たたかう吸血鬼
広いフロアを分けるのは、打ちっ放しのコンクリートの壁。
塗装もされていなければ、壁紙も貼られていないそこは、寒々しい雰囲気に満ちていた。
窓には鉄格子がはまっていて、がっちりと建物の中の人を閉じこめている。
「河本です」
俺は、受付に言う。受付の男性ははっとしたように顔を上げて、少々お待ちください、と答えた。
案内されたのは、比較的整えられた一室だった。事務用の机がいくつか並んでいる。
「吸血鬼の方がいらっしゃった」
「美月はどこですか?」
俺は挨拶をする前に、何よりも聞きたかったことをたずねた。
「山の中に逃げてそれっきり。山狩りをしていますすが、町の方に行かないことを願うばかりです」
「原因はなんなんですか?」
「二重ロックが一重しかかけられていなかったようです。狼といえど
、半分は人。侮ってはいけなかったのに」
長年隔離施設として使われていた建物は、そのままの形で、満月のときに人狼たちが閉じこもる施設になった。
美月は半ば牢獄のようなこの施設を忌み嫌い、同時に必要としていた。
「吸血鬼の方が捜索を手伝ってくれるということで、ありがたく思っています」
「その前に」
俺は一瞬ためらった。
「血、ありますか?」
「それがですね……ちょうど輸血用の血の在庫を切らしてまして。うちの女性看護師に頼もうかと」
俺はその言葉を、あわてて打ち消した。
「男性でいいですよ」
「そうなんですか?」
「男性のほうが血の量が多くて、貧血の可能性も減ります。なるべく若くて、体力のある方を数人よこしてください」
何分か相談して、歩み出てきたのは30代くらいの男性看護師だった。
男が、おそるおそる首筋を差し出したのを、俺は小さく笑った。
「手で大丈夫ですよ」
「あ、はい、そうですよね……」
手の甲に小さく爪で傷をつけ、口を付ける。みんな黙っているが、空気がざわつくのを感じた。
普段人前で血を飲むことがないので、非常に恥ずかしい。目をそらしてくれないかと思う。
俺が口を離すと、男性看護師は、ふらっとたたらを踏んだ。彼の表情が、ぼんやりと夢見心地になる。
「次、お願いします」
施設の次に、捜索本部を案内される。
大柄な男性が、こちらに近づいてきた。
「河本さんは俺と」
「俺はひとりでいいですよ」
「そういうわけには」
「言い換えましょう、ひとりがいいんです。俺はあなたたちに
守られるまでもありません」
男性は目を見張ったが、やがて納得してくれた。
「わかりました。しかし、電話はつながるようにしていてください。何かあったら連絡してください」
俺は、まずは登山道を道なりに歩いていくことにした。
血を飲んですぐは、感覚が鋭敏になる。空気の流れのひとすじひとすじまで、肌で感じられそうだ。
だが、山の中はけもののにおいがきつすぎて、嗅覚で美月を探すのは難しそうだ。
探すのは人数の多い
「尾根のほうで爪痕を目撃したそうです」
「そちらへ向かいます」
俺はひょいひょい木に上ると、枝から枝へ飛び移って移動した。
斜めに生えている木からずるずるとすべりおりて、目的地についた。
「お待たせしました」
「どこから現れたんですか、あなた」
警察官は明らかにぎょっとしていた。無理もない。吸血鬼の身体能力を実際に見ることは、普通の人生ではないだろう。
「見つけたら教えてください。でもすぐに逃げてくださいね。危険です」
だがここまで来ると、美月のにおいが感じられる
野太い悲鳴が聞こえてきた。
警官が、足がもつれそうになりながら逃げてくる。そうしてわずかに残った理性で、俺に美月の位置を知らせてくれた。
「むこ、向こうです」
俺は警官たちを振り返る。
「あなたがたは逃げて。なるべく遠くに」
逃げてきたほうへゆっくりと歩いていった。神経を集中して、何が起きても驚かない心構えをする。
下草がわずかに揺れた。
「いるのか?」
ごう、と吠えて灰色の狼が現れる。
だが骨格が、まるで進化しかけた人間のように前屈みだった。ごわごわした毛並みは、狼と言うよりたわしの繊維がもつれたようだ。ぱっくり開いた口からは、よだれがだらだら垂れている。
「美月」
無駄だとわかっていても、声をかけたかった。
美月は大きく飛び上がり、俺の足に向かってかみついた。痛みを通り越して、熱さが走る。
「このやろ」
思いっきり自分の足を降って、勢いよく美月を引き離す。美月は地面にあっさりと着地した。俺との間合いを計り、喰い殺す機会をうかがっている。
「はは、てめえ、痛えよ」
だらだらと血を流す足の傷が、あっという間にふさがっていく。なんだか楽しくなってきて、俺はけたけた笑った。
大量の血を飲んだことによる高揚感。戦いを前にしての死の恐怖。それらがないまぜになって、笑いとなって口から出た。
だけど目的だけは見失ってはいけない。美月が本当に、どこにも帰れなくなる前に。
「さあ、一緒に帰ろうな、美月。その前にぼこぼこにするけど」
さっき怪我をした足が少しだけ熱い。まだ再生が続いているのだろう。
自分の血のにおいに酔う感覚。
ああ、俺は結局けだものだ……美月と同じ。
向かってこようとする美月の口をつかまえて押さえつける。
そのまま前からはがいじめにしようとしたら、横っ面を殴られた。骨に響くような鋭い痛みが走る。
「じじいをなめるなよ」
勢いをつけて殴り飛ばした。そのまま足をなぎ払う。
起きあがろうとする横っ腹をけっ飛ばし、両手で手というか前足というかを押さえつける。
もう言葉を話せなくなっている美月は、悪態の代わりにうなり声をあげるだけだ。
動かないように腹の上に足で体重をかけ、反動をつけてひざで蹴る。
「ははっ! 楽しいなあ美月。殺せないのが残念だよ」
久しぶりに愉快な気分になっていたが、美月が動かなくなったことに気づいて我に返った。
やりすぎてしまったかもしれないと後悔した。美月はそう簡単に死なないが、けがが少ないにこしたことはない。
いつの間にかポケットから振り落とされたスマートフォンを拾った。電源はついているようだ。
着信履歴から、目当ての番号へ発信する。
「もしもし、終わりました。美月を回収してください」
早朝、施設の一室に見に行くと美月は人間の姿に戻っていた。独房のような部屋の中で体育座りをしている。
「おはよう。気分はどうだ?」
美月はぼんやりと虚空を見つめている。
「賠償金……社会的信用……」
「まあ、警察は名前は伏せておくつもりらしいし、ばれるまでは堂々としてろよ」
美月は、ぽつりとつぶやいた。
「どうして僕はこういうものになってしまったんだろう」」
「それを考えたってしかたないさ。あるのはただ、俺たちは化け物という事実だけだ。事実にいいも悪いもない」
俺はもうあきらめているけれど、美月はまだ若い。どうしようもないことを受け入れるには、老いることが必要だ。
狼男は立ち上がり、ひざについた土を払った。
「帰るよ」
「裸でか?」
美月が足を止めた。
「何か羽織るものを借りてくる」
美月にウィンドブレーカーとジャージを渡してから、日が昇りきらないうちに地下室で眠りについた。
※※※
いろいろあって疲れた……と言いたいところだが、俺はぴんぴんしていた。生きのいい血をたくさん飲んだから、疲れも出にくいのだろう。
結局仕事を二日も休んでしまった。生徒たちには悪いことをした。振り替え授業のことを考えると憂鬱になる。
予備校に向かう途中、あやねさんにすれ違った。
「おはようございます」
「こんばんは」
ちぐはぐなあいさつをしてから、あやねさんは俺に歩調を合わせる。
「あの、店長……島崎さんが、あちこち怪我をして傷だらけなんですが、なにがあったか知っていますか」
「知ってますが、本人がいやがると思うので言いません」
「そうですか……」
あやねさんは無理に聞いてこなかった。何か察するものがあるのだろう。聡い子だということは今までの経験から知っていた。
「でも無理に、お店に出てほしくないんですよね。痛々しいです」
「あいつは、これから日銭を稼がないといけないですからね。あやねさんも手伝ってあげてください」
「はい。……はい?」
あやねさんは不思議そうに俺を見上げ、首をかしげた。
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