2.逃亡少女

「申し遅れました。夏目珠希の母です」

 わたしは「ぐりふぉーん」でアルバイトを始めた。島崎さんはよくしてくれる。時給も悪くない。ただ……。

 わたしは使用済みのお皿を返却棚に入れようとした。

 そこで手からお皿がつるっと落ちた。

「うわっ!」

 すんでのところでお皿は割れなかったが、ホールに音が響いてしまった。

 カウンターの中にいる店長、もとい島崎さんは短く言う。

「だめだよ」

 それを聞くと、ひえっと飛び上がりそうになる。

「すみません……」

 島崎さんはわたしがへまをしても決して大声で叱ったり、お客さんに対して不機嫌になったりしない。しかし、ものすごく威圧感がある。

 笑顔の奥でひとみがぎらっと光る。そこが少し珠希と似ている。

 前に、河本さんが一色さんの正体を見抜いたことがあったけれど、こんな風に独特の雰囲気があったのかもしれない。



「あれ?」

 バイトが終わって家に戻ろうとすると、見慣れた黒髪が目に入った。

「珠希。何やってるの?」

 珠希の実家はとなりの市なので、高校を卒業してしまった今、偶然出会うことはほぼない

 珠希は照れたとうに頭をかいた。

「いや、なんとなく、ぶん太いるかなあと」

「どうしたの?」

 珠希はアポイントメントには結構まじめで、連絡もせずにふらりと来てしまうことは初めてだった。

「ちょっと時間ある?」

 なんだか異様だ。わたしは思わずうなずいた。


 わたしと珠希は安めのコーヒーチェーンに向かう。実はそこそこの値段のところに入ろうとした珠希をわたしが止めた。こういうときに金銭感覚の差が出てしまってつらい。



「最近どうしてるの? サークル入った?」


 珠希は本題に入る前に、わたしのことを聞いてきた。


「うーん、実は入ってない。どのくらいお金かかるかわかんないんだよね……」


 入りたいのは山々なんだけれど、お金のかからないサークル活動をどうやって探せばいいのかわからない。新歓では、いいことしか言わないだろうし。

 でも、新歓で安くおいしいものを食べられたのはちょっとうれしかった。先輩たちごめんなさい。


「わたしのことはいいでしょ。珠希はどうしたの?」

「実はお見合いを申し込まれてて」


 わたしは前時代的な言葉に驚愕した。


「お見合い?」


 珠希がしたのはこういう話だ。

 むかしむかし、あるところに狐の娘がいた。

 狐は人間の男に恋をして、人間に化けて所帯を持った。

 不思議な力を持つ狐の娘は、家に大きな富をもたらした。しかし、男に狐であることがばれ、狐はどこかに去ってしまった。

 男は狐をほうぼうで探し、ようやく見つけだした。愛を確認した二人は

幸せに暮らしましたとさ。めでたしめでたし。

 以来、夏目家は定期的に狐と姻戚関係を持ち、その富を維持している。


「は~そんな昔話が」

「地元じゃ有名なんだけど、ぶんちゃんちは私の家から結構離れてるからなあ。知らないか」


 狐や狸の血を引く子が、こういう伝説も背負っていることはよくあることだ。それだけ、日本に土着の存在だということなのだろう。


「そういうことで、うちは親が決めた相手と結婚するのが決まりなんだよね」

「それでお見合い? その年で? 早すぎない?」

「私もそう思う。家を継ぐのがいやってわけじゃないんだけど、まだ自由恋愛ってものを楽しみたい」


 珠希は小さくあくびをした。


「だいたい人生長いのに、この若さで相手を決めてどうするの。向こうだって嫌なんじゃない?」

「それは確かに」

「だからといってぶんちゃんに何をしてほしいわけじゃないんだけど。やりたくなかったら本気で逃げるし。昔はともかく今は民主主義国家なんだよ」

「そうだよね」


 珠希は粛々と親に従うような女ではない。むしろ「そういう決まりだから」という理由で考えを押しつけられるのが嫌いだ。だから悲しいと言うより、腹を立てているのだと思う。


「ただ、やっぱむかついたから誰かに聞いてほしかったの。ありがとね」


 最初は何事かと思ったけれど、彼女が元気そうでほっとした。それからたわいもない雑談をしてから、挨拶をして別れた。なんとなく別れがたくて、しばらく去っていく珠希の背中を眺めていた。




 日曜日。お母さんは大学時代の友達とお茶会をしに出かけていった。

 わたしは宅配で買った洋服を待っていた。一年前の型が70%オフになっていてお買い得だったのだ。

 コーヒーを入れようかと立ち上がると、そこでインターホンが鳴った。わたしはわくわくしてドアに駆け寄った。


「はい」


 いつもは一応誰かを確認して開けるんだけれど、このときはてっきり宅配だと思っていた。

 ドアを開けても、わたしの目の高さには何もない。ゆっくり目を落とすと、黄色い毛並みにぴんと立った耳をした獣がいた。

 狐……? 狐が訪ねてくることに心当たりがない。まさかこの狐が配送業者なのだろうか。


「あの、どなたですか?」


 わたしは困惑しながらたずねる。

 狐は前の片足をあげると、流暢な日本語で言った。


「申し遅れました。夏目珠希の母です」

「え、えええ」


 びっくりして腰を抜かしかけた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る