5.あなたに出会えてよかった
「お母さん、私どうすればいい?」
センター試験の日は大寒波が来た。
もともと乾燥地帯ゆえ、雪を免れたわが町で、わたしは黙々とマークシートを塗りつぶした。
わたしと珠希は自己採点で目標点数を超え、胸をなで下ろした。だけど、ここからが本番だ。
試験の二日前、ここまで来ると何もすることがない。毎日のルーティンワークとして、過去問を解き、単語帳をめくり、基礎問題をこなすだけだ。
朝頃、メッセージアプリに、珠希からコメントが入った。
『どう?』
『なんかちょっと頭痛い』
『大丈夫? 最近天候不安定だしね』
『まあ、普通にしてたら受かるからなあ』
『はらたつ。がんばってね』
『うん。珠希も』
お互いの邪魔にならないよう短くチャットを終える。何気ない会話ができることがうれしい。
その晩、私は38℃の高熱を出した。
どのくらい眠っていたのだろう。
焦りも、不安も、高熱で鈍らされた頭ではっきりとは感じられない。ただぼんやりと、自分はもうだめなのかもしれないと思った。
物音がして目を開ける。ついたての影からお母さんが出てきた。
「お母さん、私どうすればいい?」
お母さんは、枕元のテーブルにマグボトルを置いた
「いいから寝なさい」
重たい体をなんとか持ち上げ、マグボトルに口を付ける。スポーツドリンクのお湯割りだった。
くちびるのかすかな塩気をなめとっていると涙があふれてきた。布団をまんじゅうのようにかぶり、ぐずぐず泣いていると、いつのまにか眠っていた。
きっちり時間通りに目覚めた。起きようとするとまだ若干体が重い。
急いで体温計を持ってきて、わきの下につっこむ。
「下がった……」
体温計の表示は36.8℃。なんとかなるだろう。お母さんが学校の担当者とかけあい、別室受験ができることになった。
お母さんはたんすから腹巻きとカイロ、ブランケットなどを持ってきた。
「仕事休めないから、送ってあげられないけど……最後までやりきって」
「うん」
その言葉に泣きそうになったが、泣いている場合ではなかった。泣くのはすべてが終わってからだ。
大学までの電車に乗る。冬の朝を寒々しい水色の空が覆っていた。朝日を浴びて光るガラス窓のひとつひとつを数えながら、私は電車の揺れに身を任せた。
大学のある駅に降りると、受験生を応援し、あわよくばサークルの宣伝をしようとする在校生がそこかしこにいた。人の多さに、気持ち悪さがよみがえってくる。つばを飲み込んで、必死にこらえた。
受付の人に受験票を手渡し、別室受験の部屋に向かうと、マスクをつけた少年少女が何人かいた。彼らも体調不良を引き当ててしまったのだ。
トイレの長蛇の列に並び、ことをすませたあと鏡を見た。まったくかわいくなくて、鏡を割りたい衝動に駆られた。。
机に戻ると無意識のうちに手が単語帳をめくっている。手癖になってしまった。
試験監督の指示があってテキストを片づける。試験問題が配られ、中身を見ないように丁寧に回す。
「では、始めてください」
狭い教室なのに、試験監督の声が、やけに遠く感じる。
ぼんやりする頭でなんとか問題を解いた。
出かける前に飲んだ風邪薬のせいで、試験中に眠ってしまいそうになる。ふとももをつねってこらえた。
早く終わってしまえばいい、と解きながら考えた。恐ろしいことに、1年間染み着いた回答欄の確認や、マークシート部分をきれいに塗りつぶすことは、無意識でもできた。
「回答をやめてください」
試験監督が最後に声を掛けたときには、外は暗くなっていた。
その夜、私は熱がぶり返してまた寝込んだ。
電話機で受験番号を入力し、自動音声で合格通知を聞いた。
パジャマ代わりのスウェットのまま、スマホを握って、しばらくぼんやりしていた。やっと気を取り直して母にメッセージを送ったときには、30分が経っていた。
お母さんはすぐに電話をかけてきた。
『おめでとう! 何食べにいく? 焼き肉?』
「でも、もう授業料の減免枠は狙えないんだよ」
それは自己採点でわかっていたことだった。あの点数では、受かるのもぎりぎりだったと思う。
『まあいいじゃん、受かったんだから。奨学金もあるし。母子家庭はいろいろ選択肢があるから……』
母のなぐさめも、今は白々しく聞こえる。
珠希が言ったことが頭によみがえる。わたしはその気になれば、もっと上の大学にも行けたのだ。きっとそのことがなければ、もっと純粋に受かったことを喜べたと思う。
でも、口に出してしまえば、それはあまりにも……傲慢だ。
「何も食べたくない」
『ぶんちゃん』
電話を切り、マットレスに横になる。もう学校の授業は終わっていて、あとは卒業式だけだ。何もすることのない毎日はひどく長く感じた。
しばらくそうしていると、まぶたの裏にある人の顔が思い浮かんだ。
それは河本さんだった。
会いたい。
でも会って何を言えばいいんだろう。減免枠に入らなくて悲しい? 祝ってくれとお願いする?
そうじゃない、もっと、聞いてほしいことがある気がする。けれどその言葉が、うまく言葉にならない。
彼に告げる言葉を持たないまま、ただ、顔を見たいという気持ちだけがふくらんでいった。
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