「生きている意味がないんです」

 お互いの進路が決まり、わたしたちは、近所のうどん屋で祝杯を挙げた。いや、お冷だけど。


「おめでとー」


 珠希はきつねうどんをすすっている。わたしはカレーうどんを頼んだ。いつの間にか彼女は油揚げを追加していた。


「しっぽ出てるよ」


 油揚げを前に興奮していたのだろうか。珠希は無言でしっぽをしまった。

 珠希はずるずるうどんをすする。


「もうしばらく文章書きたくない……」

「珠希の大学は記述式が主なんだよね」


 さらに小論文もあるから大変だ。


「マークシートだとハンデかかるからね」

「まじで」

「わりと勘とか、術で当たるから」

「怖い……」

「どっちが」


 珠希はわたしの顔をのぞき込んだ。

「なんか元気ないね」

「そんなことないよ」


 珠希はそれを聞いて、ごくごく水を一気飲みする。


「ごめんね」

「……なんで謝るの」

「ぶん太を見てるとなんか心配したくなるの」

「ありがたいときもあるけどね」

「大学生になってもまた会ってくれる?」

「うん」



「サークルどうするか決めた? 私はボランティア系のにしようかなって」

「えっ、似合わない」

「ひどい! まあいいじゃない。みんなで一緒に何かする経験積みたいけど、どうせなら世の中の役に立つことがいいなって」

「すごいまともなこと言ってる」

「ね、ぶんちゃんはどーするの」

「私は……」

 しばらく黙って、それから言った。

「大学デビューでもしようかな」

「何それ」


 塾の先生に合格の報告とお礼を言った。職員室を出ようとすると、河本さんが数人の学生に囲まれているのが見えた。

 人の頭ごしに目が合う。声を掛けたい衝動にかられたけれど、今は迷惑だろう。私はそのまま立ち去った。

 塾のビルを出て、前にあるベンチに座る。空はやわらかく曇っていた。季節は少しずつ春めいてきた。夜の空に植物のにおいがかすかに漂う。


「あやねさん」

「河本先生」

 顔を上げると、そこには河本さんがいた。くせ毛を無造作にかき上げ、何度か瞬きをする。


「何でしょう?」


 聞くと、河本さんはばつの悪そうな顔をした。


「いや、……何か言いたそうだったから。気のせいならいいんです」

「受かったんです」

「それは、おめでとうございます」


 わたしは、河本さんが声を掛けてくれたことがうれしかった。だから、もう少し甘えてみたくなった。


「少しお話ししていいですか」

「……場所を変えましょうか」



 河本さんが連れてきてくれたのは近所の公園だった。さびついたぶらんこにふたりで座る。

 ぶらんこは少し揺らしただけでぎこぎこと悲鳴を上げる。あまり揺らさないように気をつけながら、鉄のいすに体重を預けた。


「どうしたんですか?」

「何も」


 なんとなく告げた言葉が、ことんと心に入ってくる。それから結び目がほどけるように、するすると声が出た。


「わたしには何もないんです。やりたいことも、目標も、何も」


 曇り空の向こうにかすかに月が見える。淡く光るそれを見つめながら、私は語る。


「とりあえずお金がないのは困るから、進学して、就職して……でもそれだけ、それだけなんです。特別、なにかしたいことってずっとないんです。お母さん……母はやりたいことをやればいいって言うけど、わたしはそれが苦痛だった。だってそんなもの、最初からないんだから」


 話し終えてしまえば、きっと恥ずかしくなることをわかっていたから、私の言葉は冗長になる。


「とりあえず無難な道を歩いて、そんな自分が嫌になります。わたしは自分という者がない。生きている意味がないんです」


 最後の言葉は、言うつもりがなかったことだ。でもその言葉に、自分でぞっとした。わたしの中には、こんなに強い虚無が眠っていたのか。


 河本さんは静かに耳を傾け、しばらく考え込んでいた。


「そうですね、最初から、人生に意味なんかないですよ。みんなそうです。俺はたくさんの人が死んでいくのを見ましたから。

 大正に生まれて、いろいろな死を見ました。けれど今に多くを残す人というのはめったにいないんですよ。俺だけが死者を覚えているのが、不思議な気持ちです」


 河本さんは、軽く地面を蹴ってぶらんこを少しだけ揺らした。鉄と鉄が耳障りにきしむ。


「でも、思い出してみてください。本当にあなたの人生は何もなかったですか。……大切なもの、喜び、かけがえのない関係、そういうものはなかったですか?」


 見上げると、空に光が横切った。飛行機の光だ。そこではっと気づいた。


 わたしには友達がいて、家族がいた。彼らと話し、ともに歩き、生きてきたのだ。それは、「何もない」というにはにぎやかすぎた。

 そうか、人生というのは、過去にしかないのだ。意味なんて勝手な後付けにすぎない。

 そして今、わたしがこの人生に意味を与えればいい。「わたしは幸せだった」と。


 河本さんは口を開けて、また何か付け加えようとして、やめた。

 なぜなら私は号泣していたからだ。


「ええ?」


 河本さんはびっくりして教師ではない、素の顔になっていた。とっさに敬語を忘れていた。


「どうして泣くんだ!? 。すみません、説教臭いこと言ってしまって……」

「そうじゃない、ちがうの」


 私は説明しようとしたけれど、涙が止まらなくて、うまく伝えられなかった。

 あのときわたしはこう言いたかったのだ。


 河本さんに会えてよかった。

 わたしの家のとなりに引っ越してくれて、よかった。

 たとえこの恋が叶わなくても、今の気持ちだけは大切にしていたい。

 この気持ちさえあれば、わたしはきっと幸せでいられる。

 わたしに出会ってくれて、ありがとう。

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