3
文化祭を一週間前に控えて、ぼくは才能を伊吹に見せつけてやろうと意気込んでいた。
熱田のお姉さんが手書きの宣伝ポスターを作ってくれて、ぼくと熱田はポスターを校舎内のいたるところに貼った。
その作業中、ぼくらは映画研究会が活動に使っている視聴覚室に向かった。
視聴覚室で映画を観ていた伊吹を呼び出すと、ポスターを彼女に渡す。
「おれら、文化祭でステージでるんだよ」
「漫才でもやるの?」伊吹は小馬鹿にするように笑った。
「音楽だよ。アコギで、熱田とおれの二人で演奏する。言っとくけどすげえ上手いからな」
「そうだぞ。すげーんだぞ」熱田が便乗して言った。
「へえ。音楽? 二人が?」伊吹はニヤニヤと笑みを浮かべている。
「わたしフォークとかけっこう好きだし。二人の番になったらちゃんとステージの一番近くで聞くよ。友達も連れて。そうだ、映研の先輩たちも誘おうかな」
「ハンカチ用意しとけよ。感動して泣くだろうからな」
「楽しみにしてる」と、伊吹は言った。
そういえば、コンビ名の「サンライズボンバー」を命名したのは熱田だった。
バカげたその名前を熱田が言った瞬間、ぼくはおもしろくなって大笑いした。
熱田も一緒にげらげら笑って、そのままのノリでサンライズボンバーは誕生した。
ギターもブルースハープも、ぼくは完璧に覚えた。それでもまだ不安だった。
意気込み過ぎていた。
気合いを入れて練習し続けた結果、ぼくは喉を痛めた。
そのうえ風邪をひいて、高熱を出した。
文化祭の当日は喋ることもできなかった。
生姜湯や高いノド飴、喉に塗るスプレーの類をたくさん試した。無駄だった。
声が出ない。喉の奥からガラガラとした音しか出てこない。
諦めるしかない。
文化祭の朝、ぼくは目を覚ますと熱田にメールを送った。
「ごめん。声、出ない。風邪ひいた。今日の文化祭、無理だ」
返信はすぐに来た。
「大丈夫か! 無理すんな! おれに任せろ!」
その三行だ。おれに任せろ。
何を考えているつもりなのか、学校で会うなり熱田は言った。
「太陽ができないなら、おれが唄うから」
やる気が全身から漲っていた。
「しゃーやるぞ。おれはやるぞ」と、自分に言い聞かせながら頬をパンパンと張っている。出番は十一時だと言うのに、試合開始前のサッカー選手のようにその場で腿上げまで始めた。
唄うって、お前が?
ほとんど出ないしゃがれ声で、ぼくは熱田に尋ねた。
「しょーがない! いちおー、歌詞も覚えてるし大丈夫っしょ。いや恥ずかしいけどね。おれ音痴だし。みんなの前で恥かきたくないもん。唄うなんてヤだよ。でもさ、おれたちサンライズボンバーの初舞台だぜ! ステージ上がらないで終わるなんて、ないだろ」
歌に関して、熱田は中学時代の合唱コンクールがトラウマになっている。
他の友人からカラオケに誘われても絶対に行かないと言っていた。ギターを弾くのは楽しいみたいだが、熱田は唄いたいなんて一度も言わなかったし、せっかくフォークデュオなんだからハモりも練習しようと提案しても頑なに拒否された。
「おれが唄うなんて、ゼッタイむり!」
あいつはそう言っていつも、唄うのを拒んできた。
なのに、ぼくの代わりに唄おうと言うのだ。
嬉しかった。あれだけ嫌がっていた歌を、ぼくのためなら唄ってくれる。やはり熱田は特別な仲間だ。風邪で体調は最悪だったが、ここまでの心意気を見せた熱田のためにも、絶対にギターの演奏は成功させようと思った。
ぼくが風邪を引いたと知って、伊吹から心配するメールが来た。
「今日の文化祭、残念だったね」
すぐにメールを返信した。
終わってない。ぼくの声は出ないけど、代わりに熱田が唄う。
「熱田が唄うの? マジ?」
合唱コンクールの話は伊吹だって知っている。熱田が唄うなんて想像もつかなかっただろう。
それでも熱田はやると言った。だからやるのだ。
そして、ぼくたちの出番が来た。
軽音楽部の演奏が終わって、ぼくたちのいる舞台そでにはけてくる。
「行くぜ」
緊張と興奮で顔を紅潮させて、熱田が呟いた。
小走りでぼくたちはステージに出た。
ステージの上から眺める体育館は、歪んで見えた。足元がぐにゃりと沈み込んで、危うく転びそうになった。まだ何もしていないのに、汗が噴き出して来る。
ステージのすぐ目の前に、伊吹がいた。
宣言通り伊吹は友達や、映画研究会のメンバーを連れて見に来ていた。
「がんばれよ」
彼女の声がハッキリと聞こえた。失敗したら笑い飛ばしてやる。そう言っているようにも思えた。
緊張は吹き飛んだ。どうせ期待はされていない。熱田の歌で笑われるかも知れないが、別にそれでもいい。ぼくたちは半年以上、努力したんだ。それを無駄にしたくない。
ぼくの胸には火が灯っていた。
体が熱いのは、風邪のせいではない。
ずっとくすぶっていた「何か」に、火が点いた。小さい頃から感じていた不満、漠然とした不安、鬱屈。友情や恋、夢で痛みを誤魔化していた今までの日々と違う。
小さなその火は、希望と言い換えてもいい。
未来へ向かうための原動力。この火が人を推し進めていく。大人になりたくないと怯えて、将来がわからないと不安になって、友情や恋に悩んで、そういった人生のすべての積み重ねを燃料に、胸の中でくすぶる何かに火が点いた。
もう痛みは感じなかった。
この火はエネルギーとして全身に熱を伝えている。
世の中には輝く人たちがいる。伊吹のように一直線に夢に向かい、学校の中で、社会の中で、彼らは主役のように振る舞う。
彼らの胸には希望の火が灯っているのだろう。
反対に、この火が点かないままの人もいる。
かつてのぼくのように、鬱屈として日々を生きる人たちが。
うまく他人と付き合えず、人生の中で何度もつまずいて、一人で積み上げた壁の中でうずくまっている。
熱田と伊吹に出会わなかったら、ぼくはそのままだった。
二人のおかげで、ぼくはここにいる。
プロになりたい。本当にプロの歌手を目指したい。思いつきで始めたことだけど、演奏している間だけは何もかも忘れて、辛い出来事も将来への不安も吹き飛ばせる。だからプロになろう。きっとそれがぼくの進むべき道なんだ。
この瞬間を忘れたことはない。胸に火が付いたこの瞬間を。
「えっと、本当は太陽が唄うはずだったんですけど、声が出ないんでおれが唄います! おれ、音痴ですけど、唄います」
マイクを通さなくても体育館に響くほど、熱田の声はでかい。
ステージ前に陣取る伊吹たちが笑った。
熱田が横に並ぶぼくを見た。ぼくは小さくうなずいた。
思いっきりやってやろう。
「命果てるまで!」
熱田が曲名を叫んだ。
じわりとてのひらに汗がにじむ。左手で弦を抑え、ぼくは小さく息を吐いた。
何度も練習して来た。タイミングを合わて、右手でストロークする。
熱田も同じタイミングで入った。演奏が始まった。
本当ならぼくのブルースハープが前奏に入るはずだった。そのために練習して来たのに、喉が枯れて音が出せなかった。だからギターだけは完璧に弾きこなした。リズムもコードも身体に染みついている。熱田も同じだ。あいつは不安そうにしていたが、唄い出す瞬間、キッと体育館中を見回した。
いきなり大声を出して、リズムが狂っている。
テンポもめちゃくちゃで、ひどい歌声だった。Aメロで笑いが起きた。
Bメロでも熱田はしくじった。音程を合わせようとしたのか、声が高くなったり低くなったりばらばらだ。
CDで聞いていたとは言え、唄い慣れていない曲を練習なしで始めたのだ。どうやって唄えば良いのか、熱田にはわからないはずだ。
顔を真っ赤にして、汗を流して、それでも熱田はうつむいたりしなかった。
熱田は全力で唄った。歌声はすぐに安定した。
サビに入る直前、熱田が小さく息を吸い込んだ。
汗が一筋、頬を流れた。
熱田が叫ぶ。
瞬間、何かが爆発したのを確かに見た。
余計な考えを捨てたのか、ただひたすらに腹の底から大声を上げている。
ぼくたちの演奏は平凡。熱田の声は特別に美しいわけではない。
なのに、ぼくは鳥肌が止まらなかった。
容赦なく叩き付ける荒削りの歌声が、すさまじい声量で縦横無尽に飛び回った。
熱田が叫べば叫ぶだけハイトーンの歌声は透明さを増していく。
全力で、心の底から叩き付けるような声がどこまでも広がって行く。
音響の悪い体育館を揺るがす。熱田の歌声が爆発しすべてを焼き尽くしていく。
熱だ。熱田の身体を駆け巡る熱が、無心で叫ぶその声から放たれている。
叫びながら唄う熱田と、痛いほどの沈黙。
これだけの大音声の中で静けさを感じる。
何かが起こっていた。熱田の叫ぶその声が人々の心を捕えて放さない。
引き込まれていく。
「直径5mm!」
熱田はすぐに二曲目を始めた。
何が起こっているのだろう。
集中を失ったぼくは、出だしのアルペジオを何度も間違えて、サビに至るまでに何度もストロークを失敗した。しっかりとコードを抑えられず不協和音を出した。
誰も気付かなかったと思う。観客は熱田の声だけを聴いていた。
最後に「真夏の太陽」を演奏した。
その頃には、体育館中が熱田真一という怪物に魅了されていた。
ぼくは茫然としていた。
無我夢中で、熱田の歌声に圧倒されているうち、気付けば舞台は終わっていた。 割れんばかりの拍手に背中を押されて、ぼくと熱田は舞台そでに引っ込んだ。
何かが起こったのだ、あの場所で。
「いやー、緊張した。おれ結構ミスったわ。やべー、でも楽しかったな!」
汗をタオルで拭って、熱田が言う。
ぼくたちがステージから降りた後も、まだ拍手が続いていた。
こんなこと、さっきまでの演奏ではなかった。
軽音楽部でバンドをやっている生徒たちですら、興奮気味に熱田に近寄って来た。彼らは口々に熱田の歌声を褒める。あれだけの歌声を聴いたのは初めてだ、揺さぶられた、飲み込まれた。すごい。やばい。
言い方は様々だが、彼らは一様に興奮していた。
上手、という表現が適切かはわからない。熱田の歌声には人々の心を鷲掴みにするパワーがあった。それが才能なのだと、ぼくは後に思い知った。
舞台そでに伊吹が来た。彼女は耳まで真っ赤になっている。
「すっごい、良かった」と言って、伊吹は笑った。
「悔しいな。でも太田の言った通りだったよ。聞き入っちゃって、ちょっと泣いた」
彼女の言葉に偽りはなかった。伊吹の瞳は潤んでいた。
潤んだ目で、伊吹は熱田を見つめた。
熱田の歌を聞いたほとんど全員が、感動していた。あいつの歌声にはその力があった。
熱田真一はバカで、騒がしい男。そう思われていたから、誰も熱田の歌声に期待なんてしていなかったはずだ。熱田が唄うと言っただけで笑われたくらいだから。
そのギャップもあったのかも知れない。期待値が低かったから、余計に人の心を打ったのか……冷静に分析しても、わからない。
あの時、あの瞬間に何かが起こった。
ぼくにわかるのは熱田の歌声で観客が熱狂したという動かしがたい事実だけ。 奇跡を目の当たりにしたような気分だ。後になって自分の記憶を疑わしく思っても、あの光景は忘れられない。
盛り上がる彼らに囲まれて、ぼくだけは冷静だった。野村涼子に告白した時と同じだ。身体中を温めていた熱が消えて、冷え切って震えている。
ぼくの周りを取り囲んでいた世界のすべてが、熱田に吸い取られたように感じていた。
「熱田、うた上手いじゃん」
伊吹が熱田に向かって言った。
「そうかー? 夢中でやったからゼンゼン覚えてねーや! でも超たのしかった! やばい!」
興奮気味に言って、熱田は笑っている。伊吹も微笑んでいた。潤んだ目で……
熱と光、そして太陽。ぼくたち三人は小学生の頃、一緒に映画を観に行った。
あの時が一つ目のターニングポイントだった。ばらばらの個人に過ぎなかったぼくたちが一つの塊になった。
今日が二度目だ。
熱田を見る伊吹の目が変わった。今日という瞬間、ぼくたち三人の関係は決定的に変わった。
一つの塊であったはずのぼくたちが、光と影の二つに分かれた。
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