吸血鬼の春の夜

 走って逃げていく少女を追おうとした男の進路をふさぐ。彼は

対して抵抗しなかった。


「逃げちゃったなあ」

「少しは悪びれろ」


 彼はにっこりと笑った。美しい顔が街灯に照らされて、凄みを見せる。


「色欲すなわち生きること。吸血鬼にはちょっとはわかるんじゃない? これは生きるすべなんだよ」


 人の生気を食らう夢魔と、人の血を吸う吸血鬼は系統が似ているとされている。人に対するある種の「飢え」が俺たちを突き動かしている。

 少し沸いてきた同情を振り払い、できるだけ冷たく言った。


「とにかく、あの子には近づくなよ」

「えっもう帰っちゃうの?」


 あの子と同じように背を向けようとした俺を、夢魔は引き留めた。


「なんで引き留めるんだ」

「引っ越してきたばかりだし、この辺についていろいろ聞きたくて。あっ、僕は一色真っていうんだけど」

「たくましいな。おまえは」


 その神経が理解不能すぎて、だんだん毒気を抜かれてきた。これもインキュバスの能力なのか?

 一色はそのまま会話を続ける。


「この辺住みやすい?」

「まあ、普通じゃないか。そこそこ都会だから変な目で見られることも少ないし」

「そっかー」


 ゆるい会話にどんどん脱力していく。これは良くない。彼のペースに乗せられている。


「おまえはどこから来たんだ?」

「兵庫のほう。その前から言わなきゃだめ?」

「いや、もういい」


 闇の眷属がさまざまなところを転々とするのはよくあることだ。ほとんどが何かしらやっかいな事情を抱えている。例外なのは、その土地に根付いている日本に元々いた魔のものたちだろう。

 一色は、珍しいものを見る目で俺の顔を見つめた。


「でもこの町に、吸血鬼がいるってうわさを聞いていたけど、向こうからやってくるなんてね」


 その一言にぎょっとして、思わず居住まいを正した。口の中に嫌な味の唾液が広がる。


「……誰から聞いた」

「きみらは案外有名人なんだよ。何しろ日本に20人前後しかいないからね」

「そんなことはわかってる。参考までに聞いておきたいだけだ」


 一色は少し黙って、それから告げた。


「東京にいる吸血鬼だ。西洋人の女の子の」


 俺は頭を抱えた。


「マーゴ……」

「まご? ああ、マーガレットの愛称ね。彼女とどんな関係?」


 一瞬ためらったが、隠してもどうしようもないことなので答えた。


「俺の主人マスターだ」


 マーガレット・シュナイダー。アメリカから日本に渡った吸血鬼。

 そして、俺を吸血鬼にした張本人だった。

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