5

 ぼくと伊吹は徹底的に、熱田に勉強を教えた。

 小学生レベルの基礎から始めて、一年生の教科書から総ざらいする。

 人の面倒ばかり見てもいられない。ぼくは家でも学校でも、空いた時間のすべてを使って勉強した。


 熱心に勉強するようになったぼくを見て、両親も文句を言わなくなった。教師の風当たりまで良くなった気がする。

 そして三月になり、ぼくと伊吹は同じ高校に合格した。

 奇跡としか思えないが、熱田も合格だった。


「あの熱田が」と担任教師が泣いて喜んだくらいだ。

 それだけ熱田の成績は凄まじい上昇を遂げた。

 あいつはバカではなかった。いやバカなのは間違いないが、勉強の苦手なバカではない。集中すれば勉強はできる。だけどバカだ。いつも笑っているのが余計にバカっぽい。


 野村は美術の道に進むと言っていた。大阪か名古屋か忘れてしまったが、そのあたりに専門の高校があって進学するのだとか。

 中学生のぼくには東京、神奈川、埼玉千葉より外は魔境も同じだった。

 一生の間に足を踏み入れるかもわからない土地だ。


 野村涼子は遠いところへ行ってしまう、もう二度と会えない。恋心をこじらせたぼくは彼女のことばかり考えて、卒業間際に情緒不安定になった。

 いつも不安で苛立って、口数が極端に減った。


 もともと口達者な男ではないが、ぼくが深刻に黙りこくって鬱々としているのを、熱田も心配した。


「なにかあんならおれに言えよ」

「言っても解決しないだろ」

「まあな。でもおれには言えよ」

「気が向いたらな」


 ぼくは平静を装い続けたが、いよいよ耐えられなくなって熱田に打ち明けた。

 伊吹には聞かせたくなかったから、一人で熱田の部屋に遊びに行った。座り慣れた座椅子の上であぐらを組んで、ぽつぽつと語る。


 一年前から野村涼子を好きだったこと、高校になったら離れ離れになってしまうこと。それが気掛かりで何も手がつかないこと。熱田はベッドのふちに腰掛けて

「マジか」と相槌を繰り返していた。


「なんでもっと早く言わねーんだよ」

 熱田はすっくと立ち上がった。テーブルの上から自転車のキーを取り出すと、ぼくに向かって放る。投げられたキーを空中で掴んだ。

「行くぞ」

 その言葉だけで十分だった。

 行くぞ。そうだ、行くのだ。

 ぼくは黙って頷くと、熱田と一緒に部屋を飛び出した。


 自転車を二人乗りして、野村の家に向かう。このまま終わりにはしたくない。だったら、行くしかない。やるべきことは一つ、野村に想いを伝えるのだ。

「やらずに後悔するよりやった方がいい」「当たって砕けろ」「実行しなければ可能性はゼロだ」教師連中が好んで使いたがる言葉ばかりが頭の中を駆け巡る。

 あとから考えれば滑稽だが、物語の主人公にでもなった気がしていた。

 聞き心地の良い言葉を並べて人生が上手くいくなら、生きることがこんなに苦しいわけがない。


 熱田を自転車の後ろに乗せて、必死でペダルをこぐ。吹き付ける真冬の風は凍えるほどに寒かった。それでも自転車を走らせていると、汗が止まらなかった。

 熱田は一人で盛り上がって、何かわけのわからないことを叫んでいる。ぼくは歯を食いしばって、ペダルを回し続けた。


 野村とは帰り道で何度か一緒になったことがある。だから彼女の家も知っていた。狭くてデコボコの歩道を駆け抜けて、国道の脇をふらふらと走り、ついに野村涼子の自宅へとたどり着いた。


 緊張と高揚と不安と自転車を走らせた疲労で、心臓が暴れ回っている。

 自転車を降りて、感覚のなくなった足で立つ。吹き抜ける風に身震いして、急に冷静になった。


 ぼくは何をしに来たんだ?


 告白に決まっている。わざわざ日曜日に想い人の家へ押しかけて、まさか世間話なんかしない。

 汗が一気に冷えて、体温が奪われる。身体の震えは止まらなかった。


「やっぱ、今日は帰ろう」

「なに言ってんだ! 今日言わないでいつ言うんだよ!」

「それはまあ、そうなんだけど」

「今日言うんだよ! じゃなきゃ一生、後悔するぞ!」


 まるでドラマのセリフだ。人の恋路を後押しできると思って、楽しくなっているのだろう。本人に聞いたら否定しただろうが、自分が無関係の恋愛に首を突っ込むのは誰だって好きだ。

 失敗しても痛みはない。ツケを払うのは当事者だけだ。


「じゃあおれ、野村よんでくるから」

 勝手に熱田は動いた。野村家の門に近付いて、呼び鈴を押しやがった。

 物語の主人公だという陶酔は消えて、代わりに襲って来たのはバンジージャンプの順番を待つような恐怖だ。ヒモの長さが適切なのかわからない。飛び込んだら地面に直撃するかも知れない。なのに、出番が来てしまった。


「あ、あの、おれ野村涼子さんと同じクラスの熱田真一っていいます! で、あの、いっしょに同じクラスの太陽が、あ、太田陽介もいて。えっと、野村涼子さんは、おられなさいますでしょうか!」

 たぶん、インターホン越しに野村の親が出たのだろう。熱田はしどろもどろに話していた。


 後戻りができなくなった。ここで逃げ出しても、野村涼子に学校で会えば今日のことを尋ねられる。

 元はと言えばぼくが相談したのだし、一人で告白する度胸がなかったぼくが悪い。熱田はまったく悪くないのに、ぼくはわずかに彼を恨んだ。なにが「行くぞ」だ。そんな言葉に興奮してしまう自分の迂闊さを呪った。


 背中を押されたから勇気を出して、一歩を踏み出した。踏み出したその先は奈落だ。断崖絶壁に恐怖して、ぼくは足を止めてしまった。

 真正面から想いを告げるような勇気をぼくは持ち合わせていない。だいたい、幼稚園の頃から想いをラブレターにしたためなければ伝えられない子供だったのだ。

 玄関が開いて、野村涼子が出て来た。学校で会う時と違って、髪の毛を結んでいない。

 私服姿の彼女を見て、ぼくの心臓は火事場にガソリンをぶちまけたように大爆発した。

 鼓動の音以外、何も聞こえない。彼女の姿以外、何も見えない。

 彼女が何かを言ったが、聞こえなかった。ただ彼女の可愛らしい姿に見とれて、バカみたいに呆けていた。

 黙ったままのぼくに業を煮やしたのか、熱田が言った。


「こいつ、野村のことが好きなんだって! 告白しに来たんだ!」


 時間が止まった。間違いなく止まった。血の気が引いて、急に現実が戻って来た。失われていた視覚と聴覚が蘇る。見て、そして聞いてしまった。


「え?」

 と、それだけだ。


 音の響きというのは不思議だ。声音には感情がこもる。ぼくはあの時の「え」の音を、たぶん一生忘れないだろう。


 一瞬の反応が、彼女の気持ちを如実に語っていた。野村涼子は明らかに困っていた。ぼくの方を見ようとせず、蒼褪めた顔で黙っている。ぼくも黙っている。熱田は右往左往している。ぼくは逃げ出した。走って逃げだした。


 それからのことは覚えていない。逃げ出して家に帰ったのか、それとも熱田の家に行ったのか。卒業までのわずか数週間、ぼくは学校をさぼった。卒業式の日も野村には近づかなかったし、目も合わせなかった。


 ぼくは恋に浮かれていただけの、ただの子供だ。

 胸でくすぶる痛みを消す「何か」として、野村を利用していたに過ぎない。

 彼女の気持ちなんて考えもしなかった。野村を喜ばせるために何か一つでもしただろうか。そんな有様で、ぼくが彼女に好かれるはずがなかった。

 

 胸の痛みはその頃から、消せないほどに大きくなった。

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