、掃き出し窓からは未成熟な月が弱々しい光を室内に忍び込ませていた。

 嫌な夢を見た。あの夢を見るのは久しぶりだった。

 雪路は涙を拭った。あの夢を見た後は必ず涙を流している。写真でしか見たことのない両親。何一つ憶えていないはずなのに、夢の中で死んだ両親を何度も見る皮肉。

 第三種生命体の夢を見るからか、それとも、稲城紫と会ったからか。

 雪路はベランダに出ると、空を見上げた。もう少しで満月だ。両親が死んだ夜も満月だった。


 満月まで、後五日といったところか。


 暫くベランダで月を眺めていた雪路は、気配を感じて視線を下げた。民家の影に、サッと誰かが隠れた。一瞬、心臓を掴まれたかのように体が硬直した。雪路は慌てて部屋に戻った。掃き出し窓の鍵を閉め、カーテンを閉める。暗くなった室内。カーテンの隙間から差し込む光が、本棚を照らしていた。雪路は本棚を見つめると、小さく舌打ちをした。

 もう、余り時間は残されていないのかも知れない。

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