三章 ハートに火をつけて
1
胸にくすぶる痛みこそあったが、高校生活は楽しかった。
二年の文化祭があった、あの日までは。
入学してすぐ、伊吹は映画研究会に入った。
暇さえあれば部室で昔の映画を観ているか、でなければ秘密のノートに映画のネタを書き込んでいる。一緒に遊ぶ時間はまた少なくなった。
中学の頃と違うのは、ぼくたちの間に横たわる距離を感じなかったことだ。
入学祝いで携帯電話を買ってもらい、ぼくらは頻繁に連絡を取り合っていた。
伊吹は映画のおもしろいネタを思いつけば夜中だろうとぼくにメールを送って来る。ぼくは彼女のネタをできる限りめちゃくちゃに批判してやった。
シナリオが破綻している。人物にリアリティがない。意外性がない。世界観が面白くない。偉そうに批評できる目なんて持っていないクセに、ただ彼女への対抗心だけで叩きまくった。
彼女の返信は決まってこうだ。
「センスないんじゃない」
時にはメールのやり取りが一日で百通を超えることもあった。
観た映画の感想を言い合っていたらケンカになり、メールでは埒が明かないと電話をかけて、真夏の夜が明けるまで言い合いをしたこともある。
彼女は名前の通り、光だ。
目にも留まらぬスピードで夢へ向かって突き進んでいく。映画監督になるという目標を見つけて、そこへ向かってただひたすら走っていた。突き抜けていく伊吹を見ていたから、触発されたのだろう。いつものように熱田と遊んでいた時、急に熱田が言い始めた。
「おれもなんかやらなくちゃ!」
「なんかって、なんだよ」
「なんかってなんかだよ! ヒカルが夢を見つけてがんばってるのに、おれたちだってやらなくちゃ。おれ、部活もやってないじゃん。バイトもしてないし。こうやって太陽と遊んでるの楽しいけど、やっぱそれだけじゃダメだと思うんだよ。夢を追い掛けないと!」
「お前の夢って?」
身振り手振りで語っていた熱田が、ピタリと動きを止めた。
「やっぱ俳優かな」
「本気で言ってんのかよ。それ、伊吹が映画監督とか言ったからひねり出したヤツだろ。夢があるならともかく、何もないのに焦って決めてどうすんだ」
「そうだけどさあ」と、熱田は不満そうだった。
熱田の気持ちはぼくだってわかる。
将来の夢があって、それに向かって突き進むという姿勢には憧れる。一度も言わなかったが、映画監督という目標に本気で向き合う伊吹の姿は、格好良かった。
中学時代と違って、あいつは映画以外のことには全然興味を示さなくなった。
その一直線な姿勢が見た目にも影響するのか、伊吹は顔つきも凛々しく生気に満ち溢れていた。男女問わず伊吹のファンは多く、何度も告白されていたようだがあいつは誰とも付き合わなかった。
ぼくも伊吹と同じように、何か将来の夢が欲しかった。本気で打ち込めるものを見つけたかった。伊吹が夢を追い掛けているのに、ぼくは漫然と日々を過ごすなんて、ライバルとしては有り得ない。
何か彼女に対抗できる夢。「映画監督」と比べても負けないくらいカッコイイ職業はないだろうか。
ぼくには、熱中できることが何もない。
映画を観るのは好きだ。ゲームをやるのも好きだ。小説を読むのも、マンガを読むのも好きだった。アニメも観るし、ドラマも観る。でも全部、それだけだ。
趣味の域を出るものは一つもない。
伊吹のように、バイト代をつぎ込んで古い映画のビデオを買い漁ったり、勉強になるからという理由で一日中、同じ映画を繰り返し見るなんて真似もしなかった。
「おれらの好きなことって、なんだろうな」
熱田がぽつりとつぶやいた。
こうして毎日、遊んでいられるのは楽しい。だけどそれだけではダメだ。
夢中になれるもの。将来の夢……ぼくは真剣に考えた。
ぼくにやりたいことはあるのだろうか。好きなことは? 学校の授業で言えば、図工と美術は好きだ。真っ赤な星月夜は未完成で終わったけど、油絵はまたやってみたい。他に何かあっただろうか。
音楽。
唄うのは楽しい。合唱コンクール。ぼくたちは最優秀賞だった。
「太田くん、歌も上手だよね」
野村に褒められたのを思い出す。失恋の痛みと一緒に。
好きなこと。得意なこと。やりたいこと。
脳裏で一つの言葉が閃いた。
音楽だ。
「バンド、組んでみないか?」
ぼくの言葉を聞いて、熱田は驚いていた。
「焦って決めなくていい」などと言った男が、その直後にバンドを組もうなどと言い出したのだ。
「合唱コンクール楽しかったよな? おれ、唄うの好きだし。おれらでバンド組んで、そんでプロになってめちゃくちゃ売れて、伊吹の映画の主題歌とか唄ってやろうぜ」
「それ、すげえいい」熱田も食いついた。
「バンドなら夢とか追ってるって感じ! じゃあやっぱ武道館でライブとかやろうぜ! 百万人くらい集めてさ!」
日本武道館のキャパシティが二万人に満たないことなど、ぼくらは知らなかった。その時ぼくたちの頭にあったのは輝かしい未来、熱と光と太陽の三人が、社会の表舞台に並んで脚光を浴びる場面だけだった。
売れず、食えず、諦めきれず、それでも夢を追い続ける悲惨さのことを知らなかった。
「でもおれ音痴だから、太陽の足ひっぱるんじゃないかな」
「ボーカルはおれがやるよ。唄うの好きだしな」
「じゃあおれドラムやりたい! 一回で良いから叩いてみたかったんだよ」
熱田にドラムは似合うだろう。指揮棒ですら全身全霊で振り回していたのだ。スティックを走らせてドラムにリズムを叩き付ける。その前でぼくがエレキギターを掻き鳴らしながら、格好良く唄う。最高に気持ちいいと思う。
「よし、じゃすぐやろうぜ。おれ、こないだバイト代はいったから楽器買えると思う」
「ドラムっていくらすんのかな!」
まばゆい未来を語り合いながら、二人で駅前の楽器店に向かった。
エレキギターの値段を見て、ぼくは冷静さを取り戻した。ぼくが想像していた値段よりも二回り高い。ドラムセットもだ。そもそもこんなものを買っても、置く場所がない。
ぽかんと口を開けたままエレキギターの並ぶ棚を見ていると、店員のお兄さんが話しかけて来た。
「音楽はじめんの?」
「え、あ、はい。あの……そうです」
「ギター?」
「おれがギターで、こいつはドラムかなって思ってます」
ぼくが熱田を指さすと、熱田はコクコクと頷いた。
「二人だけ? 他にメンバーいんの?」
「いません。音楽、やってみたいなって思って……」
何も考えていない自分が、急に恥ずかしくなった。
店員の彼からしてみれば、お笑い種だろう。
「音楽を始めたい」だけ決めて、いきなり楽器店に飛び込んで来た二人の子供だ。
「アコギはどう?」
金髪の店員さんは、並んであったアコースティックギターの一本を手に取った。
ギター本体、ストラップ、カポ、ピック、ソフトケースまでついて八千円という破格の値段だった。
「楽器ってのはホントにモノによって音が違ってさ。安物って安っぽい音のことが多いけど、でもそれが味だったりするんだよ。おれもバンドやってんだけどさ、未だにレコーディングで小学校時代のピアニカ使ってるもん。エレキにこだわる? ロックとか弾くタイプに見えないけど」
「なんにも考えてません」と、熱田が正直に言った。
すると店員さんは大声で笑った。熱田もなぜか笑った。
店員のお兄さんは、親身になって相談に乗ってくれた。何も考えずにバンドを始めようとしたバカな子供の話を、真剣に聞いてくれた。
今では店員さんの年齢もとっくに追い越して大人になってしまったが、大人という言葉を考えると真っ先に彼の姿が浮かぶ。幼い夢をバカにせず、一人の人間として向き合う。学校の教師にまともな大人は一人もいなくて、両親とも折り合いの悪いぼくが唯一あこがれた大人は彼だった。
ぼくと熱田は買ったばかりのアコースティックギターを抱えて、急ぎ足で家へ帰った。
恋に代わり、夢が胸の痛みを消す「何か」になった。
あの頃のぼくには、日本武道館で熱狂する満員の観客が見えていた。
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